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明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

生きるということは、奇跡の連続なんだ

2011-01-15 18:18:43 | 想い
11日、ライター友達と恒例の「えびす参り」に行ってきた。
毎年堀川なのだが、今年はご利益が多そうな、総本社である西宮へ。
必死に商売繁盛を願い、福笹を買って帰って来た。
初詣のおみくじも大吉だったし、なんとか盛り返さなくては!

・・・とにかく神頼みしかないと思う今日この頃。

楽しくお食事もして、帰る途中、メールが届いた。
高校の男バレの部員から。
何かと思ったら、なんと、バレー部の顧問だった先生の急逝を知らせる内容だった。

12日の夕方からお通夜、13日が告別式だという。
死因は、食道付近の大動脈瘤破裂とのこと。

本当に、突然の死だった。

部員やマネと連絡を取り合い、行ける人だけでもお通夜に参列することに・・・
(関西に残っている人が少ないのだ)
結局、私ともう一人のマネと、部員3人が行けることになった。

先生には卒業してからほとんど会ったことがなかった。
それに、先生は男子と女子の両方をかけもちしていて、
その当時強かった女子に付きっ切りだったので、私たち男バレはそれほど深く関わってこなかったように思う。
正直、特別な「思い入れ」のようなものはなかった。

それ以上に、何年も会っていないので、「先生が死んだ」と聞かされても、実感が湧かない。

でも、連絡メールのある一文を見て、たまらなく辛くなってしまった。
それは、喪主の人物・・・
実は、先生は、私と同じ学年の女バレの人と結婚していたのだ。
高校時代からみんなで「怪しい、怪しい」とは言っていたけれど、
彼女が短大を卒業してすぐに先生と結婚した時は、「ほんまやったんや!」と強烈に驚いた記憶がある。

私とは、顔を合わせれば挨拶をする程度の仲だったけれど、
それでも同じ体育館で、毎日一緒にボールを追いかけていた(私は玉拾いやけど)仲間なので、彼女の名前を「喪主」のところに見た時に、一気にぐっと熱いものがこみ上げてきてしまった。

自分と同じ歳で、もう未亡人って・・・
最愛の人を亡くすって・・・

どんなにか辛いだろう。

その気持ちを思うと、たまらなかった。

そして、12日。
会館の中は、ものすごい人だった。
親族、一般の人もそうだけど、何より学校関係者が多かった。
なんとなく「見たことあるな」と思う顔の人もたくさんいた。

お焼香の時、遺影の先生を見上げたら、私の思い出の中の先生よりずっと年をとっていて、「ああ、それだけ時が流れたんだなぁ」と改めて感じた。

ただ、ありがとうございましたと、ご冥福をお祈り致しますと、手を合わせた。
奥さんの前まで行き、頭を下げるときが、やはり一番辛かった。
背の高い、きれいな人だけど、憔悴しきっているのが一目でわかった。
でも、最後の喪主からの挨拶を、気丈にしっかりと話しているのを見て、本当に胸が痛かった。
喪主は、辛くても悲しくても、やらなければならないことがあるのだ。
心の中で「どうぞ頑張ってください」と奥さんにも祈りをささげ、会場を後にした。

入口のところに、先生の思い出の品がいくつか飾られていて、
「あー、バレーボール、懐かしい・・・」と思って近寄って見てみると、
ボールに寄せ書きをしたもので、自分の名前を発見!
部員の懐かしい名前もズラリと並んでいる。

一気に、高校時代へ気持ちが帰る。

そして、参列していた部員と合流し、ロビーに下りると、そこにはもっと懐かしい面々が!
2コ上の先輩たちが、5人ほど集まっていたのだ。
何年会っていなくても、顔を見た瞬間に誰だかわかった。
向こうも気づき、「あー、久しぶりやなぁ」と声をかけてくれたので、
「お久しぶりです!マネージャーです!」と言うと、
「わかってるって(笑)」とつっこまれた。

女バレの人も集まってきて、ロビーはバレー部のOB会みたいになっていた。
不思議なもので、すりこまれているのか、先輩と話すときはなぜかシャキッとして、大きな声になる。
久しぶりにそういう感覚も味わった。

何年も前の卒業生がこうやってたくさん集まって、先生は「いい先生」だったんだな、と思った。
現役の高校生はみんな大泣きしていたし・・・

でも、まだ52歳。
あまりにも若すぎる死だった。

みんなと別れ、帰り道に思った。
「生きている」っていうことは、当たり前のことじゃないんだなぁと。
むしろ、今日もこうして生きられたことは「奇跡」だと思ったほうがいい。
毎日が奇跡の連続で、「生かされている」のだと。

ちっぽけなことでくよくよしている自分とか、
仕事のことで悩んでいる自分とか、
夫が洗面所を水びたしにしたくらいでイラッとくる自分とか、
本当にくだらない。
生きてるだけでいいじゃないか!

明日、また奇跡が続くなら、もっとそれを楽しみたい。
ちゃんと生きよう。
そう思った。
いつもこの奇跡に感謝の気持ちをもって。


何があっても、まっすぐに、凛として。

2011-01-07 11:14:47 | 想い
今、家の中はお花でいっぱいだ
冬はどうしても家の花壇が淋しくなってしまうので、家の中にたくさんお花があると、ほっとする。
じっと見ていると、思うのだ。
1つ1つが個性的で、美しくて、自然界の芸術だなぁと。

きっと、人間も同じ。

お正月用のお花にと、母がくれた。↓


それから、切り花も。
ピンク色がかわいい


出窓には、こんな感じ↓
keiさんにいただいた花瓶は本当に大活躍!!
すごくかっこよくお花が活けられる。


それから、ぐいのみ用のアンティーク戸棚の上には、水仙。
昔いただいた備前の花瓶もいい感じだ。


この水仙は、母にもらった年末にはほとんど咲いていなかったのだけど、いっぱい花開いた。
寒さに強い花だからなぁ。
大学生の頃かな?越前岬の方へ旅して、海岸に一面に水仙が咲いているのを見た。
ちょっと時期が遅くて満開ではなかったけれど。

あんな寒い場所で、冷たい海風に打たれて、それでも白くて小さい花を咲かせる。
茎はまっすぐで強く、凛としている。
水仙が好きになった。
こんなふうに生きてみたいと思った。
地味だけど、いつもまっすぐに、頭を高く上げて、凛として、
自分の中に頑なに守り続ける美意識と誇りをもって。

久しぶりにこんなことを考えたな・・・
昔・・・20代前半は、「野心」と「誇り」と「美意識」が自分のテーマだったように思う。
そういうものが全部自分の過ちや至らなさで崩れ去り、そんなことを口にすることが恥ずかしく思えていた。
そんなことを口にすれば、「お前が言うな」と批判を受けるような気がしていた。
そんな言葉にふさわしい人間ではない、と。

この4年くらい、すごくすごく幸せで自由だったけど、
根拠のない自信とか、無謀な行動とか、何かへの熱い情熱・探究心とか、そういうものはすっかり失われてきたなぁと思う。
とにかく優しい顔をして、自己主張はできるだけ控えて、穏やかに人と付き合うことばかり考えていた。
簡単に言えば、人に好かれたかったし、「いい人」と思われたかった。
もう傷つけたくなかったし、そのことで傷つくのもイヤだった。

その成果はあって、誰ともケンカしなかったし、穏やかに日々は流れていった。
以前は、上司にパイプ椅子で殴りかかったほど激しい私が(笑)

