iPodでエクササイズ

iPodで、退屈なマシントレーニングを楽しいものに変えましょう!






(地震当時の惣五郎自身の周辺の様子や、その後のことなどが記録されています)

一  五日地震之時分、往来いたし、歩行居候者共は、一向歩行相成らず、目舞致す様にて足たたず。

一  私(川入村名主秋岡惣五郎)宅に居申者も残らず逃出候へども、婦人子供に、立ちながら居る事ならず、皆かがみ申候

一  大地震後、十一月二十五日、朝より八つころ迄、大成音、地江響き、十数度鳴渡り、其音、此辺計にこれ無し、追々ききあわせ候に、上下は及レ及レ申(不レ及レ申?)、松山奥辺迄も同様響候趣、其時分、いか様の変事これ有り哉と、惣方心配、跡に而承り候へば、海の鳴りたる由、尤所々津波これ有る沙汰、此津波にて大阪、伊勢、其外海岸は大損之由 児嶋郡にて朔日志ほより壱丈五六尺(およそ4.5m)高く来ると後日に承り候

一  五日大地震の節、当所(川入)より未申(南西)に当り、日吉、八王寺辺に大に声立、何事と思ふ内にゆり出し申候、其節諸方之声、甚恐ろしき声に候、則其時より夜通し、六日昼、同夜七つころ迄も、宮寺山伏祈祷、村々少しの間も止時なし、昼夜太鼓、ほら、不相止、いづれも生たる心地はなしと言

一  地震もゆりく(揺り来?)時分には大き成音のする物也


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大地震の後も、余震による津波がやってきていたのですね。
地震の直前には、南西の方角から恐ろしい「声」(地鳴り?)が聞こえたようです。
地震直後、神社仏閣では夜通し祈祷が行われたのでしょうか。


さらに、惣五郎は上方や東海道などの様子を記した書付も、写しています。

つづく

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(川入村の東方、岡山方面の村々の様子)

一  定杭大痛、潰家十三四軒、半潰多く、無事成家はなし、撫川庭瀬之内にても七八軒潰、撫川大橋、柱ゆり込橋落る。目もあてられぬ事に候

一  びくに橋、三四軒潰、地面ひくく成田地もこれ有り、又青土吹出候家もこれ有り

一  一ノ宮も大痛に候へども、撫川程にはこれ無し

一  浜村之内、中樋の東、田の中に青土吹出し居候に付、見物に参候所、所々に穴明き吹出候と見、吹出す時分はおよそ弐三尺(60-90cm)も吹上げ由候、其穴へ三間(5.4m)くらいの棒は少しも障りなしに、這入申候

一  岡山にても弐軒三軒ヅゝ所々に潰家これ有り

一  御野郡大痛之由、上道新田は別而大痛、家たおれ、又ずり込、数多き由

一  山寄村々は痛無レ数、子位庄、浅原、西坂、生坂辺<地図>は家壁等に痛なし

一  びくに橋は大痛に候へども、弐丁か三丁行、野殿村は痛数無し、往来より北手、山へ付候家は痛なし、往来より南手に有レ之家は壁損じ居申候

一  庭瀬、撫川、定杭は格別大痛に候へども、花尻にては一向損じこれ無し


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以上が惣五郎が見て歩き、書き留めた近隣の村々の様子です。 
「液状化で青土が噴出した跡の穴の中に長さ5m以上の棒がスッと入った」など、生々しいですね。

長時間にわたる大きな揺れにもかかわらず、山寄りの固い地盤に立つ家は損傷がほとんど無かったと記録されています。

しかし
裏を返せば、埋め立て地は液状化が激しく被害も大きいということです。
岡山の主たる市街地のある岡山平野は、ほとんどが埋め立て地なんだけど……
(ブログトップの、鬼ノ城から撮影したパノラマ写真に写っている平地のほとんどが、干拓によるものです)

安政地震後も干拓は積極的に行われ、埋め立て地はさらに広がっています。
(都道府県の中で最もゼロメートル地帯が広いのは、岡山県だそうです)


惣五郎はこのあと、地震当時の身の周りの様子や、その後見聞したことを書き留めています。

つづく

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五日大地震之節、近辺痛ミ

(当時、筆者「秋岡惣五郎」は川入村…倉敷チボリ公園の北西一帯…<地図>の名主でした)


