普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

誕生日前後

2018-07-29 22:43:13 | 普通な生活<的>な
毎年書くことですが、誕生日前後には何かが起こります。

体調の変化、生活の変化、人間関係の変化などなど。

それは、やはり今年もそうなのでありまして、10日ほど前には足の裏が突然切れて、歩きにくくなり、この木曜日には校正の仕事中に突然悪寒が襲い来たり、校正の赤を入れるどころか自分のサインも書けず、それから足掛け3日間、体温は40度近い推移で12号台風の接近にリンクしているような印象でした。

台風一過の本日は、平熱に戻っております。何だったのでしょうか?

年齢を重ねると様々な症状の病を経験するものですが、今回の高体温は記憶にありません。

実は悪寒を感じた仕事場では、医者だの救急車だのといった話も出ましたが、あの環境で医者に行けば「熱中症」と端から決めつけられ兼ねないので、固辞しました。

全然自覚症状違うし。

早退して、しっかりした足取りで地下鉄にも乗り家まで帰りつきました。

頭には何のダメージもないのですが、体温だけは高く、少し変な感じの3日間でした。

本日からまた仕事に復帰します、です。

一段落?

2018-07-25 01:20:54 | 極端な生活<的>な
2018年は、色々と破天荒な日々が続いています。

皆さん、40歳以上の方はきっと、梅雨明けの時期を1学期の終業式前後、つまり夏休みに入るか入らないか頃と記憶しておられるのではないでしょうか?

今年2018年の梅雨入りが何時で、梅雨明けが何時だったか、覚えていますか?

あまりに異様で覚えているという方も多いことでしょう。

梅雨入り、関東甲信越は6月6日でした。これは、まあ普通。

梅雨明け、関東甲信越は6月29日でした。およそ3週間は早い。

梅雨明け以降、それこそ毎日が夏日で、ことにこの1週間は「生命に関わる危険な暑さ」だったそうです。確かに今日までに70人近い方が、熱中症でなくなっています。「災害」と呼ぶほどの暑さです。

意外に皆さん忘れているようですが、まだ7月です。

暦の上では確かに、8月に入ればお盆前後から残暑と言われるのですが、夏の暑さはこの頃が本番です、本来は。

通年なら、まだ本格的な暑さになる前で、夏休みに入ってとりあえず宿題は忘れて遊び惚けようかという時期です。それが今年は、宿題なんぞ手につかないほどの暑さで、いつまで続くかわからない。

35度を超えるような暑さは、関東甲信越では25日を境に減るそうですが、それでも例年の32度前後の暑さは続く予報です。

本当にいつまで続くのでしょうか?

23日、東京も38度を超え、青梅では初めて東京で40度を超えました。

38度とはどんな暑さなのか体感してみようと、昨日の13時半頃に外に出ましたが、ものの15分でクーラーの効いた仕事場に緊急避難しました。

またなにが起こるかわかりませんが、気象・天候はどうしようもありません。気象兵器の存在に言及する向きもありますが、ここのところの気候変動は、それとは別の次元の話でしょう。

どれほど気温が上昇しようが、皆さん元気でいてください。そして、いつか思い出話のように話せれば、良いのではないかと心底思います。

そんな年もあったよね、と。

東京「昭和な」百物語<その44>公団住宅

2018-07-07 01:27:27 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクが小学校3年生の冬、それまで暮らしていた上板橋から荻窪へと移り住んだ。

荻窪の公団住宅に引っ越したのだ。

昭和33年の冬だったと記憶している。朝、それまで暮らしていた上板橋のハモニカ長屋を出て、越境入学をして通っていた文京区の窪町小学校へ出向き、同級生に別れを告げ、帰りは荻窪へと向かった。

昭和30年代にできた公団住宅は、間取りはほぼどこも同じようなもので、6畳と4畳半の畳の部屋に4畳半程度のキッチン、それにサービスルームのような3畳くらいの部屋がある3k、あるいは3畳のない2k、そんな間取りだった。もちろん狭い。

それでも親子4人であれば、充分に生活できた。

しかも、公団住宅はある種の文化圏を作るほどにインテリ、ホワイトカラーが集まった。言ってみれば時代の最先端を行く住環境エリアだったのだ。

各家庭に電話が入った。簡単にいえば内線電話だ。当初は電話の交換手が常駐していた。荻窪公団住宅の電話番号は一つで、そこから各部屋に割り振られた部屋番の電話につなぐシステム。

これも瞬く間に個別の電話にとって代わられた。当初はダイヤルもない黒電話だったが、数年で個人所有のダイヤル式黒電話になった。

荻窪団地は荻窪駅から歩けば15分はかかる距離にあった。800世帯3000人近い居住エリアからの要請を受け、地域のバス運行会社・関東バスは新路線を作らざるを得なかった。当初はしぶしぶだったが、やがて地域で唯一の黒字路線は荻窪駅~荻窪団地路線だけになった。