でも、穏やかに生きた分、自信やパワーはどんどん失われていった。
失敗や喪失が怖くて。

自分の手が届く範囲で、その中でうまくやれたらいいと。
ホームランなんて打てなくていいから、三振だけは避けるよう、コツンと当てていこうと。
そんな日々。
誰かが「こういうことやってみたら?」「絶対できると思うよ!」と言ってくれても、まず否定。
「いや、私なんて・・・」
「そんな力ないし・・・」
実際想像してみても、うまくいくイメージが湧かず、怖かったし、面倒くさいとすら思ってしまっていた。
それに、ホームランを打って右手を突き上げる喜びを得るまでの遠い道のりと努力。
それを思うだけで気が遠くなった。
「今のほうが楽でいい」と。

やっぱりバランスだ。
私は本当に、世の中で稀に見るほどバランスの悪い人間で、偏ったことしかできない。極端すぎるのだ。

でも、昨年末、結構どん底にいて、今年に入って心機一転!セルフイメージを変える!と思った時に、
久しぶりに昔の自分を思い出した。
昔の自分といっても悪い自分ではなく、一長一短だと考えればその「一長」の部分。

いつもまっすぐに、頭を高く上げて、凛として。

この言葉がさっき出た時に、自分でびっくりした。
昔の自分が好きで使っていたフレーズ。信条。もう忘れていた。
忘れようとしていた。
この姿勢が自分の自己主張の激しさ、人を傷つける、穏やかに生きられない「もと」だと思っていたからだ。

でも、それをやめて、4年経って、またいろいろ学んで、戻ってきた。
この4年があったから、今度は間違わない。
バランスよく、この姿勢を貫けると思う。今度はもっと自分にプラスになるように。
いつもまっすぐに、頭を高く上げて、凛として生きたって、人に優しく穏やかに生きることはできるはず。
自分が本当になりたかったのはそういう人だし、むしろ、そうでなければいけない。

ようやく本当の意味で、自分がなりたかった自分に近づけるような気がしている。
もう、自分のいろんなことを許してやってもいいだろう。
私を許さない人がいたとしても、私は私を許す。
人の批判は聞かない。でも、自分も他人を批判しない。

これまでも、もうあかん!と思ったときには、必ず奇跡のようなことが起こって助けられた。
大学受験、仕事、結婚・・・全部そうだ。
予備校のあの数学の1コマを受けていなかったら、50点も足りなくて大学は落ちていた。
あの日、ふと思いついて求人雑誌を買わなければ、今の仕事はなかった。
あの夜、携帯で「ブルース」を検索しなければ、夫には出会わなかった。
今の自分の基盤がすべて、こんな崖っぷちスレスレの「偶然」でできているのだと思うと、時々ぞっとする。
本当に奇跡みたいなことばかりが起こる。
地味~に、小さく小さく「もってる」人間なんだろう(笑)
だから、大丈夫だ。

今はいろいろと自分の心がいい方向へ動いているのを感じる。
このまま2011年を思い切り駆け抜けていきたい。

セルフイメージを変えることが今年の課題

2011-01-05 13:48:47 | 想い
今日から仕事。
とりあえず、仕事初めの日にやることがあってよかった。

昨日は夫が仕事に行ってしまったので、一人で家に引きこもり、一年間の計画を立てた。

1、生活と健康
2、仕事と夢
3、節約
4、メンタル

の4項目に分け、それぞれにいくつかの目標を掲げた。

ノートに書き出してみると、ぼんやりしていたことがまとまって、俄然やる気が出てきた。
やっぱり「書き出す」ということは大事だ。

例えば、「生活と健康」なら
・睡眠を7時間とる
・週2日禁酒
など。

「仕事と夢」なら、
・月に1社以上、営業する(新規開拓)
・酒関連の仕事をする
など。

そんな感じで各項目に7~10くらい箇条書きした。
これは常に見直し、その都度加えていくつもりだ。

目標を書き出す際に気をつけたのは、できるだけ行動しやすいプロセス部分を具体的に書くこと。
「仕事をがんばる」とか「規則正しい生活をする」というものではなくて、
毎日実行できているかチェックできるものにした。

メンタルも同じ。
最近、何度か書いていたが、12月くらいからどうも精神的に不安定になり、かなりしんどい日が続いていた。
自分が何もできない人間の代表みたいな気がしてきて、とても落ち込んでいた。
友達と会って話を聞いてもらったら少し楽になるかなと思っていたけれど、誰にも声をかけられず、一人で悶々と抱え込んでいた。
急にみんなが自分を憎み始めたような被害妄想に陥って、抜け出せなくなったからだ。
いよいよ悪いことしか考えられなくなり、世界中から相手にされないような気持ちになっていた。
とてもみじめで、淋しかった。
人と自分を比べることばかりで、とにかく何もかもがみじめだった。
だけど、新年をきっかけに振り切らなければならないと思い、メンタルについてもいろいろ目標を書き出した。

自分を不幸にしないためにはどうすればいいのか?

自分を許す。過去の失敗を忘れる。人と比較しない。
そういうことはわかっているはずなのに、すぐに実行できなくなる。
いろんなことを上手にできない自分をそのまま許して、好きになってやれない私。
自分に優しくできない。
ちょっとした失敗も「お前はクズか!お前はカスか!」と、自分自身で責め立てる。
それどころか、失敗もしていないことですら、人と比べて「お前はあかん人間や!」と執拗に追い立てる。
一人SM(笑)
そして、自分に優しくできないから、他人にも厳しかった。

自分を好きになれないから、いつも淋しいのだと、人に囲まれていないと不安になるのだと、ある本に書いてあった。
自分が自分自身と友達でいれば、他人に頼らなくても済むのに。

人と比べたらあかんなぁ。
上には上がいて、そんなのキリがない。
才能があっていいな、きれいでいいな、お金持ちでいいな、痩せてていいな、明るくていいな、おしゃべり上手でいいな・・・
最近、私の心の中は「いいな」の連続だった。
比べるのは、「過去の自分」とだけでよかったのに。

昨日の自分より、今日の自分の方が少しでも良くなっているように、そのために目標を設定した。
小さな小さな行動と成功の積み重ねが、セルフイメージを変えると信じて。
とにかくもう、自分で自分自身を不幸にするのをやめにしなくては。

・・・こんなこと、以前も何度か書いている。
つまり、いつまでたっても、ここから進むことができない。
進んでも、すぐに後戻り。
振り出しに戻って、また一からやり直し。

でも、それでもいいんだと思うことにした。一歩も動けないよりは。

そして、そんなことをいろいろ考えて、目標を書き出したら、すごく気持ちが楽になった。
孤独感が突然、消えた。
人の目も気にならなくなった。

いつまで続くかわからないけど、とりあえず。
今日は希望とやる気に満ち溢れた状態で生活している。
やるべきことも、やりたいことも、こんなにあったんだと気がついた。

また、基本の1日の生活スケジュールも書き出してみた。
今までこんなふうに考えてみたことがなかったのだけど、
朝の起床から就寝まで時間ごとに区切ってやることを書き出してみたら、
家事をやって睡眠を7時間もとってしまうと、仕事をする時間って8時間。
自分の自由時間は2時間程度だ。あんまりないね・・・
1日(24時間)って、短い!
大切に使わなくては。

そんなことをいろいろ考えて、お正月休みを終わりにした。
ひとまず、1日目はクリアかな。

今日思ったこと

2010-12-03 22:05:37 | 想い
私は人の好き嫌いがものすごくはっきりしている。
苦手なタイプの人っているのだ・・・
そういう人にはなるべく関わらないようにして生きているのだけど、
仕事となるとそうもいかない。

