普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

TVは、むしろ極悪?

2014-04-23 16:54:19 | まあまあ社会<的>な
以前にも書いた記憶があるが、テレビの草創期から70年代までは、優れた情報メディアだった。

メディアとしてのテレビの発達は、先行のラジオと共に大容量、しかも無料の電波情報メディアとして、それ以前の活字メディアなどを駆逐する勢いだった。

活字メディアは、テレビの発達によって、現在にまで至る構造不況の負のスパイラルに陥った。

だが、そこはメディア同士のもたれあいというか、ある種不可侵の馴れ合いというか、壊滅するまでには至らない、手心があった。例えば、事件などのより深い取材・解説などは活字に任せ、テレビなどはその速報性や現在性をと、住み分けをしていた。

そこには、民間レベルでの相互理解が働いていた。

それが、地デジ化により、すべて吹き飛んだ。

あの地デジ化は国策として一方的な無理強いに近い形で実行された。地デジ化によってNHKの国営放送化は聴取料の義務化でより強化され、テレビはデジタルの双方向性という特質を悪用し、明らかに国家の国民管理の道具と成り果てた。

システムとし道具化するということは、その内容もまた、管理されるのは自明の理だ。

しかも多チャンネルとなり、テレビは内容ではなく単に時間を埋めるための番組作りを余儀なくされることになった。あの物売り番組ばかりのCHなど、その最たるものだ。

そこには正気の制作者がいても、まともな番組作りなどできない環境しか存在しない。スポンサーの顔色をうかがい、視聴率だけが頼りの、視聴者に何かを資することなどない、視聴者をバカにし切った世界。

ということで、テレビはついにその存在意義を失った。

そのことは、各局が自前の番組、他メディアでの制作物の宣伝に血道をあげ、手前ミソの番組ばかりが出来上がっていることひとつとってもはっきりとしている。

屹立した存在意義を持つような番組制作は回避され、ばかばかしいお笑い番組ばかりが幅を利かせている。人に対する悪口に近いあだ名をつけるタレントが、億という金を稼ぐようなさらにばかばかしい世界、テレビ画面の向こう側だけで成立し自己完結するという、度し難い世界がまかり通っている。

中途半端なお笑いタレントが、まるでこの世の成功者であるかのように吹聴し、不遜ともいえる態度でいることが、どれほど風変わりで異常な世界か、本当は誰もが知っていたはずなのだが……。

結局、多くの人々の夢であり、現実を伝える民衆の道具であったはずのテレビは、人事不省に陥り、人々の愚民化と恐ろしいほどの無能化を促進する、むしろ「悪」に成り果てた。

テレビよ、お前はすでに死んでいる! とでも言おうか。

もはや世界の終りが迫ってきても、嘘八百を国民に伝える道具に成り果てて、いまさら、正気には戻れないだろう。

テレビは嫌いではないが、本当のところ、いまは極悪だ。
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内なる革命

2014-04-19 01:56:45 | まあまあ社会<的>な
ある方から、「あなたは革命についてどう思っているのか?」という問いかけがあった。非常に難しい問いかけで、すっと答えられはしないのだが、それでも試みに……。

なによりもまず、革命という言葉の意味を、ボクたちは意外に知らない。

東洋的には、中国の易姓革命的概念がまずくる。それは王朝の交代を示す言葉であり、西洋的な「古い概念(例えば政治秩序)の破壊と、新秩序の構築にいたる急激な変革」といった意味とは異なる。

西洋的な革命とは、ヘーゲルの弁証法(テーゼ→アンチテーゼ→アウフヘーベンしてのジンテーゼ)に端的に言い表されているように、何者かによる既成の価値に対する変革であり、何者かによる改革なのだが、その改革・変革をもたらす主体者が何者であるかが、大きな問題になる。

