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明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

家族の絆

2010-05-25 23:25:14 | 想い
昨年末に、姉ファミリーが義兄さんの仕事の都合でシンガポールに行ってしまった。
帰国は3年後。
小学6年生になる姪っ子のひなも一緒だ。

私に懐いていたひなのことだから、メールを何度も送ってくるだろうと思っていたら、
ほとんど音沙汰なし
かと思えば、姉からはしょっちゅうメールが来る。

私と姉は本当に仲の悪い姉妹で、子供の頃からケンカばかり。
性格が全く正反対で、彼女は長女らしい忍耐強さと真面目さをもっていた。
そして、バカがつくほど頑張り屋だった。
私は次女らしく、お調子者で甘え上手でガマンが嫌いでワガママ。
そんな自由奔放に生きている私のことが、彼女はどうしても好きになれなかったらしい。
また、子供の頃から私のマニアックな部分にも理解を示さず、
あくまでも普通に生きようとしていた。

彼女が結婚してからも、可愛がっているひなが生まれてからも、
会うのは年に2、3回。
それこそ、盆と正月くらいだった。

それが、シンガポールに行ってからというもの、長い長いメールを送ってくる。
もちろん、それが嫌なはずはなく、楽しく読んでいる。
姉の書く文章などほとんど読んだことがないので、新鮮でもある。

向こうでは、セレブ奥様な生活をしているようだ。
ダンナさんはシンガポール、ドイツ、日本、中国と、各国を飛びまわり、
この不景気にも関わらず、会社の業績も良いようだし、とてもいい暮らしをしている。
彼女が子供の頃から夢見ていた生活ができているんじゃないのかな、と思う。
よく彼女は言っていた。

「金持ち、ケンカしない!」

かおり、うちはお金がないから両親がケンカするんだよ、
お金があったらケンカしないよ、
お金持ちがいいね、
お金持ちの人と結婚したいわ……

彼女はよくそう言っていた。
そして、海外で暮らすということも夢の一つだった。

昔はそういう彼女の夢に猛反発していたけれど、
今は、あの頃私が思っていたよりずっと、この夢は純粋だったのかもしれないと思う。
勝手気ままに生きられた私と違い、きっと多くのものを背負っていたんだろうな。
「金持ちケンカしない」を信条としていた意味が、ようやくわかってきたのだ。

それに、結果的には不自由ない暮らしをしているけれど、
お義兄さんと結婚したのは、別にお金持ちになりたいからではなかった。
世界を飛びまわるなんて、そんな予兆も感じさせないほど、のんびりしたタイプの人だったし。
第一、今も別にむちゃくちゃお金持ちなわけではない。
ただ、お金のことで言い争ったりしない程度には余裕がある、というくらいで。

だけど、今、姉は幸せなんだろうなと思う。
優しいダンナさんと、子供がいて。
夢だった海外暮らしができて。
もう「金持ちケンカしない」だって、忘れてしまったかもしれない。
まあ、私は子供心にインパクトが強すぎて、今も忘れられないけど

こんなことを今日書いたのは、さっきメールチェックをしたら、
珍しくひなからメールが来ていたから。
26日が私の誕生日だということで、「おめでとう」のメールだった。
覚えているわけがないので、姉が教えたんだろうと思う。

殺し合うんじゃないかと思うほど仲が悪かった姉だけど、
3年後に帰国したら、もう少し仲良くなれる気がする。
なんとなく。

不思議なもので、あんなにボロボロだった家族が、今もちゃんと結びついている。
いろんな確執は消え、お互いに思いやって生きているように思う。
なんだろうな、これは。

結婚してから、父親の良いところも日々感じるようになった。
結婚記念日と誕生日には必ずお祝いのメールをくれる。
とてもマメだ。

とにかく我が家は躾に厳しい家だったと、いまさらながら思う。
母親は上品だし、よく考えてみれば父親もきちんとした人だった。
結婚して、夏に夫がパンツ1枚でウロウロするのを見て、最初は卒倒しそうだった
そんな姿を見たことがなかったからだ。

ご飯を食べる時の行儀もそう。
足を崩してご飯を食べるなんて考えられなかったし、
姿勢正しく!箸をきちんと持って!お茶碗の持ち方が悪い!と、何度叱られたことか。

また、おとんは毎週日曜日の夜に必ず100%、靴を磨いた。
私の靴まで全部磨き、「かおり、靴をいつもキレイにしておけ」とよく言われた。
「靴が汚い女性は、下着まで汚いと思われる」
というのが、おとんの持論で(笑)

あの厳しい躾の甲斐もあまりなく、そんなにきちんとできない私だが、
それでもまあ、常識の範囲くらいの礼儀は守れているし、
最低限、いろんなことをきちんとできていると思う。
子供の頃は嫌だったけど、今となっては親に感謝していることの一つだ。

先日、両親と夫と4人で「三笑亭」にご飯を食べに行った。
「三笑亭」というのは、町民なら誰もが知っている、山崎にある老舗の天ぷら屋さん。
(最近、天ぷら屋の話ばっかりだな……)

山崎は昔、「油座」があったということで、ここの天ぷらはおいしい。
私も15年ぶりくらいに行ったのだけど、なかなかよかった。



お昼の天ぷら御膳が3700円。
まあ、天ぷら以外もおいしかったので、いいかな。
両親も喜んでくれた。

これから、少しずつでも親孝行したいと思っている。

絶対に家族のありがたみなんて感じるはずがないと思っていた子供時代。
こんなふうに穏やかな気持ちで両親や姉を想える日が来るなんて、
考えたこともなかった。
でも、今は家族に感謝している。
私もようやく大人になったのかな。




今夜の雑談(本・人・仕事・食)

2010-05-22 01:47:33 | 想い
村上春樹の「1Q84」BOOK3を読み終わった。

感想は、難しい。

頭が悪いのか、読解力がないのか、
あと2回は読み返さないと何も言えない。
読んで、わかる人がいれば、ぜひ解説してほしい。
いろんな人の見解を知りたい。

村上春樹は本当に好きなんだけど、この数年の作品はどうもピンとこない。

私がもう圧倒的に好きなのは、「国境の南 太陽の西」で。

結局のところ、小説や映画、音楽もそうだけど、芸術や文学なんていうのは、
その善し悪しを決めるのは、その人の感性だ。

感性、というか、経験というか。

「絶対的にいいもの」なんて、たぶんない。
「一般的に多くの人に好かれるもの」はあるけれど。

いろんな人がいて、いろんな考え方・感じ方があって、
それで世の中は成り立っている。
だから面白いんだろう。

 *   *   *

最近、ちょっと淋しいことがあった。
これを読んでいる人の何人かは、何のことを言っているのかわかると思うけど。

その人のことをいい加減だとか、無責任だとかは思わない。
裏切られたとも思わない。
怒ってもいないし、キライにもなれない。

ただ、思い出すと、とても淋しい気持ちになる。

何かもう少しやり方がなかったのかな、と思う。
自分がもっと器の大きい人間だったら、頼ってもらえたのかなと、後悔したり。
その場所では一番近くにいたつもりだったけど、結局何もできなかった。

勿論、自分に責任があるとか思っているわけではない。

ただ、淋しいから。私は。

会えないこと、一緒に仕事ができないこと、
しゃべって笑い合えないこと、
一緒にビールを飲めないこと、

いろんなことが淋しい。

苦手だなぁ、こういうのは。

 *   *   *

沢木耕太郎の文庫の新刊を見つけて買った。
久しぶりに沢木作品を読んでいる。

『「愛」という言葉を口にできなかった二人のために』

これは、『世界は「使われなかった人生」であふれてる』に続く、映画エッセイだ。
沢木さんの文章っていうのは、なんでこんなにいいんだろうな。
もう、理想だ。

的確で狂いがなく、簡潔で、小気味良いリズムがあり、
決して難しい言葉を使わず、わかりやすい。
そして、人間味がある。優しさがある。
悲しみを理解できる、人としての大きさが滲み出ている。