でも、「そうやね、苦手な気持ち、わかるわ」と、
私がその○○さんを苦手だという気持ちをちゃんと理解してくれたうえで、
「私は○○さん、結構好きやねん」とある人が言った。

彼女は誰とでも上手に話す人なので、私が苦手だという○○さんとも、楽しそうに話す。
私が無難な言葉を選んでいる間にも、どんどん楽しい会話をしてくれる。

いいなー、話すのが上手で・・・物怖じもしない人で・・・
と思っていたけど、「私は結構好きやねん」というのを聞いて、はっとした。

「○○さんは、たぶん淋しいんやと思う」とか
私が「下品でイヤ!」と思っていた態度も、「照れ隠しであんな態度とるんやで」と言っていた。

私はそれを聞いて、やっぱり器の違いか・・・と思った。
人のちょっとした態度や言葉にイライラしたり、苦手意識をもってしまうのは、私の器が小さいからだ。
器が大きい人は、他人のちょっとした言動に惑わされない。
それよりもっと深いところを見ている。
「淋しいんやなぁ」
「照れ隠しやで」
そうやって、決して良くない態度や言葉も、プラスに見てあげることができる。

すごいなぁと思った。
いつもすごい、すごいと思っている、私の憧れの人なのだけど、
改めて器の大きな人だな、と思った。

決して博愛主義者的な感じではなく、本当に嫌な人に対しては「あいつはあかん!」と
激しく怒ったりもしているのだけど、でも、基本的に人に優しいのだ。
私にもむちゃくちゃ気を遣ってくれるのだけど、それがとても自然であたたかい。

あー、私ももっと器の大きな人になりたい!と思った。
「上手に話そう」とするんじゃなく、「相手を好きになる」ことがきっと大事なんだろう。

正義感をふりかざして、いつも「正しさ」ばかり追求してきた私。
自分は白でも黒でもいいのだ。
とにかく「正しいこと」を知りたかった。
「正しいこと」を知るために、そして、相手にも知らしめるために、ひたすら攻撃してきた。
そのため争いとエネルギー消費が絶えなかった。

でも、30歳超えたくらいで、ようやく知る。
「正しさを主張するより、それを飲み込んで人と穏やかに過ごしたほうが、人生は楽しい」と。

こんなことを話したら、
「本気でそんなこと言ってるの?」と夫に言われた。
(そんな当たり前のことを今更思うことがあるのか、という意味で)
それを聞いていた友達が夫に
「かおりちゃんはほんまにそう思って生きてて、最近知ったんやで」と言った。

そう、本当にそう思って生きてきたし、
最近そんな当たり前のことを知って実行したら、人生が楽になった。

だから、苦手な人に対しても、それを出さないように努力はできていた。
昔より、人に対して優しくなったと思うし、言葉も穏やかになったと思う。
前は思ったことを思った瞬間に口にしていたけれど、今は相手がどう思うかを考えてから、
なるべくプラスに転じるように言葉を発するようになった。

でも、それじゃまだまだなんだ、と思った。
プラスの態度や言葉を出すんじゃなくて、
プラスに人を見ないといけない。
もっと人の深いところまでを見られるようになれば、もっと優しく楽しくなれるはず。

それと、もう一つ思い出したことがあった。
私が人のちょっとした言動にすぐにイライラしたり、
逆に好きな人の言動ではすぐ不安になったり、辛くなったり、嫌われていると思ったりするのは、
自分のビートをしっかりもっていないからだ。

前にもんちゃんが言ってくれたことがあった。
ドラムの練習をしていて気づいたことらしい。

「自分の中にはオリジナルなビートがある。
それをもって音を出さないと、他人のビートに惑わされる。
しかも、外側の音で自分のビートを出すんじゃなくて、
自分の中にもっていることが大事。
そうすれば、他人が中にどういうものをもっているのか感じやすくなるし、
言葉に振り回されることも少なくなると思うねん」

そして、私は「めっちゃいいものをちゃんと自分の中にもっているから大丈夫」と。
ただ、それに自分で気づかなければ、意味がないんだよな・・・

私は自分のビートをしっかりもっていないから、すぐに他人の音に惑わされる。
そして、他人の中にあるものを感じる余裕もない・・・

本当に私の中にはちゃんとあるんだろうか?
もっと自分の内側を見て、そこにあるものを認めてやらないと。
他人と比べることのバカバカしさを昔よりは知ったと思うけれど、
やっぱりいつも劣等感に押しつぶされる。
被害妄想も激しい。
「生きていてもいい」ということと「幸せになってもいい」ということはわかるようになったけど、
もっと小さな日々の出来事にはまだ対応しきれない。

自分を認められない人間が、人の深みまでもわかるわけがないよな・・・
そんなことを思った日。
でも、私の周りには素晴らしい人が多いから、いろんなことに気づけるし、よかった。
神様は本当にすごいよ。
私みたいなダメ人間の周りには、ちゃんといい人を配してくれる。
夫もそうだしなぁ・・・

おかげで少しずつ良くなってきているとは思うのだけど、
まだまだの人だな、私。
また「自分を不幸にしないための本」でも読むか・・・
これがあかんのか(笑)

「償い」脅迫観念を捨て、気合で臨むという決意

2010-10-27 14:40:55 | 想い
今もたまに人手が足りないテスト前や、休んだ講師の代わりで、塾で授業をすることがある。
教えるのは、もっぱら中3数学か国語。

火曜日も久しぶりにピンチヒッターで数学の授業をやった。

前で授業をしていると、当たり前だが、生徒の顔が見える。
真剣な眼差しに、ドキッとすることがある。

なんだろう。
子供の真剣な目っていうのは、ひたむきだな。

憧れる。
あんな目ができるんや、と。

あの目が好きで、この仕事をだらだらと引きずってるんかなと思うこともある。

授業は、やや賢いAクラスの代わりを頼まれることもあれば、
全然できないCクラスの代わりを頼まれることもある。

どっちが楽しいかといえば、断然、Cクラスだ。

Aクラスだとどうしても授業が一方的な説明になる。
「説明」で伝わるのだから、それでいいのだ。
声がかれることもない。

でも、Cクラスの授業は闘いだ。
「わかったか?わかったか?わかったか?」といちいち聞く。
Cクラスの子たちは動物的な部分が強いので、とにかく声をはりあげて、
勢いでこちらに引き付ける。
だから、2時間の授業が終わったら、声が嗄れ嗄れ。
季節を問わず、汗だく。(まあ、これは私が異常な汗っかきだからだけど)

しかし、楽しい。
やっぱり教えるのは好きなんだろうな、と思う。

ただ、こうやって今でも塾にヘルプの形で席を置いているが、
時々、自分の位置がわからなくなる。

物理的にであれ、精神的にであれ、
何か自分が役に立てることがあればいいなと思っているわけだが、
この立ち位置はかなり中途半端だ。
完璧にしたい主義の私としては、本業と家事と塾の両立がとてもしんどいときがあって。

昔なら、全部を全力でやろうと思っていた。
でも、悲しいかな、そんな気力がもうない。

一番授業をたくさんやっていたときは、ライターの仕事もしながら、中2と中3の数学と国語を受け持っていた。
テスト前は歴史も理科も家庭科もやった。
終電まで教材を作って、へろへろになって家に帰り、
そこからまだ原稿を書く・・・、なんてことは毎日だった。
あの頃はまだお酒もそんなに飲まなくて。
気付け薬のようにウイスキーを流し込んで、朝はコンビニで栄養ドリンクを飲むという生活。
慢性的な重度の睡眠不足で、乗り物はもちろん、居酒屋でもライブハウスでも、
とにかく一瞬でも仕事を忘れた瞬間には、どこででも眠ってしまうほどだった。