近世以降は、革命と言えば一般的に「共産革命」あるいは「民主革命」、「市民革命」を意味するようになった。いずれも王侯・貴族・ブルジョアジーらの既得権益を破壊する働きを持っていて、その主体者は市民、あるいは民衆ということになった。西洋的な革命とは、端的に言えば抑圧するものへの被抑圧側からの反乱という意味合いが強かった。

だが、革命を単純に「激的な変化」ととらえれば、日本でも近世以降何度か革命は起きている。もっとも劇的で激的だったのは第二次世界大戦後の変革だろうか。

ただ、その革命=変化の主体者は、日本国内の勢力ではなかった。それが良かったのか悪かったのかどうでもよかったのかは別にして、アメリカ主導による「日本の民主化」という名の無意識領域の変革も伴った政治、経済、教育・文化など、およそ人の営みすべての、徹底的な破壊と再構築が行われたのだった。

それ以前にも日本の西洋化、世界化を果たす端緒となった明治維新もあったが、これとても変革の主体者は、決して民衆ではなく、尊皇攘夷派という大きな政治勢力による領導だった。だが、激的な変化という意味では、明らかに革命だった。

革命をもう少し狭義の西洋的民衆革命と理解して、そうした運動が日本にあったかと問われれば、あったと答える。

それは、60年安保から70年安保へと引き継がれていった、学生・労働者を主体とした左翼勢力による反米・反戦、反権力(自民党などの右翼政治勢力、大企業などのブルジョアジー等)闘争がそれだった。

ご存じのようにこの闘争は、半ば自壊といった形で頓挫・崩壊した。成功を収めなかったという一点で、革命とは呼べない。だが、西洋革命的要素は満々としてあった。

こうしたポリティカルな組織だった変革を「革命」と呼ぶ場合が多いのだが、実は「革命」とは本質的に個々一人ひとりの営為と考えることが重要なのではないかと、後々は思うようになった。

内なる革命、である。

そしてこの内なる革命こそが、おもしろい。

「男子三日会わざれば刮目して見よ」という、三国志演義に登場する呉の呂蒙の言葉があるが、まさにこれこそが、内なる革命を端的に言い表した言葉。

最近のイギリス&アイルランド出身のPOPグループ=ワンダイレクションの登場するTVCMでも、「三年前の自分は平凡な少年だった」みたいなことを言っている。

もっと言えば、内なる革命は瞬時に起こる。三年、三日どころか三秒もいらない。そこに生命のダイナミズムがある。

変わる! そう決意した瞬間に人はすでに変わっている。それを革命というのだ。

革命とは「生命の変革」、そう理解するのがもっとも良いのではなかろうか?

異論も反論もあるだろうが、これがボクの、最近の革命論。
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「自分で決めたことだから」…なんて不条理な…。

2014-04-15 13:16:55 | まあまあ社会<的>な
以前に同じようなことを書いた。もう一度。

世界は意外に単純な仕組みで支配されている。思ったよりも簡単な仕組み。
もっと言えば、より単純化することで支配の効率を上げようと、支配する側は日夜腐心している。
彼らの仕事のほとんどは、それを考えること。
そして、支配される側にそのことを気付かせないよう、支配の方法論は覆い隠される。

だから、多くの人々は大抵の場合、自分が誰かに支配されているなどとは、毛筋ほども考えない。自由に生きていると確信し、疑いもしない。

一番便利な支配のための言葉がある。

「自分で決めたことだから」

これほど支配に都合のいい言葉、支配される側に植え付けると便利な「思い込み」はない。

人は何かを決断しなければならないことがある。のほほんとしていたいのに、二者択一を迫られる。「生」と「死」の分岐点でも。

時には初めから死を選択するように決められている場合もある。かの太平洋戦争中の特攻隊員のように。それでも、納得せざるを得ない言葉がこれ。

「自分で決めたことだから」

完遂しようと人々はあがく。だから支配する側は何をする必要もなく、眺めているだけでいい。

歴史を、支配の方法論の変遷とみることもできる。暴力的な獣性による支配から、論理的な仕組みによる方法論への変遷。

この世の中の仕組みを、60余年生きてきて、ようやく理解した。

簡単に言えば、
①誰が誰を管理するか?
②何を使って管理するか?
③いつから始まったことか?
④今はどういう形でそれが行われているか?
⑤どこを見ればそれがわかるか?