いまから考えれば、狭いは不便だはで「ありえない!」ということになるのだろうが、そこはステイタスすら生むほどの住環境だった。

もっと言えば、次に持ち家を手に入れるための勢いのあるステップ台として、公団住宅に住んでいた人が多かった。

公団住宅の近隣にはスーパーのような店舗や、魚屋、八百屋、肉屋、クリーニング店、蕎麦屋、ラーメン屋、床屋に病院と、そこそこにそのエリアの中で過不足なく生活できる環境も整っていった。

だが、公団住宅はやがて、ステップ台として住まっていた人々が思惑通りに持ち家を手にし離れていくと、ある種、負の空気が漂い始める。まるで次のステップに生き損ねた、負け組の住まうエリアの様になっていくのだ。

世間的にも負のイメージが浸透していく。高齢化も進んでいく。

隆盛を極めたのは、ほんの10年程度だったろう。

親子4人が喜んで充分に暮らせたスペースは、まるでウサギ小屋のように狭い劣悪な住環境のように言われるようになる。

確かに、狭い住スペースだったが、人間関係は濃密だった。もちろん没交渉を決め込むなど様々な人が居はしたが、基本は縦横斜めの人間関係が成立していた。

だがそれとても、前述の通り10年から15年程度で下火になっていく。

高齢化が始まり、建設されて30年も経った昭和の終わり頃には、あちこちの部屋から居住者が立ち去り、そのまま歯抜けのように人気(ひとけ)のない部屋が増え、歩くこともおぼつかない高齢者が、エレベータもない階段を必死で上り下りする姿が見られるようになった。人間関係云々どころの騒ぎではない。

周辺の商店も疲弊し始め、閉店する店が続く。

昭和30年代に建てられた公団住宅の末路は、どこも同じようなものだったろう。もうほとんどがモダンな装いを施され、建て替えられているはずだ。一部屋の広さもボクの住まっていた頃の4、5倍はあるだろう。

ボクは10年ほどで家を出た。総和44年には独り暮らし(本当は二人暮らし!)を始めた。

それでも、荻窪の公団住宅は、ある意味ボクの故郷に違いない。帰る場所はどこにもないけれど。

東京「昭和な」百物語<その43>「VAN」ブランド

2018-07-05 01:19:26 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和のブランドって、なんだったろうか?

真っ先に思い浮かぶのは、メンズの「JUN」と「VAN」だ。

ことに「VAN」は、昭和30年代からメンズファッションの地平を切り開き、アメリカ東海岸のアイビーリーガー(東京六大学みたいなもので、8つの私立大学のスポーツ連盟のようなもの)ファッションを提唱して、一大ブームを巻き起こした。

以前にもどこかで書いたが、銀座のみゆき通りにたむろしたみゆき族は、「VAN」や「JUN」の濃い目のセピアカラー(黄銅色と言った方が良いかもしれない)の紙袋を小脇に抱え、ローファーにコッパンといういでたちでうろつきまわっていた。

みゆき族は、ちょうど東京オリンピックの前頃に全盛を極め、警察が風紀粛清の旗印でみゆき族を補導したなどというバカげた逸話も残っている。ボクもみゆき通りには中坊の分際で時々足を運んだ。タイミングが合っていたら、確実に補導されただろう、と思う。紙袋を持ってただ歩きまわる少年が、どんな程度に風紀を紊乱させたのか、知りたいものだが、時代が時代だったと言うしかない。

「VAN」の創業者・石津謙介さんとは、だいぶ後になってご自宅でお話を伺う機会があった。

原宿だったか青山だったかの、それこそアイビーの葉に覆われた瀟洒な一軒家だった。

2000年に他界されたが、お話を伺ったのはその数年前、「VAN」は78年に倒産していたが、日本のメンズファッションに対する思いは強く、再建(「VAN」ブランドの、と言うのではなく、メンズファッションそのもの)に対して意気軒高であったと記憶する。

そして、これもどこかで書いたがジーンズの「LEE」。原宿の表参道交差点に掲げられた「LEE」の看板は、長い間原宿のシンボルであり、ボクのようなファッションにはからきし疎い者にとっても強烈なシンボルだった。

実は、昭和40年代から50年代にかけて、日本の若者ファッションは大いに様変わりする。

そのバックグラウンドは「フリー(自由)」という概念だった。髪の長さはナチュラルに長くすることもありで、もちろん五厘刈りも、パンチパーマも、オールバックも、坊主も七三分けもありという時代だった。若者の気分が「はみ出し」始めた頃だったのだ。人と違うことをする方がカッコいい時代が到来したのだ。

そうした「自由」の受け皿の一つが、ファッションでは「VAN」や「JUN」だったのだ。

その頃人気の喜劇役者に伴淳三郎という方がいた。

この方の通称は「バンジュン」と言った。

ボクの頭の中で「VAN「JUN」という最先端のファッションブランドが、喜劇役者「バンジュン」となぜか切り離せなかったが、同じような気分だった人もきっといたはずだと、確信している。