一  川入にては、或は本家長屋一棟同様に付居申分、震候時分はおよそ壱尺五寸ヅゝ明き、是に而考候へば、瓦葺にて上み重き家は、壱尺五寸弐尺もかたむき候哉に被レ存(思われ)候、家々壁割れ、間には落候もこれ有り、ひさし等も痛み、落候もあり、

(壱尺は約30cm、一寸は3cm 壱間は182cm)

 大内村にては、東之方、北より南へ通し大痛、家々ひさし落、家ねじれ、地割れ、五寸位口を明け、青きどろを吹出し候家もこれ有り、又田地弐三尺もおし出し、すぐき畑大にゆがみ候も有、又壱間方、地面ずり込、其土いづれに行哉相知り申さず候、不思議千万、

又、下辺四十瀬新田之辺に而は、家も大痛、間には四五寸より壱尺位も地中にずり込候もこれ有り

一  水江村に、くりわた商ひ仕、舟積み場所、川原へ出し、俵数積かさね置候処、地震にてくずれ候節、砂場大に割れ、其割目へ壱俵転び込、其上へ砂かかり候故、其場居合候者、綿主へ知参候処、急ぎ参見候へども、壱俵紛失、いかがと疑念いたし候所、其所に高瀬舟居合、申には、相違もなく其割れ目へこけ込これ有り、掘て見よと申に付、砂にうもり居申候けしからぬ事に候

一  中嶋新田にては、ひさしなど落、急ぎ外へ出候へども、地面割、甚危くに付、歩行板、又ははしごなどに乗居候由、もっとも立ちながらは居られずと申位




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う~~ん、地割れに俵が転がり込んだとは……
高瀬舟が居合わせ様子をつぶさに見ていて「間違いなくその割れ目に転がり込んでいるから、掘ってみなさい」と言わなければ、「俵がひとつ足りない」と一悶着起きたかもしれません。




近所一帯を見て回った惣五郎は、岡山方面にも足を伸ばします。

つづく

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甲寅大地震  嘉永7年甲寅(2514)   ……西暦1854年
十一月 地方希有の大地震あり。

 嘉永七寅十一月四日朝五つ過ころ大地震、五日晩七つ半ころ、格別ニ大地震、其節痛(破損)所により大造に候、

同月夕五ツ時、又大地震、其間々に小き分は数知れず、五日七つ半大地震より翌六日晩迄には、およそ三十五六度、間には小き分共には五六十度これ有るなど申候、

六日七日同様、尤、追々小くは成申候、

平場之村々は三四夕ヅゝは、外庭に小屋掛、昼夜居住、間には十四五日も外居住に仕候者もこれ有り、

後には昼夜に五度七度、十一月末より十二月に成候而は、二日に壱度、又三日に壱度、又一日に弐三度もこれ有る時も有、
既に二三十日壱度、卯正月朔月に壱度、五日に昼夜三度、十二日之夜大き成分壱度、小き分二度、十八日に夜大小弐つと申位に御座候、

何分にも長き地震、前代未聞に御座候





次回は、惣五郎が主に川入村近辺を見て回り、その様子を記録した
「五日大地震之節、近辺痛ミ」です。


つづく

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古い言葉づかいでも、地震の概要が分かるかな~~と思います。

原文は一つづりの文でしたが、読みづらいので数行に分割しました。
また、漢数字とカタカナが紛らわしいので、カタカナをひらかなに直しています。
また、返り点のあるものは読み直してみました。(これがチョット心配)

ともかく「古語辞典」片手にチャレンジです
間違いなどがございましたら、御指導ください。


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岡山県備前県民局の冊子には、「秋岡家文書 先考遺筆」がダイジェスト版で掲載されています。
その内容をここでご紹介するつもりでした。

ところが図書館で冊子の参考文献にあたったところ、「倉敷市史 第九巻」に「秋岡家文書:先考遺筆」のオリジナルが記載されている一節を見つけました。

目を通すと、ダイジェスト版にはない緊迫感が伝わってきます。
そこで急遽予定を変更して、オリジナルの全文を少しずつ紹介することにしました。



しかし、なにぶん敵は古文書。
悲しいことに、kamokamoには古文書を読み解くスキルも、現代文に翻訳するスキルもありません。

せいぜいカタカナをひらかなに直すくらいかなぁ……
えっ、そんな必要は無いですって?? 失礼いたしました


この間、エクササイズやMac君関係の日記はこちらに掲載しますよん。



つづく

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新聞もテレビもなかった150年前の安政大地震と、61年前の昭和南海地震がどうして比較できるのでしょうか?
それは震災の後、当時の名主や大庄屋が自分の村やその周辺を見て回り、被害状況を克明に記録していたものが古文書として残っているからです。 ホー