簡単に言えば、こんなことがわかるとこの世の中の仕組みのほとんどが瞬時にわかるという話だ。
それがわかるということは、やろうと思えば、その仕組みを壊すなり、入り込む方法を見つけるなりはできるということ。

ただし、やろうと思えば、だ。相手は巨大すぎて急所も見えない。

ただその相貌は、時々、具体的に書いていこうと思う。
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忘れてはいけない。

2014-04-14 23:30:54 | まあまあ社会<的>な
写真を整理していたら、3.11から5日後に撮った写真が出てきた。

蝋燭の灯りで食事をしている我が家の写真。



あの時、電力危機と言い計画停電なるものが実行された。

その計画停電の時の我が家の様子だ。

今考えれば、何だったんだろう? どう考えても全く不要な停電措置だったとしか思えない。

真っ暗になりおおせた、信号すら点かない漆黒の闇の道を、おっかなびっくり車を運転した記憶もある。

ただ人々の不安と恐怖と焦燥感を、いたずらに増幅させただけの実も蓋もない愚策だった。

東南海トラフ地震、首都直下型地震の起こる確率は、70%を超えるらしい。

もしこれらの地震が起きたなら、こんな蝋燭パーティーのような塩梅ではすむまい。

人々の心根はどんな方向に振れるのか? 破壊は人々に何をもたらすのか? 空恐ろしい気もするのだが、存外、思うほどには極悪非道なことにはならないかもしれない。そこはわからない。

なんだか世界中で地震が頻発している。それもM6以上の地震。発生地点を眺めていると、太平洋をぐるりと囲んでいるような印象も受ける。

なにか、不気味なものを感じるのはボクだけではないだろう。

心しよう、お互い様に。
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クラス会。

2014-04-13 22:29:58 | 普通な人々<的>な
今日は、クラス会。昼から新宿の楼外楼で。

なんのクラス会かというと、小学校の。

誰も信じない。

先生も健在。50人ほどのクラスのメンバー中、26人が集った。

アンビリーバブルだ。

先生は86歳。これが最後のクラス会にしようということで、皆集まった。

色々あるのだ。

いいなぁ! なにか腹の底から沸々と暖かい。

誰もかれもが、50年前と同じように立っている。笑っている。

皆それぞれの思い、生き方、人生を経て、それぞれの顔になっている。

男も女も、それは美しい。

良い一日だった。



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故郷・島根県のこと。

2014-04-12 13:56:23 | 普通な人々<的>な
高度経済成長期には、日本の最過疎県の一つとして、ほとんど脚光を浴びることもなかった島根県だが、この2~3年、妙に注目を浴びている。

島根県はボクの生まれた場所であり、他の道府県よりは愛着がある。すでに60年という長きに亘り住居している東京への愛着はそれなりにあるが、島根県への憧憬は曰く言い難いものがある。

すでに縁ある親戚も知人もほとんどなく(よしんばあったとしても、記憶にないのだ)、故郷・島根への思いを支えているのは、ただただボク自身の4歳までの記憶だけなのだが、その記憶は鮮明で、忘れることはない。

それはさておき、近年の島根県への注目は、一つは竹島問題であり、もう一つは昨年行われた60年に一度の出雲大社の遷宮に関わるものだった(ボクは今年65歳になるのだが、4歳の時に家族共々島根から東京に移り住んだ。してみると、前回の遷宮の時にボクは島根を離れたことになるのだな!)。

竹島問題と出雲大社は、一見何の関係もなさそうだが、ボクの中では非常に近接したものとしてある。

それは古代日本の国譲りと、深く関わる。

ボクの中では国譲り神話は、土着の縄文系住民と大陸或いは半島からの移住民である弥生系住民との覇権争いの結果惹起した、非常に現実的なパワーポリティクスというか、権力の平和的移譲という事実としてある。