こんな文章を書けたら・・・
こんなふうに優しい目で人間を見つめられたら・・・
と、どんなに憧れたことだろう。

初めて読んだのは、10代の終わりだったか。

物書きという道を歩んでみたものの、私はいつまでたってもしがないライターで。
だけど、沢木さんの文章に触れると、
あのキラキラ輝くような未来を夢見ていた自分の気持ちを思い出す。
鮮やかに。

 *   *   *

この間、近くに天ぷらを出す店が新しくできたということで、
たまたま夫と通りかかったときに、寄ってみた。

お昼のランチ。
天ぷら定食が1200円。

この地域でこの値段はないやろ・・・と思いながらも、
逆に、めっちゃ美味しかったら、こんな近くでいつでも来ることができるし・・・
という思いもあって、試しに食べてみることにした。
私は天ぷらが大好きなので。

入ってみると、きれいだし、和風だけどスタイリッシュで落ち着いた雰囲気。

でも、天ぷらが運ばれてきて
「あー、あかんな」と、一瞬でわかった。

こだわりの旬の素材を使っているとのことで、
7、8種類の魚介類と野菜が盛り合わせてあったのだが、
見た目でまず美味しそうじゃないのだ。

全体的に揚げすぎ?
茶色っぽい。

それでもまあ、食べてみると、思った通り・・・
サクサクもしていないし、ふっくらもしていないし、
素材が生かされているわけでもない。

これに、赤だし、サラダ、ご飯、香の物がつく。

1200円はないわ・・・
というか、この味だったら、800円でも私は行かない。

なぜか?
簡単な話。
自分が作った天ぷらのほうがよほど美味しいからだ。

お金を出してわざわざ食べるのは、自分で作るよりおいしいものが食べられるからだ。
もしくは、自分では作れないようなもの、自分では仕入れられない食材など・・・
プロっていうのは、そういうことだと思う。

ちょっと前に、芦屋近辺で取材があり、お昼に2時間空いたので
あやとランチをすることになった。
芦屋の天ぷら屋さん。
ランチが1600円。

だけど、全然高いとは思わなかった。
芦屋という土地柄もあるし、待遇、味、かなり満足した。
むしろ、「おトクやな~」なんて言いながら店を出たくらいだ。

福島にも、行きつけの天ぷら屋がある。
ちょっとビールとお酒飲んだら7000円くらい。
でも、ここもいつ行っても満足する。

最低レベルで自分が揚げる天ぷら。
そして、それより旨い天ぷらをいくらか知っていると、
やっぱりあのレベルでお金を払って食べようとは思えない。
厳しいようだが、プロっていうのはそういうことだろうと思うのだ。

私だって、「こんな文章だったら、自分で書きます」と言われたら、稼げない。
でも、「あんな話をよくこんなふうにうまくまとめられますね。さすがプロ!」と言ってもらえる。
そういう仕事をするから、お金をもらえる。

久しぶりに私はずっとこの店のことでモヤモヤしていた。
夫に「もういいやん」と言われても、しつこく「あの店は・・・」といい続けた。
そして、ここにも書いた(笑)

なんか、いやなんだなぁ、お金を出してまずいものを食べるのが。
ファストフードだったら、「こんなもんだろう」という覚悟もあるし、安いから我慢できる。
それでもあまり行かないけど・・・
まずくはないと思う。
でも、興味が湧かない。

ただ、1回行ってまたすぐに行きたくなるお店と、
もう二度と行かないお店とは、はっきりしている。

昨年、新規開拓したお店では、谷四にある「和亭」と
福島の「Kamoshiya Kusumoto」、京都の「なな治」がよかった。
全部タイプは違うけど、誠実で美味しくて信念があった。
既に2回以上行っているお店もあるし、これからも行きたいお店だ。

他にもたくさんのお店へ行ったけど、あまりリピートしない。
連れて行く人に合わせてリピートすることはあるけれど。

基本的に自分が選ぶお店は美味しいんだが、何か「ガツン」とやられるような、
あかん、まいった!となるような1品がないと、
やっぱり「次も行こう」という気持ちにはならない。

食いしん坊だし、美味しいものに対しては異常な情熱があるし、
できれば新たな店へ行きたいという気持ちが強いのだ。
でも、その情熱すら曲げさせるほど美味しいものがあると、リピートしてしまう。
あと、お酒がおいしいというのは、必須。

まあ、味覚も人それぞれだから、自分がおいしいと思うものが絶対とは全く思っていない。
逆に、違って当たり前と思う。
例えば、日本酒でも、夫と私は好みが似ているようで、実は微妙に異なる。
そんなもんだ。

だからこそ、「自分」のおいしいと思うものをひたすら探し求めている。
(当たり前だけど、自分で作るのが一番自分の舌には合うんだけどね)


しみじみ。

2010-05-12 10:54:17 | 想い
GW明けからずっと異常な忙しさ。
一段落したかと思いきや、細かな仕事が途切れず、
さらに毎日塾……。

今週からテスト対策が始まって、新人講師のフォローなどで
毎日駆り出されている。

しかし、もう少しの辛抱だ。
もう少しの辛抱だからと、自分自身に言い聞かせる。

採用もうまくいきつつあるし、
新人講師も、昨日国語を見たけれど、私より授業がうまい。
安堵する。

体中の蕁麻疹は、ビタミン不足かもしれない。
いつもはすぐ治る風邪が長引くのも。

自分がパンだけ齧って2日も3日も暮らすことも嫌だけど、
もっと耐えられないのは、夫に何もしてあげられないこと。
お弁当も、GW明けてから1日も作っていないし。

なのに。

昨日、夜中に塾から帰宅したら、
ケーキがあった。

夫が買ってきてくれていた。
「かおりが元気ないから」と。

後で夫のブログを読めば、どうやら昨日、大きな仕事が1つ終了したそうな。

こんな日くらい、温かいご飯を用意してあげたかった。
その後、夜中2時前まで、自分の部屋で一人、
安物のバーボンを舐めている夫の姿を見つめて、ちょっと自己嫌悪。

それで、早寝したい気持ちを抑えて、私も夜中に味噌汁とほうれん草のおひたしを作った。
せめて明日の朝は、まともなものを食べさせてあげたくて。

味噌汁を一口味見。

深く、長い、ため息が出た。

生きる源は、やっぱり食事だ。

夫に食べさせてあげるつもりだったけれど、
実は自分が一番欲していたんだと気づく。

クリーニング行かないと、
役場に住民票取りに行かないと、
銀行に行かないと、
ラップが切れた、

日々のこまごました用事を、生活の中でどううまく組み込んでいくか。
落ち着いて、計画性をもって生活しなければ、今週を乗り切れない。

「時間」の区切りで仕事をするのと、
「出来るまで」が仕事なのとの違いは大きいといつも思う。
量的には1時間の仕事でも、3時間あるなら3時間かけて
より良いものを作りたいと思ってしまうからだ。
ノリ始めるまでの時間も必要だし、集中力が切れればまた延長するし、
へたすりゃズルズルと時間だけが過ぎてしまう。

ライター、講師、主婦。
いろんな顔で、いろんな仕事を上手にこなしていくためには、
もっと計画性と自己管理が必要だと、しみじみ思う。
まだ甘いなぁ。

1日30分の、このブログを書く時間が、
今はとても大切。
心の調整タイム。

ふつふつ。

2010-05-11 03:06:17 | 想い
夜中12時前にようやく原稿が書け、全部送信した。

同じ頃、夫が帰宅。
「カンパイして一緒にテレビみよう~」と言うので、
ビールで乾杯して、
日本酒(栃木の大那 純米吟醸)を味わって、
グレンリベット18年でしめた。