毎日の願いはただ1つ、「布団で寝ること」だけだった。

今あの生活に戻るなんて死んでもいやだ。(本当に死んでしまう)

だけど、なぜか「楽しかったなぁ」と思う。
あんなに夢中になって仕事をしていた時間を愛しくも思う。
それは、たぶん、全力だったから。

でも今は違う。
今は、バランスを崩さないことばかり考えてしまって、全力を尽くす前にセーブしてしまう。
そのことにいつもモヤモヤしている気がする。
私の生き方って、こんなんやったっけ?と。

既に燃え尽き症候群やな・・・

この間の病気のことがあったとき、ふみこに、
「かおりちゃんは、『昔より仕事も少ない』とよく日記に書いているけど、
今でも普通の人よりはだいぶ忙しくしてること自覚したほうがいいね」
とメールをもらった。

仕事に限らず、いろいろ含めて、私は忙しいらしい。

昨日もあやとふみこと3人で話していて、
私が、「毎日寝る前に反省する。今日も自分が決めたことをできなかったとか、
今日もなまけてしまったとか・・・。でもきちんとできない。それが辛い」と話すと、

「かおりちゃんは自分に厳しすぎる」
「真面目すぎる」
「みんなもっとだらけた生活してるよ」
「わたしなんてもっとひどいよ~。でも全然気にしない」
と言われた。

みんなきちんとやってるように見えるのに、本当にそうなのか・・・?と不思議な気がしたが、
よく考えてみれば、私の若い頃が異常すぎたのかもしれない。
ようやく人並みの体力になり、そして年齢を重ねたということなのかな。
今がダメなんじゃなく、昔が異常なほど頑張れたから、きちんとできたから、
今の自分に憤りを感じてしまうのかもしれない。

だとしたら、これくらいの「のんびり」は許されるんだろうか・・・

誰に?

そう、いつもこの考えに至ってしまう。
誰かに許しを請うている。

誰にだろう?
神様か?
自分自身の良心か?

怠惰の件に限らず、
もし、前世というものがあるなら、
その世界に生きていたとき、私はどんな大きな罪を犯したんだろうかと思うことがある。
いつも「現世」では、罪の償いのために生きているという感覚があって。
人の役に立った・・・償えた。
今日も頑張れた・・・償えた。
いつも「償い」の気持ちが拭えない。

あとどのくらい償えば、私は「何者か」に許されるんだろう・・・とふと思う。

とはいえ、友達と話すと、いつも救われる。
こんなふうにわけのわからない「償い」強迫観念で生きている自分がバカバカしく思えてくる。
頭おかしいんちゃうかと思う

多少、ダメな日があっても、ダメなところがあっても、
「それはそれでOK!」と思いたいと、そんな考えが浮かぶ。
みんなそうやってるみたいだし。。。

わかってるんだけどなぁ・・・

とりあえず、本業と家事はもちろんだけど、
今年こうやって塾に席を置いている限りは、もう少し役に立てるように頑張ろうと思った。
ちょっとアドバイスでもしてあげればいいものを、この間のテスト対策は私の怠惰からそれをせずにいた。
こんなあまりにもいい加減すぎる自分に本当に嫌気がさしているのだ。

昨日、数学講師でのミーティングをさせてもらって、
「次は絶対みんなで何がなんでも成績上げよう!」と士気を高めた。
本当に、何が何でも結果を出す!
そうでなければ私が席を置いている意味がない。ただのお局様だ。
「次はこうしよう!」という話を昨日やって、みんなも同意してくれて、私もやる気がさらに増した。

今の中3数学講師陣は、今年初めて授業をうけもったにも関わらず、とても力がある。
学力も高いし、気が利くし、順応性がある。人柄もよい。
その能力をちゃんと発揮できるように、土台を整えてあげるのが私の仕事だ。

本当に、もう少しでいいから、自分に昔のような気力と体力があれば・・・!
思うようにいろんなことができない自分が悔しい。
でも、今はとにかく全部をもう一度できるだけがんばってみようと思う。
ちょっと気合が足りんかった。

そう。気合や、気合!!

しかし・・・
とりあえず、1つだけありがたいのは、
こうやって悩んだり、できない自分に落ち込んだりはするけれど、
やっていることは全部好きだし楽しいということ。
(基本的に好きなことしかやらない。嫌なことは極力避けるというのがモットー)

本業も塾も家事も全部大好き!楽しい!
イヤイヤやっていることは何もない。
ただ、それが完璧に、思っているレベルでできないことがしんどいだけなのだ。
よく考えてみれば、贅沢なだけのかもしれない。
望みすぎ?理想主義?完璧主義?

きっと、好きなことばかりやれてるってのは、幸せなんだろうな。
気持ち切り替えて、がんばろう

私的堕落論

2010-10-19 11:12:24 | 想い
仕事も一段落したので、今週は体調を整えている。

「疲れた」とか「しんどい」という感情をもったことがこれまであまりなかったので、
自分の体が全く言うことをきかないことにびっくりしている。
飲みすぎ、働きすぎ、不摂生、睡眠不足、ストレス、老化、運動不足・・・
原因はこんなところか

首と腰は慢性的に痛いし、
ご飯を食べると強烈に眠くなってぐったりする。
階段を上っただけで息切れがして足が重くなるし、
睡眠が6時間未満ではもう体がもたない。
かといって6時間寝てもたいして回復しない。

とにかく何をするのも億劫で、しんどかった

そして、金曜日に仕事が一段落した喜びで土曜日に遊びまくったら、
日曜日にはしんどさもピーク!
朝もぐったりして、昼もご飯を食べたらぐったりして、
それやのに酒を飲みに出かけ、
帰ってから楽しくて楽しくて、また夫と酒を飲んでいたら、そのまま寝てしまった。

おかげで昨日は本当にしんどかった。
スカイプで仕事の打合せして、次の仕事の資料を集めたくらいで、後はのろのろと家事をして過ごした。

あまり頭を使わないテレビでも見てたら楽になるかなぁと思ったけど、
最後にはもうテレビを見るのもイヤになった。

でも、それくらいのんびりして、久しぶりに夜中1時半までに寝て、
しっかり6時間睡眠とったら、今朝はかなり楽になってる
やっぱりもう若くないんだから、睡眠は大事だなぁ・・・
なんで昔は3、4時間の睡眠で頑張れたんだろう?今となっては不思議である。
もう徹夜で原稿とか・・・考えるだけで逃げたくなる

そして、できれば健康と美容のために、「12時就寝、6時起床」という生活にしたいのだけど、
夫の帰りが遅いので、それは難しい。
1時半就寝、7時半起床が限界だ。

まあ、できる範囲で、とにかく規則正しい生活がしたいのだ。
それくらい体調に関して危機感をもっている。

自分の体が思うように動かず、いろんなことが億劫になるということの恐怖といったら・・・
例えば、今朝は目覚めもよく、お弁当と朝ごはんを作り、布団を干してシーツを洗った。
が、先週は起きてすぐに料理をするということが絶望的に難しかったし、
布団を持ち上げてベランダに出ようという気力がなかった。
そういう自分に愕然とし、「こうやって人は堕落していくんだ・・・」と布団の上で身悶えしていた
(ちょっとしたことで悲劇的な気分になるのは私の悪いクセだ。そして、夫に「大げさ!」と言われる)

そう。
もうおなじみだが、私はよく「堕落するんじゃないか?」という恐怖に襲われる。
堕落って、堕落してから気づくもので(気づかない人もいる)、
予感的に「堕落するんじゃ?!」と思うようなことじゃないだろうとわかっているんだが・・・
なんだろうなぁ・・・
ちょっとでも怠惰な自分や頑張れない自分に気付くと、
「あああああーーーーー!もうダメだ、堕落する!!」と思ってしまうのだ。

でもこのおかしな想いが自分の原動力になってるんだったら、それはそれでいいのかな?