しかし多くの岡山県民はそのような古文書があること自体知りませんし、図書館の書庫に保管されたこれらの古文書を目にすることも一生無いでしょう。ネットで検索しても、その概要さえ定かではありません。
そこで、手元の冊子から抜粋して、一部をここで紹介することにしました。

手元にある「岡山県南部における南海地震の記録:昭和南海地震・安政南海地震」は当時の古文書や「岡山県三国地図」や新聞報道などを使用して、大変わかりやすく興味深くまとめあげられています。

「岡山県備前県民局」が制作した渾身のこの冊子には、25ページのものと29ページのものの2種類ありますが、蔵書検索の結果、岡山県下の図書館には現在25pのものしか所蔵されていないようです。29pの方が余程面白く価値もあると思うのですが…… 
29pの方も、そのうち収蔵されるのかなぁ?



以下は29ページの冊子を参照したものです。


■【日笠家文書】【矢吹家文書】による安政南海地震の概要

11月4日朝五つ時(1854年12月23日午前8時頃)過ぎにかなり大きな地震があり、同日の夕方にも3度地震があった。
5日の晩七つ時(24日午後4時頃)に大地震が起こり、長い間揺れた。南西の方角からどろどろという大きな音が聞こえて、実に恐ろしく記述出来ないほどの大変な揺れであった。

地震の揺れは長い揺れにつき、3~4丁(330~440m)離れたところへ行って帰るほど長時間揺れた。(1分間に70m歩くとして10分強)

5日夕方の大地震の後、夜五つ時(午後8時頃)頃再び大揺れし、夜通し休み無く揺れが続いた。
6日朝にも一度相当な揺れがあった。
同日から10日頃にかけては、日中に3、4度、夜には3~5度、10日には一日に2、3度14、15日頃には小さい揺れが一昼夜に2、3度くらいとなり、次第に収まった。


■【虫明村記録】による津波の記録

安政元年の大地震の際には、海嘯(津波)があった。
一昼夜に海水の進退は2、30回におよび、満潮時には一時平水よりおよそ7尺(約210cm)も高くなり、このために瀬溝海峡(長島と本土の間)はおよそ3尺余(約90cm)の土砂で塞がれ、扇浜(虫明地区)は泥土2尺(約60cm)で埋まってしまった。それまでは300石摘の船舶が停泊していたが、いまは漁船が入るのみ。





つづく

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先日、南海地震関係の大変興味深い資料を見せてもらいました。

その中からいくつか抜粋して、昭和南海地震(以下昭和)と安政南海地震(以下安政)の両地震を比較してみました。


【起こった日 震源 マグニチュード】
昭和 1946年12月21日午前4時19分 震源:和歌山沖 M8.0
安政 1854年12月24日午後4時頃  震源:土佐沖  M8.4
(安政地震のエネルギーは昭和の4倍)


【同時発生した東海・東南海地震】
昭和 2年前に「昭和東南海地震」 震源:三重県志摩半島沖 M7.9
安政 32時間前に「安政東海・東南海地震」震源:遠州灘 M8.4

過去の南海地震のパターンを見比べると、多くの場合まず東海・東南海が発生し、それから数時間(この場合はほぼ同時と考えられている)もしくは1~3年後に、南海地震が起こるようですね


【岡山の震度】
昭和 震度4~6 湯原:軽震 西大寺:烈震
安政 震度4~6 被害甚大。しかし山辺の浅原、西坂、生坂では被害家屋はほとんどなし
震度の違いは、地盤の固さによるものだとはっきり分かるわね


【揺れた時間】
昭和 湯原1分 岡山5分 矢掛・福渡10分 
安政 美作で10分以上(美作の矢吹文書による)
1分でもゾッとするのに、10分以上って……想像も出来ないわ
 
【津波】
昭和南海地震 岡山県1.0m以下 高知県・徳島県では5~6m
安政南海地震 岡山県は虫明2.1m児島で5~6m 高知県11m 徳島県9m 大阪湾2.5m
       長時間にわたり何度も襲来。
う~~ん、安政では岡山にも高い津波が押し寄せたのか。