夫、就寝。

疲れているんだから私も寝ればいいのにと思いながらも、
グレンフィディック12年を飲みながら、「墓場鬼太郎」を読んでいる。

なぜか。

NHKの朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」にはまっているからである。

もともと私は水木しげるが大好きで。
「墓場鬼太郎」もドラマを見て買ったわけではない。
(注:ゲゲゲの鬼太郎ではない。それより初期の作品だ)
今から10年くらい前に復刻版が出たときにすぐ買った。
鳥取・境港の水木しげるロードには3回行っている。
水木しげるのエッセイなども読んでいる。

今、ドラマは録画してまとめてみているのだが、めちゃくちゃいい。
毎回、泣く。

中でも涙が止まらなかったのは、
一度打ち切りになった「墓場鬼太郎」が再開できることになり、
その1作目を向井理扮する水木しげるがひたすらに描くシーン。
……を、そっと見た女房がその姿に感動するシーンだ。

あんな大御所と自分を重ね合わせるなんておこがましいのはわかっているが、
モノを生み出すときの興奮や集中力が苦しいくらいに共感できて、
声をあげて泣きたいくらい感動してしまった。

「モノを生み出したい」
と思う情熱って、一体何なんだろうな、と思うことがある。
それが、人に認められるとか、認められないとか、
そんなことは全く関係なくて、
ただ、自分の内側からほとばしるように出てくる何かを
カタチにしなくては気がすまなくて。

あの感じを、私は確かに味わったことがある。
もう随分昔のことだけど。

たぶん、これは、誰もがもっている経験ではないのだと思う。
だからそう思えば、自分は何かを生み出してもいい人間なのか、と肯定する気持ちにもなるのだけれど。

そんなことを考えていて、最近ふと辿り着いた想いがある。
それは、「意外に自分は器用な人間だったのかな」ということ。
どちらかというと自分は不器用(手先とかではなく、生き方として)なタイプではないかと思っていたのだけれど、
案外そうではなかったのかなと。
本当に不器用な人間なら、フリーライターとして稼いだり、
塾で教えたりということはできなかっただろう。

器用に、生み出したいという情熱を捨てた。
その程度のものだったのかなと、今は思う。

不器用に、ずっと書きたいものを書き続けていたら、
違う人生があっただろうか?
とても貧乏で、でも、今持っていない何かを持っている人生。

そんなことをふと考える。

そんなことを考えるきっかけを作ってくれたドラマ「ゲゲゲの女房」。
水木しげるはやっぱりすごい。
結局、自分は、不器用で熱くて優しい人に惹かれるんだと思う。
そうありたかった自分と重ね合わせているのか。

しかし、本当に器用な人の仲間入りができるわけでもなく、
どこにもいけない自分をもてあましている。

こんな時、いつも読みたくなるのは、
なぜか萩原朔太郎の「月に吠える」で。

その中の「さびしい人格」が私は好きで、
それこそもう、100回、200回と読んだ。

  ああいつかも、私は高い山の上へ登って行った。
  けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのようにあこがれて登って行った。
  山の絶頂に立ったとき、虫けらはさびしい涙をながした。
  あふげば、ぼうぼうたる草むらの頂上で、
  おほきな白っぽい雲がながれてゐた。

長めの詩で、上記はほんの一部分なんだけど、
ここを読むといつも苦しくなる。
虫けらのようにさびしい涙がながれる。

文学は、いつも私を慰めてくれた。
だけど、決して優しくはなかった。

自分の心の奥で、消えることのない熱いもの。
全部捨ててしまえれば楽なんだろうけど、
器用でも不器用でもない、中途半端な私は、
ふつふつと燃えるカスみたいな情熱に
いつか空気を送り込んで燃え上がらせたいという欲望を

まだ、大事に持っているのかもしれない。

憧れの楽天家

2010-04-12 13:38:58 | 想い
私は自分の情緒をコントロールできないことが多い。
特に、「きちんとできない状況」が苦手だ。
やろうと思っていたことがハプニングで変更したり、
誰かの邪魔を受けたり、
自分自身の怠惰だったりで、「きちんと」できなかったとき、
どうにも不愉快でイライラし、ブルーな気持ちになる。
そこから気持ちを上げるのは不可能。
切り替える、ということができない。

この土日もそんな感じだった。
仕事を残したままで遊んでしまい、
やろうと思っていたこともできない週末になってしまったことにモヤモヤ。

人生には「非常事態」なんて滅多にないということを頭では理解しているのだけど、
そういう状況になれば忘れてしまう。
「たいしたことじゃないさ」「なんとかなるさ」と片付けられず、
なぜこうなったのか、なぜ怠惰になったのか、なぜうまくいかなかったのかと追求を重ね、
誰かを責めたり自分自身を恨んだり。

私の人生は常に非常事態と背中合わせ。

大らかで小さなことを気にしない人と話をすると、いつも感動する。
多少いい加減で、でもそれで楽しんでいる人と出会うと、尊敬する。
そういう人は、計画を立て、計画を全うするように自分を律し、きちんとやることなんて興味がないようなのだ。
だからといって人に迷惑をかけるわけでもないし、
明るく楽しそうに生きている。
きっと器が大きいんだろうな、と思う。

そして、自分は器が小さい人間なんだな、と思う。

大らかに生きたい、一度でいいから「楽天的やな~」とか「のんびりやさん」と言われてみたいと憧れ、
くよくよしないための本とか、悲観的にならない本とか読んでみるのだけど、
なかなかそういう人間には近づけない。
(もうこんな本を読んでいる時点でダメだ!ダメなんだ!!)

自分がこんなだから、私はどうも大らかな人に惹かれるようで、
夫はいつも不思議になるほど「焦り」がない。

例えば、土日に仕事が残っていても、先に遊んで後でやったらいいか、というタイプ。
私は仕事が残っていると気になってしまって、心から楽しく遊べない。
結局、日曜の夜中2時過ぎてもまだ仕事をしている夫を見て、なんで?と思う。
しんどくないのか?
先にやっておけば残り時間を思う存分遊べて、月曜日に備えて早寝することだってできるのに、と思う。

しかし、私もこの週末は夫の誘いにのり、そして自分の怠惰もあり、
仕事を残したままで遊んでしまった。
その間、ずっとうしろめたいような気持ちで、どうしても楽しめない。

夫に言うと、「夜中にやったらいいやん」と言う。
でも、それでは体も頭も疲れきっていているから、100%の力を出し切れるかわからない。
私は仕事に対して常に100%の自分で向き合いたいのだ。
そう話しても、いまひとつピンとこないようだ。

今朝も月に一度の段ボール回収のゴミの日だった。
引っ越しの後の段ボールがずっと捨てられなくて、1ヶ月も待ったのだ。
何があっても今日は捨てなくてはならないと、この数週間、私の頭の中はそのことでいっぱいだった。
夫にも何度も「手伝ってな」と確認し、
昨晩家の前に出し、今朝は7時起きでゴミ捨て場に運ぶ用意をしていた。

夫を起こすと、さすがに起きてくれた。
じゃあ、運ぼうという時になってみると、夫はなぜかヒゲを剃っている!!

なんで、ヒゲ?!
今必要か?!

思わず私がキレると、夫もキレ返し、
「8時までに出したらいいんやろ?置いとけや!俺がやるから!」と言う。

でも、もう7時半を過ぎていたのだ。
それに、ゴミ回収の車が必ず8時過ぎてから来るとは限らないじゃないか!!