土着の大国主命(=大物主命)から、大陸からの移住民である天孫系の先遣隊長とでもいうべき建御雷神(タケミカツチノカミ)に、出雲大社の建設を条件として「国譲り」を承諾するのだが、2014年という、その出雲大社遷宮の年に、半島からあからさまな竹島という「国譲り」の恫喝が激しさを増したのは、なんだか偶然とは思えない(尖閣列島も同じだ)。

現在の日本は、天孫系の人々の末裔が司る国家。一見、国譲り神話の建御雷神以前に国津神・大国主命の存在としての大きさに帰順してしまった天菩比神(アメノホヒノカミ)や、天若日子(アメノワカヒコ)等のように、同化しているような側面もある。だが、現在の大陸・半島からの恫喝に対しては、かつての国津神のような立場になってはいるが「平和的移譲」など端から考えない。なにしろ自分たちも、かつて国を奪い取った側だから。

もっと言うと、日本の中に大陸や半島の恫喝を積極的に受け入れようという勢力すらある。それもやはりかつての大陸・半島系の末裔であろう。内応とでもいえるか。

同じ大陸・半島系の末裔が、両極に分かれ存在しているのが、今の日本。その中にあって本当の「平和的」解決を模索しているのが縄文系の末裔。そんな区分けができるように、ボクは思う。

国譲りの舞台は奇しくも出雲=島根県。そしてボクの故郷。言ってみれば最大の国(=出雲)難に、ボクになにができるのか? ちょっと考え始めているのだよ。

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小保方さん。

2014-04-10 22:27:04 | 極端な人々<的>な
「STAP細胞はあります」

この一言の切れの良さは、小保方さんの強さと、理研に対する怒りを明確に表明していた。

失いかけた信頼を、少し押し戻せた感がある。

正直なところ、今回の騒動に関しての理研の反応は、誰に対しても不誠実なものだった。ことに身内である小保方さんに対しては。

まず、小保方さんの記者会見に、理研関係者が同席すべきではなかったか。自分たちの組織の一員が関わる問題に、まるで他人事のような対応ではなかったか?

初めからトカゲのしっぽ切りのような感覚で、厄介者となった小保方さんを切り捨てるために、あれこれ工作をしていたのではないだろうか。

例えば、この2カ月間、小保方さんがまったく表に出てこなかったのは、おそらく小保方さんに対して理研サイドが、「組織として対応するから、お前は何も言うな」と口止めをしていたように感じられるのだ。もし、そうだったとすれば、普通は小保方さんを守る。よしんば守ることができない状況になっても、小保方さんと同じレベルで、社会に対して責任を取るスタンスくらいはとるだろう。

それが、小保方さんの記者会見を見聞きした限りでは、理研は小保方さんの研究成果であるSTAP細胞を「ないもの」とあらかじめ想定し、ないものなのだから研究論文は悪意のある「不正なものであり捏造である」と、決定的な断罪をしたと、小保方さんは理解しているようだった。

それは小保方さんの研究者生命を断つものと言える。

それは口止めされ、弁明の機会を作れなかった小保方さんへの決定的な裏切りだったのだろう、小保方さんは記者会見で悔しさをにじませていたように思う。

そして少し翻って、世界中からのバッシングの根底にあるものを考えてみるに、それはSTAP細胞のもつ圧倒的な利権と大きく関わるのではないかと思えてきた。

諸論あるだろうが、巷間言われる小保方さんサイドの利権ではなく、強大な別の組織あるいは研究機関の利権を、小保方さんの論文発表が先行することで侵したのではなかろうか? 俗に「虎の尾を踏んだ」ということなのではないか?