で、最近落ち込んでいたのは、怠惰な気持ちで堕落しそうになれば跳ね返せるが、
体調が悪いときは、気持ちでどんなに頑張っても跳ね返せないから、それが本当につらくてしんどかったのだ。

ほんまにそのことを思い知ったので、これからしっかり体調管理をしていこうと思う。
明日は精密検査の結果も出るし、来月も2つ検診を受ける予定。
とりあえず、飲みすぎ注意やなぁ・・・

幸い、今週は仕事が少ないから、酒もあまり飲まないだろう。
仕事が少ないと比例して酒の量も減る。
やっぱり労働なしの酒なんて美味しくないから。
一仕事終えた時のお酒が一番うまい
それに対して、酔うため、騒ぐため、愚痴を言うために飲む酒は苦手・・・。
酒への冒涜だと思っている。
お酒は楽しく美味しく、感謝していただかないとね

体調がいいと、いろんなことをやりたくなる。
いくらでも、やりたいことがある。
体調さえ戻れば、堕落もしない。

『「教養」のない人間には、酒を飲むことくらいしか残されていない。
「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間をつぶせる技術」のことでもある。』


中島らも『今夜、すべてのバーで』より。

beast of burden

2010-10-14 02:39:24 | 想い
今日は朝からずっとしんどかった。
体調ではない。
気持ちがずっと。

理由はわからない。

こういうことはよくある。
出来事や状況に関係なく、ただ鬱。
むしろこの2、3日は楽しいことばかりだったのに。

ワガママなもので、
仕事がないと不安になり、
仕事が多いと休みたいと思う。
でも、「仕事がないよりマシ」と言い聞かせる。
呪文のように。
これが一番効く。

さっき、「beast of burden」という小説を読んだ。
絲山秋子の「ダーティー・ワーク」という小説の中の一篇。
連作短編みたいな小説で、その最終篇が「beast of burden」だった。

ああ、このタイトルで小説を書く人が他にもいたのか・・・と思った。
20歳の頃、私が書いた人生で4作目の小説が「beast of burden」だった。

知っている人はすぐにわかると思うが、
ローリング・ストーンズの曲名からとった。

この曲が、好きで好きで。

ああ、この人は、このタイトルの小説をこんなふうに書くのか、と思った。
とても感慨深かった。

日記を毎日書こうと思いながら2日書いていなかったので、とりあえず書いた。
もう寝よう。
明日も原稿追い込み+塾。

しかし、何も嫌なこともないし、体調も悪くないのに、
どうしてこんなに気持ちが沈むのかなぁ・・・
こんな日もあるか。

日常を彩るのは若き日々の結果だと思う

2010-10-04 11:19:46 | 想い
土曜日は、夫のバンドメンバーが新居に遊びに来てくれた。
スタジオに入った後、夕方に来るということで、
いつものように料理、料理、料理・・・!
タコのカルパッチョ、鯛の煮付け、餃子、ピザ、白菜と鶏だんごのクリーム煮、
ちらし寿司、サラダ、肉豆腐、マグロの揚げ煮、チキン南蛮・・・
いろいろ作っておもてなしした

彼らに初めて会ったのは、まだ彼らが25歳くらいのときで、
年上の私から見れば、どこか幼さも残る、少年のような人たちだった。

スタジオやライブの後は必ず我が家になだれこんで、夜明けまで飲んで。
酔っ払った私から同じ話を繰り返し聞かされるという被害者も続出

一時期はよく集まっていて、一緒にライブも行ったし、バーベキューもした。
私の存在が邪魔なときもあったろうに、そんな顔は見せず、
いつも仲良く接してくれて、本当にありがたかった。
結構その寛大さの上にのさばって、自分の友達みたいにふるまってきた。
(最近は反省して、少しおとなしくしているが)

でも、この4年間にはいろんなことがあった。
東京へ行き、また戻ってきた人。
名古屋へ、そして仙台へ行ってしまった人。
転職もあったし、彼女ができた人もいれば、彼女と別れた人もいて。

皆がそれぞれの生活の中で、いろんな想いを抱えている。

30歳を目前にして、焦りや悩みは尽きない日々なのだろう。
もう4年前とはいろんなことが違う。
そんな中、はるばる仙台からも来てくれたことがとてもありがたかった。

この夏、私は高校の部活の同窓会で、久しぶりに部員に会った。
男子バレー部のマネージャーをしていた私。
みんないいおっちゃんになっていて、容貌まですっかり変わってしまった人もいたけれど、
1つだけ変わらなくて安心したことがあった。
それは、みんなスポーツを続けていたということ。

数人はまだ集まってバレーをやっているし、
そこには参加していなくても、ビーチバレーをやったり、野球をやったり、
ウインタースポーツを楽しんだり、ハーフマラソンに出場したり・・・
何かしらスポーツを続けていた。

私はそのことがとても嬉しかった。
仕事や生活に追われ、疲弊した姿を見るのはイヤだったから。
メタボのお腹を揺らしていても、それでもまだボールを追っかけている、
そのことが、あの高校時代の「結果」だと思った。
汗を流すことや、仲間と何かに向かって頑張ることの素晴らしさを知っている。
それは、退屈な日常に色を与えてくれるだろうし、
決して楽しいことだけじゃない仕事や人間関係の中でも、
また明日がんばろうと前向きになれる力をくれる。
彼らがあの頃の「結果」の中で生活していることを知り、私は嬉しかった。

さて、話がそれたが、バンドメンバーが久しぶりに我が家に集合した話。
バンドメンバーとは違う友達も一人参加してくれて。
深夜には和やかにおしゃべりも弾み、2人は泊まって帰った。
みんな帰ってしまうんじゃないかと淋しく思っていたので嬉しかった。
(泊まる気満々で歯ブラシも持ってきていた

生活はそれぞれ忙しく、距離や時間などの物理的な問題で、
これから先はバンドを続けていくのが難しくなることもあろうだろう。
精神的なこともみんないろいろ抱えている。

だけど、バレー部のみんながアラフォーになってもスポーツを続けていたように、
バンドメンバーも、10年後も音楽を続けていてほしい。
それは、バンドという形ではなくても。
もちろん、ずっとこのブルースバンドが続いてくれると・・・
そして、ライブの後で我が家になだれこんで来てくれると・・・
私はとても嬉しいのだけど。

でも、それがもし無理なときが来たとしても、
一人ひとりが音楽を続けていれば、なんだか大丈夫だと思える。

仕事で毎晩24時をまわって帰宅しても、
ちょんちょんと楽しそうにギターを弾いている夫を見ていてそう思う。

音楽が与えてくれる人との出会いの素晴らしさと、演奏の楽しさと、
それを知っている人達だから、
時が経つのも忘れて夢中になって練習した時代の「結果」を
これから先の人生での支えにしてほしいと、強くそう思った。