私の頭にあるのはいつも「もし、ダメだったら……」ということなのだ。
その最悪パターンを想定し、それさえも防げるような完璧な対処法で動くことを考える。
仕事もそう。
もし、眠気に負けて適当なものを書いてしまったら……、
もし、体調が悪くなったり寝坊したりして納期に間に合わなくなったら……
その最悪パターンを避けるために動く。

だから、ヒゲをそり続けている夫は無視して、自分だけでひたすらゴミを運んだ。

冷静になると、また自分で非常事態を作っていることがわかる。
例えば、ゴミ回収が8時前に来てしまい、ゴミを持って行ってもらえなかったとして、
それが自分の人生や命にかかわるだろうか?
また1ヶ月ガマンすれば、ゴミ回収の日は来るのだ。

そんなことはわかっている。
だけど、たいした努力でもないし、ちょっと早くやるだけで完璧にできるのなら、
それにこしたことはないじゃないか、というのが私の考え。
最悪パターンを避けるのは、そんなに難しいことじゃないのだ。
逆に、それを怠ったために最悪パターンに陥るほうがダメージが大きい。

結局は、この「ダメージ」を受け流せるか、後悔するかの違いなのかもしれないな。
私はこのダメージを「まあ、仕方ない」とは思えないのだ。
後々まで引きずるに決まってる。
それがわかるだけに、最悪パターン防止に努めるのである。

夫は違う。
いつも「ギリギリセーフ」の人生。
そう、たいてい人生はギリギリでも「アウト」より「セーフ」のほうが多い。
それを知ってか知らずしてか、夫は常にギリギリで動く。
そして、たとえアウトになったとしても、気持ちをすぐに切り替えられる。
「ま、いいか」「なんとかなるさ」「これはこれで楽しんでみよう」と。

私はそれをイライラしながら見て、
心のどこかでは羨ましがってもいるのだ。
こんなふうに生きられたら、もっと生きることがラクだろうなと。
常にアウトを恐れ、自分で自分を律しながら生きるより。

そんなことを考えたこの週末と今朝。

仕事は間に合い、段ボールも回収された。
平和に時は過ぎていく。

なんでこんな性質なんだろうな、と思う。
だけどきっと変わることはできない。

それならば、せめて最悪パターンの想定を自分以外の人にも求めることはやめよう。
それから、むやみに非常事態を作らないこと。
最近、ずっとイライラしていたし、なんだか毎日を楽しめていなかった。
今日から切り替え!
大らかに生きることは無理でも、人生を楽しむことはできるはずだから。

置いてきた野心

2010-04-09 00:19:51 | 想い
1日が終わるのが早い。
決して慌しいわけではなく、
静かに、穏やかに、時が移っていく。

今やっと本日の仕事終了。
思いがけず時間がかかってしまった。
年々仕事のスピードは落ちているように思う。
これが「衰え」というものか。
目を背けても実感してしまう瞬間というのが、確かにある。

今日はポカポカと暖かい春の日だった。
太陽の下を歩きたいと、窓の外ばかり見ながら1日を過ごしてしまった。
仕事が終われば……と思いながらも、夕方になり、夜になり、夜中になった。

庭の姫シャラは少しずつ芽吹いてきて、毎日私を楽しませてくれる。
リビングにいると、吹き抜けの高い窓から青空が見える。
外と変わらない明るさ。

光を浴びながら、床に寝転び、無垢の木の手触りを確かめる。
少しひんやりとしていて、でもやわらかい。

誰とも話をすることなく、1日が終わる。
とても静かな生活。

もう何も欲しいものがない。

よくそう思う。

……本当かな?

時折、冷え切った野心と対面し、
淋しいような気持ちの中に安堵も覚える。

自分自身に向き合うことのない人生は、おそろしく退屈で幸せだ。

目的もなく書きなぐりたいような気持ちも
どこかに置いてきてしまった。

狂気に近い孤独感や
締め付けられるほどの淋しさもなくなった。

牙をむき出しにすることもなく、
他人とうまくやることも考えるようになった。

いろんなことが変わっていく。

最近、自分の中に「言葉」が少ないように思う。
これも「衰え」なんだろうか。

体や能力は仕方ないとしても、
心や感性まで衰えてしまうことに、いつも恐怖を感じている。

だけど、もう昔のように熱くならない。

こういう今の自分が書く物語を、読んでみたい気もしてるけど。

自分の原点

2010-03-25 13:47:45 | 想い
ようやく仕事も塾も一段落して、部屋を片付けている。
この2、3日で完璧にやりあげるつもりだ。
(電話もつなぐぞ!がんばるぞ!)

整理していたら、11歳の私の日記が出てきた。
小5・6年の担任は岬先生といって、
まだ大学を出たてのような若くて元気のいい女の先生だった。

今もやっているのかわからないけれど、
少なくともその当時は先生もやる気に満ち溢れていたのだろうな(今思えば)、
生徒全員と交換日記をしていた。
週に1度提出で、毎日書いてもいいし、1日でもよかった。

私は文章を書くのが当時から好きだったし、
今と同じようにいろんなことを分析して考えるのが好きだったから、
とにかくたくさん書いて出していた。
先生はいちいち返事をくれる。
これって大変だよなぁ・・・若くないとできないと思う

この日記、2冊ある。
パラパラめくると、おそろしく汚い字でびっしり文章が書かれている。
整理しているときに、こういう「昔思い出グッズ」を見てはいけないという鉄則を破り、
好奇心に負けて、ついつい少しだけ覗いてしまった。

数ページ読んだだけで、涙がボロボロ出た。

懐かしいとか、そういうノスタルジックな気持ちではなくて、
自分の、忘れていた、ピュアな感受性に触れてしまうと、涙が出るのだ。

小学生の頃の私は本当に普通の子供の3倍くらい感受性が豊かで、
それをまた的確に文章表現しているものだから、
もうその時の幼い私の感覚がそのまんま甦ってきて、
ビリビリと電気で痺れたみたいに体が萎縮して、どっと涙が出てきた。

学級園で育てていたスイカが台風でダメになっただけで、
「また一つの命がなくなったんだなぁ。かわいそう」と嘆くような子供である。
虹が出ているのを見れば、「こんな美しいものがあるのか!生きていてよかった」と書いているし、
きわめつけに、「空になりたい」という詩まである
内容は、「悲しみ、苦しみ、みんな忘れて空になりたい」という絶望の詩・・・

あとは、世の中の不公平への疑問、戦争反対、差別反対・・・
さらには「本当の友だちとは何か?」とか・・・
社会批判と哲学と自己否定と生死の話ばかり。
それがまた11歳らしいピュアな目で、身近な体験と共に綴られているのだからたまらない。
先生もさぞかしびっくりしただろうな

でも、いつしかこの自分のピュアな感受性にはカバーをかけるようになっていった。
たぶん、これが「大人になる」ってことだ。
まともに出していたのでは、死んでしまうか宗教に走るしかないからだ。
世の中の不公平と自分の存在意義(自己否定)が、私を押しつぶしてしまいそうだった。
本当に危なかった。

だから、こうやって「本来の自分」と触れ合うと、
なんだかよくわからない感情で胸が苦しくなる。

きっと小説を書き出したのも、この感情との折り合いをつけるためだったのだろう。

そして、私がいかに子供の頃から母親の影響を受けていたかということもよくわかる。
随所に「おかあさんがこう言っていた」という文があるからだ。
すごいなぁ、母親の力って・・・

でもこの日記、苦しいだけでなく、ユーモアもある。

最初に家族の自己紹介があるんだけど、
姉ちゃんの紹介文は、「おこずかいがなくなったら、えんぴつやけしゴム、ノート、いろんなものを私に売りつけます」
母の紹介文は、「しゅみはそうじと手げいかな。心配しょうなのがけってんです」
父の紹介文は、「やさしいけど、ほしいものがあったらすぐかうのがけってんかな」

短い文章だけど的確!全てを表しているなぁ・・・

そして、「お母さんへの不満」という作文が面白かった。
延々とおかんへの不満が綴ってあるのだ。

「もうわかってるのにでかける前、『かぎかけてね、おやつは○○の中よ。へんな人にきをつけてね、へんな人はあけちゃだめよ。ハンカチもった?今日なにか予定あるの?』と心配するところがいや。それにきれいずきなので、ちょっとつくえの上がちらかってると、クドクドとうるさくおこる。それと、せいせきをおねえちゃんとくらべる。」

今と変わらんなぁ・・・
でも、最後を読んで笑った。

「こんなふうにいっぱいいやなところがあるけど、いいところもやっぱりある。とにかくおもしろいところがいいと思う」

とにかくおもしろいからいいらしい・・・
大阪の子やね!私も・・・面白ければすべてOK!

