普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

s-kenと会う

2017-10-25 00:56:58 | 音楽にまつわる話<的>な
先週、20日の金曜日。夕方からs-kenの事務所を訪ねた。久方ぶりに会う。

用件は、s-kenの書いている本に関して、情報の整合性を分かる範囲で伝える目的。

s-kenは原稿を書き上げて、使う写真の整理にまで着手している。大変な労作業だが、年齢を感じさせないパワフルさで、前のめりに事に当たっている。

なぜだか、昔話に花が咲いた。

ボクがs-kenと知り合ったのは、22歳の時。彼の結婚披露宴の時だった。s-kenの結婚相手がボクも仲の良い、小学校の同級生の女性だったから。

それ以来、間は空くが45年以上の付き合いになる。

ボクがロッキンFの編集者になったのも、s-kenとの関りがあったからだ。東京ロッカーズも編集者として影ながらバックアップしていた。

フリーになってからも、一緒に本(ソニー出版の『PINHEAD』)を作ったりもした。

話していて、もう少し以前から一緒に話ができていればよかったなと、思った。

お互いに歳を取ったが、なにかしら、いまさらながら浅からぬ接点を感じたわけだ。

好きな本も似ている。

時々連絡を取り合って話をしようということになって別れた。

今度はゆっくり酒を飲みながら、あんなことやそんなことを縦横無尽に話せたら良いなと思いながら、帰りの電車に乗った。

良い感じの一時だった。

コメント (2)
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東京「昭和な」百物語<その32>唄2

2017-10-16 23:47:47 | 東京「昔むかしの」百物語
思い出すたくさんの、戦後すぐの歌謡曲。

傷痍軍人の姿を横眼に見ながら渋谷の恋文横丁、新宿の小便横丁、ゴールデン街、銀座の柳に並木通り、数寄屋橋、日比谷公園、日劇、上野アメ横、あちこち行きまくった。
ラジオに耳を傾ければ、不安定な音声、音曲の向こうに、「新諸国物語」や「ヤン坊ニン坊トン坊」に、「私は貝になりたい」なんていう日本初のテレビドラマもあった。「光子の窓」などと言う番組もあった。草笛光子が魅力的だった。子どもにはグラマラスで刺激的だった。

「お富さん」  春日八郎
粋な黒塀、見越しの松に、婀娜な姿の洗い髪~
「熊祭(イヨマンテ)の夜」 伊藤久男
イヨマンテ~燃えろ篝火~
「桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン」 渡辺はま子
サンフランシスコのチャイナタウン~
「上海帰りのリル」 津村謙
リ~ル、リ~ル、どこにいるのか、リ~ル~
「高原列車は行く」 岡本敦郎
汽車の窓からハンケチ振れば、牧場の乙女が花束投げる~
「君の名は」  織井茂子
君の名はと尋ねし人に~
「おーい中村君」   若原一郎
おーい中村君、なーんだい三郎君? いかに新婚ほやほやだとて~
「コーヒールンバ」 西田佐知子 
昔アラブの偉いお坊さんが~
「アカシアの雨がやむとき」 西田佐知子
アカシヤの雨が止むとき、このまま死んでしまいたい~
「ガード下の靴磨き」  宮城まり子
赤い夕陽がガードを染めて、ビルの向こうに沈んだら~
「星の流れに」  菊池章子
星の流れに身を占って、どこをねぐらの今日の宿~
「テネシーワルツ」  江利チエミ
想い出懐かし、あのテネシーワルツ~
「ミネソタの卵売り」   暁テル子
ココココこコケッコ~、私はミネソタの卵売り、町中で一番の人気者、つやつや生みたて買わないか~卵に黄身と白身がなけりゃ、お代はいらないココココこコケッコー~

昭和20年代、30年代の歌謡曲。ボクが好きでよく歌った曲Best10+α。本当はもっとある。
どういうわけかほとんど歌詞もうろ覚えだが覚えている。
今聞き直し歌詞を見直すと、なんとも明るく心の弾む曲が多かった。
明るい曲も多かったが、「死」「貧しさ」といった切実な言葉も普通に使われていた。

昭和歌謡は、実に心の奥底に張り付いたまま、60年をボクの心のママ生きている。
凄いものだな。

暁テル子の「ミネソタの卵売り」は、忘れようにも忘れられない、ボクの中ではナンバ―ワンに素晴らしくポップな唄だった。

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東京「昭和な」百物語<その31>自衛隊

2017-10-10 23:39:35 | 東京「昔むかしの」百物語
(今日本の置かれている地政学的な立場を見るに、自衛隊が自衛隊のままで良いのかという、国家としての根源的な問題を真剣に考えなければいけない時のような気がします。

というような大仰なことではなく、2014年8月23日に昭和の時代に経験した自衛隊にまつわる思い出を書き留めた原稿があったので、再録します。
以下のものです)

ボクの父は、そこそこに名の知られた人だったのか、ボク自身は幼かったこともあって詳しくは覚えていないが、政治家先生の選挙などにもそれなりに力を貸したりしていたようだ。

父の口から聞かされた記憶のある、関わりのある政治家の名前といえば、島根の竹下登、岩手の志賀健次郎、志賀節・父子、青森の津島雄二などと言った代議士の名前だった。

ボクがよく覚えているのは、志賀健次郎。彼は昭和37年7月~38年7月に防衛大臣を務めた。そしてその任期中の自衛隊観閲式に父と一緒に参加したことがあった。

敗戦後まだ17~8年の頃の軍事装備を、小学生だったか中学生だったかのボクは、きっとキラキラと目を輝かせて見ていたに違いない。

そして問題はその観閲式の場所だ。おそらく今では朝霞などの自衛隊駐屯地で行われているのだろうが、ボクの記憶が間違いでなければ、昭和37年の自衛隊のパレード、観閲式は千駄ヶ谷の絵画館前だった。