ブルースハープを中心としたこのバンドの、一ファンとして。

またここに戻る。

2010-09-24 10:37:00 | 想い
急に秋が来た。
本当に突然。
我が家はもうかなり寒く、夫と二人震え上がっている。
今からこれでは先が思いやられるなぁ・・・

最近、日記を書く回数が随分減ったように思う。
また習慣をつけなければと思うのだけど、それがなかなか・・・
以前のように思ったことを何でも書ければ簡単なのだけど、
今は結構書く内容に気を配っている。
そうすると、なかなか書けない。

9月に入ってからずっと忙しい。
仕事がいくつも重なったり。
今週も既に2件取材に行って、今日もこれから。
来週も4件。

でも、取材は楽しいので全く苦にはならない。
自分の知らないことを知れるのもいい。
この間は原子力発電所で働く人の話を聞いた。
配管工事やタービンの据付の話。
強面のおっちゃんだったけど、話すととても親切で、丁寧に絵も書いてくれて。

「働く人」の話を聞くのが一番面白い。
ライターなんて職業に就かなかったら、おそらく一生知ることのなかった世界を垣間見れる。
今ここにある、あれもこれも全部、「誰か」の想いと汗の結晶。
そう思うと、世界が新鮮に見える。

苦手なバッグや財布のコピーライティングも最近は少し慣れ、
言葉の選択が楽しくなってきた。
でも、やっぱり取材記事を書くほうが自分には向いてるなぁ。

しかし、先が見えないまま、目標もないまま、とりあえず毎日をやり過ごして、
漠然とした不安を抱えた自分をどうにかしなければいけない。
そうは思いながらも、なんとなく毎日が過ぎていく。
仕事があって、酒が飲める。
じゃあ、いいじゃないか・・・みたいな。

いや、確かに悪くない。
でも、こんな日常に埋没していく自分に、かすかに苛立ちを覚える。

なんとか井戸から這い上がろうとして、
出産にようやく本気になったら頭打ち。
次は精密検査だ。
でも、あまり悲観はしていなくて、どこか客観的に自分を見ている。

20代の頃は、仕事が忙しいから日常に埋没してくのだと思っていたけれど、
最近になってそれは間違っていたとわかる。
幸せや不幸とも関係ない。
もう一度自分の中にある「想い」を探さなければ、井戸の中からは這い上がれないと、
出産なんかでは「それ」は見出せないと、
そんなことを教えてもらえたような気がして。

結局、またここに戻る。
随分走った気がしていたけど、まだスタートも切っていなかったのかもしれない。

イライラしないで生きる方法

2010-09-09 11:32:40 | 想い
「いらち」だった私も大人になって、多少はガマンがきくようになった。
でも最近、器が小さいな、と思うことがある。

よく母が言っていた。
「自分が調子の良いとき、幸せなときに人に優しくできるのなんて当たり前。
自分がしんどいときにこそ、本来のその人が出ると思う」

だから、しんどいときこそ、きちんと生きろと。
しんどいときこそ、他人を思いやれと。

そう考えてみると、本来の自分自身がいかに小さい人間かということがよくわかる。
しんどいとき、いっぱいいっぱいなときって、
すぐにイラっとくるし、攻撃的にもなる。

この間も、仕事相手のお金の振り込み方のことでイラっときて、
その「イラッ」がしっかり伝わるようなメールを送ってしまった
後で反省。
たいしたことじゃなかったのに、なんであんなメール送ったんやろか、と。

昨日は昨日で、特急仕上げの原稿を頼まれていて、午前中に終わらせて送ったら、
送った後で指示違い。
そこまではガマンして追記して送ったら、
「これはこれで満足ですが、別バージョンも見たい」とのこと。

気に入らないのなら修正の範囲だから何パターンでも作るけど、
気に入っていて、さらにもう一つというのは契約違い。
1パターンでいくら・・・という取り決めだからだ。

ここで普段なら気持ちよくサービスでやってあげるのだが、
昨日はもう別の仕事にとりかかっていて頭がいっぱいで、
せっかく乗ってきたのに、そちらに引き戻されるのがイヤだった。
それで「これは取り決めと違うんでは?」というメールを送ってしまった。
確かにそうなので、編集の人が恐縮して、
「私がお客様に、『こういうのもいいかもしれません』と提案してしまったんです。
だから、私のせいです。すみません」
と返事が・・・

そう来られると、こっちまで恐縮して、強く出られない私。
「いえ、快く引き受ければよかったです。やります」と返事して、
結果的にはもう1パターン作成した。

仕上がってみると後で書いたほうが良く、お客様も喜んでくださったので、
「最初から快く引き受けてあげればよかったな・・・」と反省。

人が喜んでくれれば、自分も気持ちいいのに。
なんでそれがわかっていて、できないかな・・・

器だ。
器の問題。

余裕があるときはちゃんと人のことを考えられるんだけど、
焦っていると、もうまわりも先も見えない。

仕事だけでなく、家庭でもこんなことがあった。

日曜、夫がビールを買いに行くというので、ついでに2、3買い物を頼んだ。
そうしたら、頼んでもいない「ホタテ」を買ってきた。
それも殻付きのやつ・・・

ちゃんと夜ゴハンは考えていたので、また余計なものを・・・と少しイラッ。
それに気づいた夫は、「俺が焼くから」と言う。

夜になって、龍馬伝を見ながら食べたいと思い、ちゃんと時間を計算して料理した。
夫にも「そろそろホタテ・・・」と声をかけたが、なかなか動かない。
ようやく動いて、ガスコンロに直接網を置き、焼き始めた。

いろんなものが飛び散る。
なかなか焼けない。
龍馬伝、始まる。
なかなか焼けない。
結局、殻をはずしてフライパンで焼く。
殻付き買った意味ない。

ここでもうイライラが限界だ
「もぉぉぉお!!」とイライラしていたら、
夫も反撃して、
「なんでこんなちょっとしたことでイライラするねん!
「だって・・・
「楽しくないやろ?!

その言葉で、はっとする。
そうなんだよなぁ、イライラしてると楽しくない

結局、夫が謝って、私も「イライラしてごめんね」と謝ったが、
なんでこんな小さなことですぐにイラつくんかなぁと、また反省した。

私がイラっとくるのは、いつも1つだけ。
自分の計画通りにコトが運ばなかった時。
いつもきちんと計画して、その通りに完璧にやりたいのだ。

計画が崩れた時に、さっと気持ちを切り替えるとか、楽しむとか、
そういうことができない。
イライラするか、パニックになるか、投げやりになるかのどれかだ。

先日、テレビを見ていたら、ストレスに強い人と弱い人を見分ける実験をやっていた。
形をペンのようなものでなぞっていくだけなのだが、
ミラー越しなので動きが逆になる。
かなりイラっとくるやつだ。

ストレスがたまりやすい人はすぐにイライラし始め、
体温だか脳波だかわからないけれど、ストレスを感じているのがグラフでわかった。
ストレスがたまらない人は、イライラしない。
むしろ笑みさえ浮かべている。
後で感想を尋ねると、「できない自分がおかしくなってきて(笑)」と言っていた。
全くストレスになっていないのだ。

こういう人が、昔から私の憧れ。
「大らかやな~」と感動する。
どんな場面でも自分に入り込まない。
客観的に自分を見られるし、どんなことでも楽しもうとする。プラスに考える。
それが、無理やりではなく自然にできる人。
何でも楽しめるっていいな。