そして、昔からおもしろかったんやなぁ・・・、おかん。
今度会ったら言ってやろ~

  *   *   *

余談。
中学のサイン帳みていたら、
ふみこが「高校離れるけど、最低でも年に1回は会おうな!」と書いていて、笑った。
あの時は永遠の別れみたいな気持ちやったんやなぁ、きっと。
年に1回って・・・何回会ってるねん(笑)

そして、もんちゃんのサイン帳が大爆笑やった。
やっぱり天才やな・・・


奇跡を起こせなかった。

2010-03-23 18:01:16 | 想い
春の風は冷たく、そして厳しかった。

  *   *   *

今日は大阪府公立高校の合格発表。
私が見に行く担当は北○高校。
言わずと知れた学区内ナンバー1高校…ではなく、
一字違いのワースト1高校だ。

偏差値33!!
この高校目指して毎日何時間も勉強させてるんやから・・・どんな塾やねん。
学校、家庭、地域。
子供たちを取り囲む全てが協力し合わないと、いい教育はできないなぁと実感する。
地域(塾もこの中に含むなら)だけで頑張ったって限界があるのだ。

まあ、教育論を書いていたら長くなるので結果発表を…

10時前に学校に到着すると、生徒が数人。
今年は塾から受けたのが16人もいる。
みんな緊張しているみたいだ。
男子はほとんど落ちないはずなので、そんなに緊張しなくても…と思いながらも、
私もやはり心配で、10時にゲートが開くと同時に走って行った

真っ先に見た16番…

ない…

ない…

140番は?

ない…

振り返ったら16番の生徒がこちらへ来る!
私のこんな顔を見られたら落ちたことがわかるから、すぐに隠れた。

少し落ち着いてから声をかけようと思って探したが、
彼は自分の番号を確認すると、走って行ってしまったという(他生徒談)

どんな言葉をかけても辛いだけだろうけど、一言だけ声をかけたかった。
「でも、あんたは頑張った!これは無駄じゃなかった!」って。

私がしょぼくれていると、受かった生徒がわらわら寄ってきて、
嬉しそうに「受かったで~」と言う。
でも、落ちた生徒もいることを伝えると、彼らも急にテンションが下がった。
「なんか喜べへんなぁ。みんな受かりたかった」
「あいつ、めっちゃ頑張ってたやん」
そう言って、自分のことみたいに残念がってくれるのだ
優しい子たち・・・

昔からそうだ。
Cクラスの生徒って、学校が違ってもみんな一つのチームみたいになる。
仲良くなる。
ヘンな連帯感。
学校の落ちこぼれが集まって、頑張って慣れない勉強して、仲間になる。
そして、同じ高校を目指す。
だから、「みんなで受かりたかった」という。

140番の生徒は、半分金髪で現れて、「俺、落ちた」と言った。
「なんで落ちたんやろ?」と。
この子は何度怒っても、塾をさぼりたおしてた子。

「ちゃんと塾に来てたら、受かったよ」としか言えなかった。
頭いい子なのにな・・・
もう少し親がちゃんと見てあげていれば・・・
そんなことを言ってももう遅い。

あと一人は、冬休みから入塾した女の子で、「3-2」でも指で計算する。
一生懸命勉強はしてくれたけど、やっぱり小学2年生なみの学力で
高校受験は無理だった・・・

結局、3人落ちた。

受かった子に、おめでとうとバイバイを言って、塾へ向かう。
風が冷たい。
トボトボと駅までの道を歩く。
一人になったら、強い後悔がおそってきて、涙が出る。
久しぶりに、合格発表を見て泣いたな、と思う。

自問。
あの子にもう少し何かしてやれなかったか?
本当にあれが私の精一杯だったか?

嬉しそうに「昨日の社会、めっちゃ答えられてん!お母さんにも言ってん!」と
私に報告してくれたあの子の嬉しそうな顔が思い出されて、せつなくなる。

あの子を受からせるのは「奇跡」に挑戦することだった。
でも、あの子が夏休みに塾にやってきてからの8ヶ月間、
私の目標はずっとあの子を合格させることだった。
だから、普段なら絶対にやらない個別でも特別に教えたし、
私のことを怖がるくらい、厳しいことも言った。

どうしても作文が書けなくて、何度やっても書けなくて・・・
でも、最後の授業で神が私に降りてきた。

なんとなく思いついて「私の好きな季節」というタイトルで作文を書かせたら、
なんと、本当に翌日の入試問題にそれが出たのだ

神降臨。

そして、倍率は男子だけが例年になく低い。

これは、私の願いが届いたのだと思った。
奇跡は起きる、と確信した。

でも、奇跡は起きなかった。

合格発表後、こんなに悔しいのは久しぶりだ。
思い出すだけで涙が出る。
悔しい。
ほんとに悔しい。

どうしてこんなにその生徒に思い入れがあるかというと、
私がいつも言う「小さな成功体験」をどうしても味わってほしかったからだ。
その子は何も頑張ったことがない。
勉強だけじゃなく、「しんどいもん」と体育はさぼるし、
部活や趣味に力を入れているわけでもないし、
本当に何もしてこなかったと聞いている。

でも、塾に来て、初めて勉強を頑張った。
目標をもった。

もし、努力して目標を達成できたら、その小さな成功体験は、
きっと彼の人生を変えてくれると思った。
努力して成功する喜びを、どうしても味わってほしかったのだ。

とてもピュアで騙されやすくて、心配な子だから・・・
私の独りよがりであったとしても、ここで関わった限り、
この「成功体験」こそが、私がこの子に協力できる唯一のことだと感じた。
それが役目だと思った。

だから。

でも、無理だったか・・・
残念だ。とても。本当に。情けない、自分が。
ごめんなと謝りたくなる。
私のせいじゃないけど、でも、ごめんと。

久しぶりやな、こんな脱力感。

たぶん、大好きやったんやろな、あの子のこと。
出来が悪いから、その分かわいくて仕方なかった。
私がこれだけ忙しい生活の中で、「個別でみる」と言ったのは、
本当にこの10年であの子くらいじゃないか?

でも、今年の学年は、本当にみんな可愛かった。
忙しい中でも、授業すると癒されることが多かったし。
もう会えないと思うと、とても淋しい。

淋しい・・・

淋しいよーーーーーー

嫌だねぇ、別れはさー・・・

 *   *   *

塾から帰って買い物して役場行って、家へと歩く。
雨の中、桜の花がちらほらと咲いていた。
もう桜の咲く時期なんだなぁ。

でも、サクラサカズ・・・

今日の春の風は冷たく、そして、とても私に厳しかった。


2010年の目標が決まらない

2010-01-13 18:09:55 | 想い
今年の目標を立てようと思いながら、もう10日以上が経ってしまった・・・

今年は「目標」といっても、
「月に1回禁酒するぞ~っ!」みたいな軽いものではなくて、

本当に「なりたい自分」を設定して、
それに近づけるために日々「何をするか」を決め、
デイリー目標をきちんと「実行」し、
1年経ったときに「結果が出ている」ようにしたいと思っている。

なので、中途半端な目標は立てられないのでどうしようかと考え、
今に至っているわけだ。
(真面目なのか何なのか、よくわからんな)

こうやって目標を何にしようかと考えているうちに一年が過ぎたりして……
あり得る。

軽い目標はいろいろあるのだ。
・ダイエットして結婚式のときの体重にする
・肌と髪のエイジングケア
・平日は家で飲みすぎない
・なるべく毎日夫のお弁当を作る
・週に2冊は本を読む
・ギターの練習に励む
・軽く運動する(ストレッチとか)
・できるだけ毎日、日記更新
・すぐにキレない、イラつかない、暴れない
・夜遊びしない(朝帰り禁止!)
などなど

でも、こういうのじゃないんだよなぁ・・・
「目標」を決められないって、どないやねんなとも思うけど、
今年は何か「頑張りたい」のだ。
もう少しストイックに自分を鍛えて、確実に眼に見えて違う自分になりたいのだ。

今週末には決めよう、絶対。

あと、今年も何か勉強したい。
去年は「きき酒師」の資格とったけど・・・
今年も何かやりたいなぁ。
ただ、それが別に何かの役に立つとか、仕事に結びつくとか、そういうことは望んでいない。

大学に行くときもそうだったけど、
学歴で仕事をしようと思ったことは一度もなかった。
だから就活も一度もしなかったし。

ただ、「学びたい」から行った。
あのときは、国文学がどうしてもやりたかった。
自分の知的好奇心を満たし、自分の財産(教養)のために学びたいと思った。
私にとって大学での勉強と、生きるために稼ぐこととは全く別物だった。

今年も、何か勉強したい。
目標をもって、勉強して、試験を受けて、合格するというのは、
最も小さくて簡単な成功体験だと思うし。
決して悪いことではない。
頭も使わないと弱ってくるしね・・・年々・・・

でも、学んでいて楽しくないと意味がないから、
自分が興味のあることじゃないといけない。

何かあるかな?

