普通な生活 普通な人々

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「自由主義」の本当の意味

2012-03-18 13:02:42 | まあまあ社会<的>な
 考えることはたくさんある。やることもたくさんある。
 考えることは他人には見えないから、口に出したり実行したりしない限りは、自由だ。
 だが、やることは自分でこっそりと誰の目にも触れずやらない限りは、決して自由ではない。

 戦後教育を受けて自由の意味を、現代の日本人はまず自分の立場に立って考える。自由という言葉の本質を個に引き当てて考えるように教えられてきた。
 それが一番自然だと考えてきた。個人主義の自由主義。

 だが、それはほんとうだろうか? 日本には元々自由という言葉も発想もなかった。free、libertyという外国語に対応する言葉として、明治以降に作られた言葉だ。士農工商という身分制度が厳然とあった日本には、そこから逸脱する自由さえなかったのだ。
 それが戦後教育の中で、とってつけたように自由という言葉が「自由」気侭に自己主張し始めた。

 もう少し考えてみよう。自由という言葉の意味をwikipediaでみると「両者の共通点は、現在的意味合いの自由とは異なる意味で用いられた点である。freedom および liberty の用法にも残っているが、近世までは<特権>を意味する語であった。<民衆の持ちえない権利を有している>状態が freedom または liberty であった。1729年に出版された辞書によれば、権利付与や時効によって得られる<高貴なる者の特権>と定義され、但し書きで『一部で、各人が思うように行動できる力という意味でも用いられてきている』と言及されている」と書かれている。

 実はこの理解こそ、「自由」という言葉の本質であり、いま流布している「自由主義」という言葉の本質なのではなかろうか。

 少し考え方を変えてみよう。この「自由」は誰の自由なのかということだ。そして良く考えてみると、決して自分の「自由」でないことだけはわかるだろう? そして主義としての自由、パブリックな自由などというものもないことが分かるだろう。それは「勘違い」なのだ。
 
 では誰のどんな自由なのか?

 一握りの特権階級が、人々を自由に使役する「自由」、と考えると実にすっきりする。
 つまり一般人は「自由に生きている」と思わされているだけで、決して自由ではない。それは自分の周囲での不自由さを考えてみればよく分かることだろう。

 我々が知っている「自由主義」という言葉の本質は、人を支配する自由を持っている<高貴なる特権を持った者>のアイデンティティ表明というだけのことなのだ。

 そんなろくでもない考え方、という人もいるだろう。

 だが、考える自由を駆使して考えれば考えるほど、残念ながらこうした結論に達する今日この頃……。
 今日は、ここまで。
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