ストレスを感じて自分を苦しませて周りにまで攻撃するよりも、
自分も周りも楽しいほうが絶対にいい。

もう少し器の大きな人間になりたいと、
楽しんで生きていきたいと、改めて思う今日この頃。

歳を重ねても、日々反省。
これは変わらんなぁ・・・

溢れて止まらない感覚

2010-08-14 00:01:02 | 想い
最近、ドラマを見るようになった。
理由はいろいろある。

塾にほとんど行かなくなって夜に時間ができた
ドラマニアの親友の影響
テレビを買いかえて録画が楽になった
生活に余裕ができて、刺激がほしくなった

などなど。

ほとんどドラマって見たことがなかったのだが、
それでも1年に1つくらいは最初から最後まで見るものはあって。
それが、気づいてみれば、ほとんどが野島伸司の脚本。
偶然ではない。
彼の作品がとても好きなのだ。
賛否両論だとは思うけれど。

高校教師(1993年、TBS)
ひとつ屋根の下(1993年、フジテレビ)
ひとつ屋根の下2(1997年、フジテレビ)
聖者の行進(1998年、TBS)
世紀末の詩(1998年、日本テレビ)
リップスティック(1999年、フジテレビ)
高校教師(2003年、TBS)
プライド(2004年、フジテレビ)
GOLD(2010年、フジテレビ)

調べてみると、ざっとこれくらいは野島作品を見ていた。
ほとんどドラマを見ない私としては、かなりの確率で見ていることになる。
(今挙げた以外に見たものをほとんど思いだせないくらいだから)

中でも一番好きだったのは、「世紀末の詩」。
どうもこれは野島作品としては視聴率も悪く、好評価ではなかったのだが、
私はこの作品が好きで好きで。
再放送があったら録画しておきたいのだが、それもないほど不評だったようだ。

今、見ているのは「GOLD」。
これがすごくいい。面白い。
なんというか、野島伸司らしくて。
暴力、犯罪、教育・・・いろんな社会問題をテーマに秘めている。
でも、笑えるくらいのユーモアもあって。

特に、昨日の回はよかった。
録画で2回見た。
鬱陶しくなるほどの正義感。エゴとも通じるまっすぐさ。情熱。
でも、優しさと強さ。
すごい本を読んだ後みたいに、打ちのめされる感覚を得た。

野島伸司っていう人を、やっぱり好きだと思った。
偽善だという人もいるみたいだけど、偽善であんな作品は作れない。
もし、偽善だったとしても騙されたい。
騙されていい。
疑って見ないくらいなら、騙されて感動したい。
そう思える。

子供に見せたくないドラマに野島作品を挙げる親も多いらしい。
私なら、率先して見せたい。
汚いものにフタをして、何になる?
悪いものを排除したら済むことか?
現実はこんなにも悲惨で、こんなにも不公平だということを見せたい。
そのうえで、自分がどうやって生きていくのかを考えてほしい。
そういう中で、本当の愛が育まれることを教えたい。

こんなふうに思う人ばかりじゃないことは、野島伸司本人が一番よくわかっていると思う。
でも、溢れてくるんだろう。
伝えたいことが。

その溢れて止まらない感覚が、妙にわかる。わかってしまう。
だからこそ、感動する。

岡本太郎も言っていた。
「どう描くかじゃない。何を描きたいか、なんだ」

何を?
何を書きたいか?

最近はいつも自分に問いかけている。
私は何を書きたいんだろう。
前はあんなにも書きたいことがあったはずじゃないか。

いや、本当は今も書きたいことはある。
でも、それを書けば、きっと傷つく人が出てくる。
それが怖くて書けない部分もあるのだ。

怖くて書けない。
なら、それまでのこと。
溢れて止まらなくなったものでなければ、
文才のない私の書くものなど、誰の心も打たないだろう。
溢れて止まらなくなったとき、本当に人の心を打てる。
それは確信としてある。

溢れるほどの感情を、きっかけを、ほしくて
それでまたドラマを見ているところもある。
そして、確実にそれはいい影響をもたらしていると思う。

このまま書けなくなったままで終わったら、死ぬ時に後悔する・・・
今はそう思っている。
もう昔のように、作家になりたいとか、本を出したいとか、そういう気持ちはない。
ただ、溢れて止まらないものを拾いあげるように書いていたあの感覚・・・
あれだけは死ぬまでにもう一度味わいたいと、そういう自己満足の望みはある。
あと1回でもいいから。

回帰

2010-07-27 23:21:39 | 想い
最近、何かを思い出しそうになる。
もう少しだ、と思う。

別に物忘れがひどくなっているわけじゃない。

そういうことじゃなくて、ふとした瞬間に、昔の感情・感覚が戻ってくるような、
そんな感じがして。

エミリー的に言えば(モンゴメリのエミリー)
「ひらめき」のような。

長い間感じることのなかったあの「ひらめき」の感覚。
言葉にするのは難しいのだけど。

地下鉄の改札で見知らぬ人とすれ違ったり、
踏み切りの前で夕方の風に吹かれたり、
花火をしてはしゃぐ子供の声を聞いたり、

そういう何でもない瞬間に「あ」と思う。

書き留めたい。
この感情を言葉にしたい。
「感動」とか、そういうのじゃない。
何かと言えば、懐かしさに似ている。

自分の魂の奥深くを覗く作業を、もう一度やってみたくなっている。

今日、本屋に寄って何か買おうと思ったけれど、不思議と読みたい本がなかった。
帰って自分の本棚を見ていたら、久しぶりに再読したい本がいくつかあった。

有吉佐和子「非色」
有島武郎「生まれ出づる悩み」
川端康成「川のある下町の話」

回帰。

今度は見えるといいな。
前は見えなかったものが。

薄っぺらな生活からの脱出

2010-07-14 23:36:22 | 想い
今日も一日中雨が降っていた。
いろんなところで被害が出ているようなので、そろそろ止んでほしいものだ。

庭の水遣りをしなくていいのは楽だが、
この長雨で植物も少し弱り気味・・・
さらに、トウモロコシやピーマンの鉢から変なキノコが生え始めた。

「かおりっ!毒きのこ生えてるぞ!」と夫。
見ると、しめじ系のキノコが・・・
抜いても抜いても生えてくる。
なんやろ、一体・・・

しかし、雨だからといって憂鬱になってても仕方がない。



↑今日の収穫(?)

庭からお花を摘んできた。
少しは家の中が明るくなった。

昨日はウイスキーを飲みすぎたので、今日はちゃんと禁酒。
月曜日も禁酒したから、今週は2日目だ。
できれば金曜日まで禁酒を続けたいと思っている。

なぜなら、今週はびっくりするほど仕事がヒマだからだ。
仕事があまりないときって、お酒を飲まなくてもいける。
別にストレス解消のために飲んでいるとかではなく、
やっぱりお酒は仕事の後に飲むから美味しいんだと思う。
(もしくは休日の昼間か)

それに、最近、どうもいろんなことに対して探究心というか情熱というか、
そういうものが薄いような気がするのだ。
毎日何して過ごしているんだろう?
すごく無駄に生きていないか?