私は10歳から大学卒業するくらいまで茶道を習っていて・・・
今はもうその先生は亡くなってしまった。
お茶から離れてもう長い。
でも、もう一度お茶やりたいなぁと思うことが多々ある。

今思えば、お茶をたてるという行為そのものよりも、
季節の花や掛け軸、お茶道具を拝見したり、
柄杓でお湯を注いだ瞬間に立ち上る抹茶の香りに恍惚としたり、
そういうことが好きだったんだと思う。

資格もいいけど、単に習い事でもいいのかもなぁ。

今、ユーキャンの「あなたにピッタリの資格は」というのを診断してみたら、

「難しいことを攻略したいチャレンジャータイプ」らしい。

おすすめは、

・保育士
・カラーコーディネーター
・ファイナンシャルプランナー
・ピンズラー英語
・手話
・カリグラフィー

などなど、
全く興味のないものばっかり・・・(笑)

でも、
・中小企業診断士
もいいらしい。
実はこれは前から興味があったんだよなぁ・・・

さてさて、2010年どんなふうに生きようかな。

ちゃんと、ちゃんと!

2009-10-22 16:58:43 | 想い
最近、自分はだらしない人間になってきている、と思う。
自分が一番嫌悪する「だらしない」人。
本来の自分はもっと働き者で、もっときちんとしていて、
もっとフットワークが軽くて、もっと向上心があったんだけど

昨日、お昼間ずっと京都のお寺取材をしていた。
取材といっても、好きなお寺を普通に拝観して、あとでレビューを書くというもの。
だから、一人でぷらぷらと気軽に出かけた。

大好きな金福寺⇒詩仙堂⇒円光寺⇒曼殊院というコース。

金福寺の芭蕉庵のそばで静かに山の木々や庭の草花を眺めていると、
だんだん心が落ち着いてくるのを感じた。

そして、もうちょっとちゃんと意味のある生活をしよう、と思った。

本当に今、時間を無駄にしていることが多すぎる。
たいして興味もないテレビ番組をぼんやりと観ていたり……。
まあ、仕事が思うほど充実してないのが理由だけど、
自分でうまく気分転換ができなくなっている。
1日10時間分くらいの仕事がないと、とにかく焦って仕方がない。

気持ちが落ち込むから、気晴らしにテレビ観るか酒飲むか、みたいな、
そんな簡単な方へと向かってしまうのだ。
仕事がない時間をもう少し有効に使わないとダメだなぁ。
インプットをしっかりしてないから、
アウトプットできなくなっているんだろう。
もっと頭と感性を使わないとね。

だんだんカラッポになっていく自分が怖い……。

結局のところ、そんなくだらない気分転換しても
そのことに後で落ち込んでしまって、何の解決にもつながらない。
悪循環だ。

もっとちゃんとしよ……

でも、昨晩はふみこが9時半くらいに家を出られるというので、
HOME(近所のバー)に一緒に行った。
近所に住んでいると、こういうことができるのがいい
12時半くらいまでゆっくりめに飲んで、いろいろしゃべれてよかった。
友達としゃべると、やっぱり気持ちがリセットされる。

そして、今日は取材先でとてもいいお話を聞いた。
そこの会社案内のパンフ制作を頼まれてたのだけど、
ひたすら社長さんが話すのをヒアリングして、メモメモ・・・

会社への想いや商品への想いなどを語っているうちに、
社長さんは熱くなって涙をちょっと流されて、
私もぐっときて、涙が浮かぶのをこらえるのに必死だった。

この想いを文章にしてほしいと言われ、
自分にはそれができることがよくわかっていたし、
久しぶりに自分の力を発揮できる仕事だなぁと思って、ドキドキした。

取材の途中から、文章が既に出来上がることがある。
頭の中で、もうほぼ出来上がっている。
それを書面に書き写していく作業は、昔小説を書いていたときに似ている。
だから、ドキドキするんだろうな・・・

その会社はアルバムを作っている会社なのだけど、
「見た目には他の会社のアルバムと同じように見えるかもしれない、
だけど、決定的にうちが違うところがある」
と社長さんはおっしゃった。

それは、アルバム(商品)に込める「想い」。

「心の中でいいから、必ず『ありがとうございます』と感謝してから
見積りを出させるように言っています」
と言っていた。

それを聞いて、自分のことを振り返った。
私も、どんな仕事に対しても「ありがとうございます」と感謝してから
向き合わないといけないなぁと

きちんとした生活も、感性を潤すためのインプットも、感謝の気持ちも、
全部、最近疎かになってきていたように思う。

早く一番キライな「だらしない」人間から脱出しよう

全部ここに繋がっていたんだ

2009-10-06 17:08:58 | 想い
こんなふうに静かに雨の降る日には、
なぜかいつもボブ・ディランを聴きたくなる。

ブルースではなく。

家作りが本格的に始まり、毎日プランとにらめっこ。
ネットであれこれ検索してばかり。

小さいけれど、愛情のもてる家・・・
それを必死に考えている。

もうすぐ子供の頃から夢見ていた「我が家」が出来上がるんだなぁと思うと、
いつも目の奥が熱くなる。
この家は、ちゃんと「おかえり」と言ってくれるだろうか・・・

生まれ育ったこの町で暮らし続けることも、
居心地の良い仕事部屋も、
こじんまりとした庭も、
ほしかったものはすべて手に入った。

どこかで「ごめんなさい」と頭下げながらも、譲れない自分がいて。

でも、もう感謝して受け入れることにした。

時々、数年前のどうしようもない自分に、声をかけてやりたくなる。
たくさんの辛いことも、全部ここに繋がってるんだよ、と。

想像もしなかった幸せがふいに訪れ、
もう幸せであり続けることを怖いとは思わなくなった。

すべては「中間」であり、
幸せな人生も、不幸な人生もないことを、今は知っている。
あるのは「幸福な思考」と「不幸な思考」だけだってこと。

そして、この町で好きな人と穏やかに生きていくことを望んでいる。

随分、私は変わったようだ。

この3日間に考えたこと、いろいろ

2009-10-01 13:52:33 | 想い
雨が降った翌日の、爽やかに晴れた朝が好きだ
山や田んぼの緑がいつもより鮮やかに見える。
世界が輝きをもって迫ってくる。

人生もそんなものかもしれないな、なんて思う。

毎日晴れだと幸せだけど、たまに雨が降って、光を乞う。
そして、再び太陽の光を浴びたとき、世界はこんなにも美しかったのかと知る。
平凡な1日に、喜びがあふれる。

幸せって、そんなものかもしれないな

・・・・・・・・・・・

この3日間、いろんなことに追われていたけれど、
今日は自分のペースで仕事ができる日。

あっためていた堀先生の新事業がいよいよスタートするようで、
サイトやらパンフやら……、構成からテキストまで全て考えなければならない。
今日・明日でだいたい構成だけでもまとめて、来週にはデザイナーと打合せだ。