今ではデート・スポットとして有名な絵画館前を、軍隊と呼べない軍隊が当時の最新装備を誇らしげに掲げながら、パレードしていたのだ。おそらく、戦後初の陸自最高装備と謳われた国産61式戦車なども、そこで実物を見たかもしれない。

その自衛隊というキーワードで、一つ思い出す苦い思い出。

それは昭和37年の観閲式を遡ることさらに5年、ボクが小学校2年のこと。当時は板橋区上板橋に住んでいた。小学校は文京区立窪町小学校に通っていたから、学校が終わり地下鉄の茗荷谷から池袋経由で東上線の上板橋下車、商店街を抜け、川越街道を渡って家にたどり着く。

だが、その日は学校からの帰り道、お腹が痛くなった。それでも家まではもう5分も歩けば辿り着く、と思った。

トイレに行きたいのを我慢して、もうじき家に着くその前に、川越街道を渡らなければならない。渡れば1分もかからない。

信号などという洒落たものなどまだそれほどなく、交通量もそれほどではない時代。普通に川越街道を渡れれば、なんということもなくトイレに駆け込めるはずだった。

それが!

あろうことか川越街道を大挙して戦車部隊が移動しているではないか! 自走砲やら装甲車の類まで、延々と東京の都心方向に移動していく。ボクのお腹は、残念ながら10分耐えるのが精いっぱいだった。おもらし。悲しくて惨めで、しばらく立ち上がれなかった。

ようやく川越街道を渡れたのは、おそらく20分ほど経ってからだったろう。

泣きながら帰宅したボクの有様を見て、母は「あらま」と言っただけで井戸端できれいに洗ってくれた。何も言われなかったことが、本当に救いだった記憶がある。

思うに、あの戦車の隊列は、間違いなく観閲式に向かうものだったに違いない。

思い出はここまで。

(今、自衛隊は災害救助などで国民との接点を持ち、組織として大きな理解を得るに至っているが、昭和の時代には戦後の日教組教育の中で、歪んだ国軍のイメージを植え付けられていた。教育は必要不可欠だが、誤った教育、バイアスのかかった教育は怖い。日教組教育は軍備は悪しきものというスタンスが顕著だった。戦前戦中の国家神道、軍部主導の悪しき前例を完全否定したといったところだ。だが本当にそういう教育でなければならなかったのか? ボクは実のところ、今の韓国とは真逆の自虐史観を押し付けられたように感じている。そして自分の所属する国家を否定するという歪んだ歴史教育を受けたと思っている。

自衛という軍のあり方は決して間違ってはいなかったとは思うが、世界は刻々と変化している。その変化は思いもかけない形で自衛というスタンスで居続けることを許してくれない状況を作り出す。その時に、自衛にこだわり続けることは果たして正しいのか? そこを真剣に考えなければいけない状況が、目の前にあるような気がしてならない)
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日●の微妙な問題

2017-10-08 01:49:25 | こんなことを考えた
政治的な問題に関しては、ここで書くのは止めようとずいぶん前に決めて、実際書いていない。
政治的な問題ほど、個人の営為でぶつけ合う意見の導き出す結果が不毛なものはないからだ。

本来は有意義な意見のぶつかり合いが、弁証法ではないがアウフヘーベンされて新しい価値を生むということにでもなれば良いのだが、そんなことは99%なくて、いつしか相手を罵り合う結末で幕引きになることがほとんどだ。

世界を見れば、誰かからのひょっとしたら有意義な意見にも耳を傾けることなどできない、いやしたくないと思っていそうなリーダーが多い。そういう輩は「武力」の時代には独裁者と呼ばれたものだが、「経済」の時代である今は、トランプもドゥテルテも習近平も、ヨーロッパのメイもメルケルも、名前が出てこないフランスの若き大統領も、東欧と呼ばれた地域の今の指導者も、中南米、アフリカ諸国の元首、そしてそしてプーチン君も金君も、独裁者とは呼ばれないが(金君は例外ね)、みんな揃いも揃って、人の意見に耳を傾けられない連中だ。

それはある意味個人の資質プラス上り詰めた立場、との相乗作用によるものということなのだろうが、そうではない輩もいる。

自分たちでねつ造し積み重ねた歴史の呪縛から逃れられず、それが世界史の中で当然と受け取られなければ気が済まないところまで立ち至った国の元首だ。どこの誰とは言わないが、歴史のねつ造が、思いとは裏腹に自国民をどれほど世界から孤立させているかにも気が付かない。よしんば気づいていたとしても、呪縛からは逃れられず道筋を変えることもできない。

しかもあろうことか交戦中の相手を賛美しかねないほどの政治音痴ときている。

タイトルに「微妙な問題」と書いたが、実際問題「微妙」でも何でもなくて、そういう輩の矛先が自分に向かっていることの不愉快さ、不快さが問題なのだ。

昔、千葉だったかどこかに「布団叩きおばさん」と呼ばれた女性がいたが、地政学的にはまさにあれです。「布団叩き●●」が隣りに済んでいる感じ。

そして困ったことに、「おばさん」の時のように「警察」は動かない。だから「おばさん」自身が自分で気づくまで終わらない。世界に「警察」はいないからね。

ボクはこの問題に関しては、耳を塞ぎたい。そうして「おばさん」が自分で気づくか、自滅するまで待ちたい。

急にね、そんなことを考えてしまったのです。

本当のこと言うと、夢に見ちゃったんですね、この微妙な問題のことを。

ボクはそんなにこのことを気にしていたのかと思ったわけです。で、一言申し述べておこうと思ったわけです。

ちなみに夢では意外な方法で解決しそうだったんですが……。やばい、忘れました。
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