 そうでなければ、一人の女性研究者を叩くにしても、これほどのバッシングにはならなかっただろうと思えるのだ。しかも、研究成果まで「捏造」呼ばわりだ。単純に考えれば小保方晴子は存在してはならない。従って、その研究成果もあってはならない、と誰かが言っているように思えて仕方ない。

これはボクの推論だが、近い将来、小保方さんの研究によく似た、イージーな万能細胞作成技術が、製薬会社の息がかかった研究者から発表されるに違いない。

理研はその勢力を恐れている。だから小保方さん潰しにも手を貸している。実証実験・研究に小保方さんを参加させないのがその証拠だ。彼女しか知りえないブラックボックスがあることが分かっているにも関わらず、彼女を参加させずにSTAP細胞作製の再現実験などできるはずもない。それは初めから存在を否定するための、予定調和の再現実験なのだ。

ちなみに、「インディペンデントで再現実験に成功した人がいる」と聞いた記者が、「誰か?」と詰問していたが、ほとんど間抜けな記者だ。応えられるわけがない。また答える必要もない。その人が、どんな憂き目にあうか分かりきっているのだから。取材者が殺到し、まともな生活も送れなくなる。悪くすれば小保方さんの共犯者のように扱われ、研究者生命すら奪われかねない。

共同研究者(敢えて名前は書かないが)が、小保方さんに反旗を翻したのも、自分の研究者生命を守るためだろう。それはそれでやむを得ないのかもしれない。だが、その裏切り行為は、必ずやいつか自分に跳ね返ってくることだろう。

ここまで来ると、STAP細胞をめぐる魔女狩りのような雰囲気だ。

初めから魔女と決めつけられた裁判ほど残酷なものはなかった。弁明も許されず、予定調和で死にまで追いやられる。

そういえば、魔女狩りの本当の理由は、教会が、公に人々から財産を奪取することが大きな目的の一つだったのではなかったか。

同じようなものなのだろうな。

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何故巨大な企業が生まれるのか?

2014-04-02 23:04:32 | まあまあ社会<的>な
巨大な企業が生まれている。若い億万長者も生まれている。

何故億万長者や、巨大な企業は誕生するのか?

理由はとても簡単なことで、要は本来の価値にどれだけの価値を上乗せして売ることができたか、という単純なことだ。

10円のモノを11円で売っても1円しか儲からないが、本来は10円であるにもかかわらず200円で売れば190円儲かる。

①この190円という金額は、10円のモノを19個作る(用意する)ことができるということで、単純に考えれば次の段階②では10円のモノを19個作って売ることができる。するとすべて売れれば、3800円の売り上げで、次に10円のモノは380個用意できる。これもすべて売ることができれば、③76000円になる。だから次のステップ④では7600個用意できるわけで、総売り上げは1520000円になる。そして次のステップ⑤では……152000個のモノが用意でき、すべて売り切れば30400000円が手に入る。さらに無駄使いせずすべてをモノに変えれば3040000個のモノが用意でき、すべてを売り切れば、たったの⑥ステップで608000000円が手に入る。

608000000円を見やすく直せば、6億800万円だ。この段階までくれば、200円で売っていたものを100円にコストダウンしても、富を生み続ける。

もちろんこれらのことをするには、営業力、宣伝力、設備投資、販売力、危機管理……といった経営のあらゆるノウハウが必要であり、ことはそううまくは運ばないのだが、考え方としては間違いではない。

なにを言いたいかと言えば、世の中で、金を得ることに成功している人や組織は、いかに人に気付かれずに、臆面もなく必要以上の価値を上乗せして人々に売りつけているかということだ。

もっと嫌な言い方をすれば、金を生むということは人を騙すということと同義語だ。

貧乏人は、人を騙すことができない人と言ってもいいかもしれない。10円の価値のモノは、せいぜい20円くらいでしか、怖くて売れないから。人を騙すことになりそうな気がしてね。だからその日暮しになる。せいぜい家を建てるくらいが成功の証だったりする。

貧乏は良いものではない。だが人を騙すよりはいい。それだけのことだ。


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