たぶん、成功するだろうと思う。
火曜日にシステム開発を見せてもらって3時間ほど打合せしたけど、
システム自体はとても良い。
営業も今のプランでいけるだろう。
あとは、デザイン性の問題だなぁ……

私も最近、自分で1つ事業をやろうかと考えていることがある。
一攫千金は無理だけど、月に10時間くらいの働きで固定収入が10万円くらいになる。(時給1万円だな
基本、一人でやるけど、対応できない時のことを考えて、
もう一人サポート要員となるパートナーは必要かも。
その候補人もだいたい目処はつけている。

こんな明日をも知れぬ世の中だし、安定している収入源を一つもちたいのだ。
そしたら、嫌な仕事は断って、好きな仕事だけをできる。
↑こういう考え方がヤクザなんだけど、
振り返ってみれば、真面目にヤクザな人生を歩んできたものだ。
「好きなことしかしたくない」というワガママを通しきってきた。
甘い、甘いといわれながらも、
信念をもって真面目にやっていれば、意外に通る世の中だった。
要は、この「信念」ってやつが大事なのかもしれない。

「満員電車に乗るような生活はしたくない!」
「毎日同じ場所で働きたくない!」
「平日に休みたい!」
「文章を書きたい!」

そこから始まったこのフリーライター生活。
こんなどうしようもない「信念」も、もち続けていれば力になるもんだと、
最近になって改めて思う。

しかし、こんな歳だし、そろそろ身の振り方を考えなくては
家も買うしね……
きちんと安定した収入を得なければ。

不思議なもので、一人で生きていた時より、結婚してからのほうがその気持ちが強くなった。
一人だったら、
「最悪、ライターとして通用しなくなったら、実家に戻って、パートにでも出れば生活はできる」
と思えるんだけど、結婚したからにはそうはいかない。

夫は夫の人生がある。
私の人生を背負わせるようなことは絶対にしたくない。
彼がもし、会社を辞めて自分の書きたいものを書くと言い出したら、
私は「了解!生活のことは気にしないで!」と言ってあげられるくらいでありたいのだ。
逆もまた然り。
私が1円にもならないものをまた書き始めたら、彼は同じことを言ってくれるだろう。
そういう意味で、同等の関係でありたいのだ。
相方が夢を実現しようとした時に、どちらかがおんぶして相手の翼を折ってしまうような、そんな関係ではありたくない。

家の購入が決まったとき、夫は、
「あー、これで俺の翼はもがれた……」と言っていたけど

まぁ、とりあえず、最低限の収入だけは確保できるような自分であり続けたい。
ライターとしての自分というのは、残念ながらてっぺんが見えた気がする。
果てしなく成長するような自分ではない。
もう今が頂上かもしれない。
だったら、続けながらも、現実的な収入源を確保していかなければ。

・・・・・・・・・・・・

この間の晩ごはん



家にあった材料で作ってるのでたいしたものはないが、おいしそう


↑堀先生にいただいたシマアジ
旨かった~


↑久々に、炊きこみごはんでした。
きのこと鶏肉の炊き込みごはん。

・・・・・・・・・・・

火曜日、梅田阪急の11階美術画廊コーナーにて、
熊野九郎右ヱ門氏の展示会があり、最終日にギリギリで飛び込んだ。
3周まわって見たけど、いつまで見ていても飽きなかった。

びりけんに行ったことのある人ならご存知、あそこにある土もののぐい呑みを焼いている作家さんです。

飾り片口の大皿があって、それが欲しくてたまらなかったけど、さすがに買えない
ぐい呑みもいっぱいあって、1つ2つ、これでお酒を飲んでみたいというのに出会えた。

阪急の展示だから高くなっているということもあるけど、
欲しいものは7万~15万くらい。
抹茶茶碗はだいたい50万円くらいだった。

でも、人が焼いて造ったとは思えないような色のお茶碗があって、
見ているだけで感動した。
天然のエメラルドみたい。
本当に素晴らしかった。

かなり大き目の俎板皿があって、それがまたすごい迫力!
自分が料理人だったら、ここにどんな料理を盛ろうかと考えるだけで胸の奥が熱くなるのがわかった。

ご本人がいらしてたので、少しだけお話した。
風貌や作品とは反対に、静かに穏やかに話をされる方だった。
油絵もあったんだけど、それがまた大胆で熱くて。
こんな優しい方なのに、こんな熱いものを秘めているのかと思った。
最後は丁寧にお辞儀をして、出口まで送ってくださった。

この間、塾がなかったらびりけんで熊野さんを囲む会に誘われていたのになぁ。
本当に残念だった……

でも、作品は見ることができてよかった。
私もいつか1つ、熊野さんのぐい呑みを手に入れよう

芸術でも音楽でも文章でも、人を動かすのはテクニックじゃないな、と思う。
テクニックがあるのは当たり前のことで、
人を動かすものは、「Something」=「何か」だ。
文章でも、テクニックで書こうとして、技術にこだわっている限り、人の心なんて動かせないと思う。

岡本太郎も言っていた。
「何を描くか、じゃない。
 何を伝えたいか、なんだ」と。

久しぶりに、熱く心を動かされた日だった。

野心はどこへ

2009-09-10 03:07:57 | 想い
今日は塾が終わって11時に帰り、お風呂に入って、明日のお弁当の用意をし、
その後、今まで(3時!)原稿を書いていた。

明日も2件取材、明後日も2件取材。
明日の朝、取材に行く前に片付けなければならない原稿も1本ある。

忙しくて大変そう?
いやいや、忙しい日々大歓迎!
ヒマよりどれだけいいかしれない。

基本的に、仕事をしている時が一番幸せだしなぁ。

今日は、エズラを呑みながら書いている。
安いのに旨い酒っていい。

自分の人生において一番大切なものって、何なんだろう、と
今日はある人のブログを見て考えた。
自分は間違いなく、「それ」を一番にできているだろうか、と。

その他の重要でないことに時間と労力を割いているうちに、
本当に重要なものを失ってしまうのではないかと。

昔は、ふわりふわりと気持ちよく生きるよりも、
真っ逆さまに落ちてもいいから、高く飛びたいと思っていた。
そういうギャンブル的な生き方が理想だった。
“野心”があった。

今では、「久しぶりに“野心”って言葉を書いたなぁ」と思うくらい、
野心なんてなくしてしまっている。

本当にそういう人間になってしまったのか、
それともそういう自分を見ないようにしているのか、
それすらわからない。

というか、もっと根本的な問題。
私にとって一番重要なものって何だ?

そんなことを考えてしまう、仕事しすぎの酔っ払いの夜。

エレファント・カシマシ「花男」
これを聴いていた頃の気持ちに戻る夜。



この頃の宮本浩次って、酔っ払いみたいで好きやった。

自分を不幸にする習慣からの脱出

2009-08-31 14:00:41 | 想い
最近、精神的にちょっとヤバイなーということがあって。
そういうときって、自分で気持ちを切り替えようとか忘れようとか、
いくらやってもダメ。
むしろ、悪化の一途を辿る。

きっかけはたいしたことではなかったのだが、
地雷を踏んだことで、いろんなものが芋づる式に出てきて、
今では全く関係のないことにまで憂鬱な気持ちが膨らんでいた。

せっかくいい仕事の話がきたのに、嫌な夢とか見るし……。

で、

私はこういうときは、いろいろと精神面を改善する本を読んだりするわけだ。

最近読んでいたのは、「自分を不幸にしない13の習慣」という本。
まさに……!ってタイトル(笑)
ちょっと電車の中で読んでいたら、恥ずかしい。

でも、世の中にはこういう本に頼らずに、
自分を不幸にしないで生きていける人もたくさんいるのだから、
それが不思議。

そういう人を見ていると、別に、お金持ちだとか美人だとか、
いい暮らしをしているとか、何かに恵まれているとか、
そういうこととは関係なく、共通点がある。

それは、「他人と自分を比較しない」ということ。

だから、自己否定や自己嫌悪もあまりないし、
人のことを素直に認める力があって、
嫉妬ややっかみの気持ちなんて無縁。

私はそういう人を見ると、
すぐに「わー、いいなぁ。素敵だなぁ。それに比べて私は……」
と自分の悪いところを取り出して吟味して自己嫌悪に陥ってしまう。
誰も何も言っていないのに