インプットが少ない。
感動しない。
だから、アウトプットされたもの(文章)が薄っぺらい。

今日、パソコン上で探し物をしていて、いろんなファイルを開けていたら、
昔いただいて、ずっと保存しているいくつかのメールを見つけた。
顔も知らない人たちからのメール。
「あなたの書く日記が好きで」とファンレターのようなものを何度かもらったことがあって。

とにかくあなたの書いた文章を読みたい、
日記をやめないでほしい、
好きな日記をプリントアウトしてもっています、
ファンがいることを知ってほしくて・・・

そんなありがたい言葉を何人からもいただいた。

昔は、本当の「日記」だったから。
毎日欠かさず、今日あったこと、今日感じたことを書いていた。
今は単なる「ブログ」だ。
更新も滞るときがあるし、なるべく当たり障りのないことを書くようにしている。

もうあのメールをくれた人たちは、今のブログなんて読んでいないかもしれないな。
あんなふうに人の心を動かせるものを、今の私は書いていない。
良くも悪くも、何か人の気持ちを動かすような、とんがったものがあったのだけど、
今はなるべく平坦に、感情が出ないように、気をつけて書いている。
心で書かないように、頭で書くように。

本当はあふれて止まらないこともあるのだけれど。

これは成長なのか衰退なのか、
分別がついたのか臆病になったのか。

話がそれたが、最近インプットが少ないのは酒のせいかと。
お酒を飲んでいたら、本を読む気持ちにもなれないし、物を作ることもできないし。
それでもお酒を真面目に探求するならまだ得られるものはあるが、
最近は一時期のような情熱もなく、またズルズルと旨いからというだけで飲んでいる。
(これがよくないと思ったから勉強してきき酒師の資格をとったのに)

自分自身に問いかける。
「ちゃんと生きてるか?」

「生」に対して不誠実になってはいけない。
惰性で生きていくような日々を、どこかで切り替えなくては。

毎日一生懸命仕事もしているし、ちゃんと生活しているし、
決しておかしな日々を送っているわけではない。
だけど、もし自分が求めているものがあって、
それがないと満足できないのであれば、
そこから目をそむけて楽なほうへと流れて生きることは、
不誠実ではないのか?
一度だって自分をギリギリまで追い詰めたことがあったか?

この間から、何度も自分自身に問いかけていることがある。
「私は死ぬ時に、本当に後悔しないだろうか?」

答えはまだでない。

ただ、考えている。
水遣りを怠って、すっかりカラカラになってしまった感受性を
今からでももう一度、豊かに潤すことはできるだろうか・・・

お酒のグラスを、今日はコーヒーカップに持ち替えて、
そんなことを考えている。

仕事がヒマなのはやっぱりいいかもしれないな。
たっぷり時間があれば、たっぷり自分を見つめなおせる。
忙しさのせいにもできない。

今必要なのは、自分自身との語らい。

ぐちぐちぐち

2010-06-15 11:50:05 | 想い
先週はいろいろと原稿に追われていた。
これまであらゆるものを書いてきたけれど、やはり自分が好きなのはインタビュー記事だ。
「人となり」を、その人の考えを、言葉にするのが面白い。
書いていてもわくわくする。

商品コピーは、相変わらず難しい
自分の力も足りないし、クライアントともうまくやれていないしで、
最近はこの仕事のことを考えるとちょっとブルー

書き上がったものを提出したら、それはもう向こうのものだから、
基本的にはどういじられようと構わない。
だけど、こちらが悩みに悩んで、時間と想いを込めて書いたものを
第三者が自分の好みの言葉やリズムにさっと上塗りしてしまう。
それが、取材相手であれば構わないのだけど、違うからやっかいだ。
なんだかわからないが、最終の形としてサイトにアップされているのを見ると、
ものすごい屈辱感

私の言葉は?
私のリズムは?

自分でもびっくりするほど、煮えたぎるような憤りや憎しみがあふれてくる。

最近、気持ちが落ち込んでいるのは、この仕事のこともあるのかもしれない。
もう辞めようかな・・・と思う日もある。
これでギャランティがいいならまだ頑張れるが、そうではないので、
何のモチベーションもなし。

でも、お金のことではなくて、ここで辞めてしまうのはもったいない。
他人の評価はともかく、自分自身がまだ満足できる仕事ができていないので、
もう少し勉強して頑張ってみたい。
スキルアップのためにも。
(このやりかたで本当にスキルアップになるのかは疑問だが)

自由になりたくてフリーライターになったと言うと聞こえはいいが、
実際にはそんないいものでもなく、単に社会性がなかったというだけのこと。
他の選択肢なんて、あの時の自分の前にはなかったと思う。

そして、やってみれば、なんとまあ、自由のないことか!
そのうえ、社会性と自己管理能力まで求められ、ストレスの山である。

最近になってわかったのは、「ない」と思っていた社会性は意外にあった。
そうでなきゃ、こんな仕事、10年以上もやってられない。
私が嫌だったのは、単に人と群れることだったのかな、と思う。

今でも大勢の飲み会は苦手だ。
基本は1対1がいい。
多くて4人まで!
それ以上になると、もういろんなことが気になって気になって。
私のキャパを完全オーバー。

変に空回りしたような気持ちになって、
自分や人のいろんな言動が気になって、
その後3日くらいは落ち込む。

やっぱり集団生活には向かないのかもしれない

今日は別にこんな愚痴っぽいことを書くつもりじゃなかったんだけど、
つい書いてしまった。

曇り空と雨のせいにしとこ・・・

情緒不安定自覚宣言

2010-06-07 11:30:01 | 想い
自分で自分の生活をコントロールできない。
最近、ちょっと心が弱り気味……
土曜日、回復したような気が一瞬したが、
あれはいろいろ楽しかったのと、酔っ払っていたのとが錯覚させたのかもしれない。

とにかく毎日が無気力で、体もだるくて。

それでも、生活はある。

いろんなことが思うように進まないから、また焦って、イライラもして。
ホルモンバランスが悪いのか、
どうも変なのだ。

昨日から完全に情緒不安定になっていることに気づいている。
ちょっとしたことでイライラするし、カッとなる。
そして、体を動かすことがひどく億劫で。

今朝は完全に鬱状態。
ゴミ捨てに行かないと……と思いながら、体が動かない。
夫と朝から言い合いになっても、心が動かない。
怒りに任せたメールを送りつけたが、もう怒りすらない。
いつもなら後悔したり、白黒はっきりさせたりしたいのだけど。
そんな気力もない。

あきらめというのともちょっと違う。
自身の消滅。
答えがいつもほしいのに、今日はもうそれすら望んでいない。
このままどこかへフラフラと去っていこうかと、そんな気持ちになる。

いつからこんなふうに、いろんなことができなくなったんだろう。
もう少しテキパキと、きちんと、生きられたはずだったのに。

ゴハンも作るし、洗濯もするし、掃除もする。
でも、それがなぜか楽しくない。
とにかく体を動かすのがつらくて、しんどくて。
それを必死に動かしているから、ひどい重労働のように感じてしまう。
かといって、体調が悪いわけでもないのだ。

ただ、何か重い。
体も心も。

いろんなことがたまっていて、それが原因なんじゃないかと思い、
とにかく気になっていることをすべて片付けてリセットしようと思い、全部書き出した。
しかし、今朝からそれも出鼻をくじかれ、意気消沈している。

そう、意気消沈。
この言葉がピッタリくる。

激しい怒りも、焦りも、悲しみも、どこかへ追いやるほどの意気消沈。

こんなふうに分析して書いていたら、ちょっと笑けてきたけど。

カルシウムが足りないのかもしれない。
牛乳を買いに行こう。
ホルモンバランスには、大豆がいい。
豆乳と豆腐を買いに行こう。

だけど、スーパーが今の私には地の果てにあるように感じられて、遠い。
体も心もカチカチに固まってる。
原因は、全く不明。