まさに、自分で自分を不幸にするという「習慣」が根付いているのだ。

どうすればいいのか?
この本を読んでいたら、書いてあった。

「自分を許すこと」
「忘れること」
「他人と自分を比べないこと」

やっぱり!って感じだ。
答えは、自分でもわかっているようなことばかり。
結局、こういうことを実行できるかどうかにかかっているのだと思う。
何冊本を読んだって同じことだ。

そう思って何か悶々とした気持ちでいた。

そうしたら、この間、もんちゃんとスカイプチャットしていたときに、
とてもいい言葉をもらった。

不思議なもので、著名な人が書いた本よりも、
親友の言葉のほうが、自分の中に「落ちる」。

ストンと、落ちた。

ドラマーのもんちゃんだからこそ言える言葉で、

自分の中にある透明なもの……ビートやタイム感、
それをしっかりもっていないと、他の人の音に惑わされる……

そんな話。

自分の中にしっかりしたビートをもっていれば、
他人が中にもっているものも感じやすくなるし、
他人の音に惑わされない……

そんな話。

頭でわかっていたことが、こういう言葉によって、
「あー、そういうことね」と実感を伴って理解できることがある。
自分の中に落ちる。

人と比べるより、まずは自分の中のビートをしっかりもつこと。

そんなことを考えている、今日この頃。

自己否定との闘い~第2章の幕開け

2009-08-21 10:53:22 | 想い
昨日や今日みたいに風のある日は、昼間家にいても涼しくていい。

いろいろと、しみじみする。

水曜日の夕方、整体院の先生のところへチラシの相談を受けに行ってきた。
新しくチラシを作りたいということで話を聞き、その他、仕事の打合せをした。

この先生は、ご自分のことを「療術家」という言い方をする。
確かにそれがぴったりだと思う。
身体的にはもちろんのこと、精神(心)との両面からアプローチして人を治す。

昨年夏、日常生活も困難になるほどの腰痛も、3回治療を受けただけで完治した。
それ以来、ますます信頼が高まっているのだが、
仕事の打ち合わせから脱線すると、決まって私のカウンセリングのようなものが始まる。

いつも言われるのが、「頭使いすぎ」。

書く仕事だから仕方がないかもしれないけれど、頭を使いすぎている、と言われる。
一般人でもずっと脳は動き続けているのに、あなたは頭の回転が速いうえに、ずっといろんなことを考え続けているから、脳のエネルギー消費が激しいんだと言われる。

異常に糖分を欲しがるのも、それが理由かもしれない……など。
チョコレートがないと、長時間集中力もたないもんな、私。

「ものすごく人に気を遣うでしょ。でも、それを人に気づかれないタイプでしょ」
とも言われた。
それは感じる。
たぶん、空回りしているか、気づかれないようにしているか、どっちかだ。

中学3年のとき、英語の時間がとても嫌だった。
一人ひとりに名指しで当てればいいのに、その女の先生は手を挙げさせる。
誰も挙げないから授業が進まない。
困るといつもチラッと私を見る。
仕方なく手を挙げて答える。

そういうのが続くと、周りもだんだんコイツに任せとけばいい、というムードになってくる。
小学校低学年の頃、問題がわかっていても、手を挙げるのが恥ずかしくて、一度も発言できなかったような私。
ガキ大将の男の子が怖くて、毎日1回は学校で泣いていた。
たぶん、本来の自分って、そういう引っ込み思案なところがあるのだ。

でも、周りの期待に応えなければと思い、無理をする。
無理をしていると、だんだん「そういう性格なんだ」と周りは決めつけはじめ、
それを感じるとまた「そういう性格」にならなければと頑張る。
頑張らなければ、自分の存在が消えてしまう。

だから、本来の自分以上のことを、どれだけ気力を振り絞ってやっているか、
ということは、誰も気づかない。
「そういう人なんだ」と思われているだけ。

でも、一時期、苦しかった時期もあったけれど、
歳をとってからは少しずつ「そういう性格」が板についてきた、というか、
自分でも時々、「もともとこういう性格だったかな」と思うこともある。
もう、本来の自分なんてわからなくなっている。

自然に、習慣的に、行動や発言が出る。

だけど、自分の一つ一つの行動や発言を、いつまでも振り返る。
ちゃんとできていただろうか……
誰も傷つけていないだろうか……
私は人として間違っていないだろうか……

そんなことを悶々と常に考えているので、頭も心も動きっぱなしだ。
そりゃ、代謝もよくなる。
エネルギー消費も激しいわな

先生に言われた。
「基本的に自虐的でしょう。全部、自己否定から入るでしょう?」と。

それはもう!その通りというか、なんというか。
この世に生まれてきたこと自体を「本当によかったのか?」と
7歳から自問自答してきたくらいだから、自己否定歴は長い。

先生の理論をまとめた本を去年から作成していたのだけど、
それが、校正の段階で全く進まなくなってしまった。
連絡が途絶えたとき、私がまず思ったのはこうだった。

「私の書いたものを気に入ってないんじゃないだろうか?」

先生はそれをわかって、先にお金を振り込んでくれた。
「自己否定せずに、尋ねたらいいのに。
逆に素晴らしい出来だから、これをどう売ろうかと迷って時間がかかってるんですよ」
と言われた。

あなたはライターとして力をもっているのに、どうして自己否定するの?

そう言われて、いろいろと気づいたことがあった。
それをここにまとめると、あと2時間かかるので書かないけど。

ここまで書いたことも、本当は書いていいのかわからなかったけど。
でも、少し自分の心を整理しておきたかった。忘れないように……。

自分を見つめ直すという作業を、この5年ほどひたすらやっている。
第一段階は自分の中でクリアできていて、少し成長した。
固かった殻は破れたのだ。

だけど、最近、殻はまだあったことに気づいている。
1枚だけではなかったのだ。

先生の話を聞いていたら、久しぶりに自分の中に存在する「殻」というか、
「壁」というか、そういうものを見てしまい、落ち込んでいる。
落ち込んでいる、というか、落ち着かない。
この壁をはっきり意識してしまうと、とてもやっかいなのだ。

次回までの宿題。
自己否定しないための、自分への問いかけ。
私にはまだそれがわからない。

もっと話をしたかったが、次に待っている患者さんがいて、
それを待たせていると思うと、せっかくいい話を聞いていても頭に入らない。
もう「人を待たせている」と思うことに気が入ってしまうのだ。

そんなこんなで、すごく中途半端なドキドキ感を抱えたままで院を出た。
びりけんに寄って、マスターと話をして楽になりたかったけど、節約中でお金がない。

阪急の地下で日本酒をがんがん試飲して、
梅田のビールスタンドでおっちゃんに紛れてビールを立ち飲みして、
阪神の地下で「獺祭(だっさい)」=日本酒を買って帰った。
酒でも飲まないと落ち着かなかったのだ。

帰って、酒を買ってきて飲んでるから、夫が「どうしたの?」と心配してきたけど、「なんでもない」と答える。
いつもそうなんだけど、これだけ書けるのにうまく言葉にならない。
夫は私の心の状態を、このブログで知ることも多い。
1日経って、やっと気持ちが整理できて、吐き出せるようになった。

終わったと思っていた自己否定との闘いは、まだ続いていたようだ。
というか、第2章の幕開けか……

根本的に何かが変わらなければ、私はずっとこのままなんだろう。
ごまかし、ごまかし、幸せな顔して生きていても、
やっぱりその影はどこまでもついてくる。振り払えない。

答えが欲しくてまた考える。
脳は休まる暇がない。