【液状化と地盤沈下】
昭和 広範囲に液状化 江戸時代以降の新しい干拓地が30~60cm沈下
安政 昭和より広範囲に液状化。泥水が吹き上げ地面低くなり、家が地面に潜り込み田畑が歪んだという記録多数

液状化が起こった地区では家屋への被害も著しく、南海地震では建築物倒壊の主な原因は液状化みたいです。
現在、市街地のほとんどが埋め立て地なのに


つづく

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朝ドラの「どんどはれ」でときどき登場する遠野。

遠野って、なんだか現実離れしているようで魅惑的だわね
と思いながら、家の本棚にあった「柳田国男:遠野物語」を読んでみました。


「花巻より十余里の路上には町場三箇所あり。その他はただ青き山と原野なり」

簡素で美しい描写に、なにやら桃源郷のような幻想を抱いてしまいますが……



昔々いえいえ、ほんのひと昔前まで、人の手の届かない山や原野は魔物や神の領域でした。
それらを人々がどれほど畏怖しながら生活していたか、一群の物語から垣間見えてきます。

「遠野よりさらに物深きところには、また無数の山神山人の伝説あるべし。
願わくはこれを語りて 平地人を 戦 慄 せ し め よ」


序文のこの一節のとおり、物語には天狗や河童・狐や山姥など、魑魅魍魎との死闘が描かれており、なかなかハードボイルド・タッチの物語です。

「和解」のような曖昧さはありません。
「ヤらなければヤられる」緊迫したバトルです。
これは……(本当は怖い)グリム童話といい勝負かも。



女の子をさらったり村人を惨殺したりと、とんでもない狼藉者の天狗は、その特徴が「背が高く、顔が赤く、目の色が違う」「よく抱き合っている」
………って、あんたそりゃ思いっきり西洋人じゃないの。

天狗の伝説は「それほど昔の話ではない」ってことだけど、19世紀頃には多数のアメリカの捕鯨船がマッコウクジラを追って日本近海までやってきていたらしいから、難破したアメリカ人が三陸沿岸の山の中でこっそり生活していても不思議ではないわね。

そういえば、吉備の「鬼ノ城」を造った温羅(ウラ)も「背が高く、髪が赤く、目が爛々と虎狼のごとく……」と西洋人っぽかったっけ。
遠野では西洋人の天狗は忌み嫌われていたようだけれど、吉備の温羅は神官の娘を奥さんにもらって地元の人々と仲良くやってたみたい。 吉備が大和に征服されたとき、残念ながら「鬼」として処刑されちゃったけどね。





ところで

柳田国男によると「どんどはれ」は、物語の最後に「コレデドンドハレ」とつけて
「めでたしめでたし」という意味になるそうです。

その使用例として挙げられているのが、山姥の物語。
女の子が山姥にさらわれ、あわや食べられかけるのですが、首尾よく潜んで逃げて、最後は逆に山姥を殺しましたとさ、「めでたしめでたし」という物語です。この「めでたしめでたし」の代わりに「コレデドンドハレ」が使われているわけです。

この場合なにが「めでたい」んだか、kamokamoにはサッパリ分からないけど。
「コレデドンドハレ」は、危ういところを助かって「よかったよかった」という意味の他にも、復讐を遂げて「溜飲を下げる」などという意味もあるのかしら? う~~ん

山姥や河童などの物語には、姥捨て子捨てなど、当時の悲しい現実が底流にあるようにみえるけれど、この点もグリム童話と同じだわ。
「コレデドンドハレ」には、なにかもっと複雑な感情が込められているようにも感じられるわね。




そうそうもうひとつ、吉備に伝わる物語では、狐は「お手伝いする健気な狐」だったり「すっかり騙されちゃったよ、マイッタマイッタ」って感じの憎めない「困った奴」だけど、遠野物語では亡者をかたる悪質な動物で、斧で叩き切っても祟りは……

いかんいかん、物語に感化されてだんだん過激になってきてしまった。
これ以上書くと、青少年ナントカ条例違反で告発されそうだから、やめておこうっと




それにしても

kamokamoなど、寂しい山道などで出会って一番怖いのは
悪霊でも山神でも熊でも狐でもなく



人間なんだけど……

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崩していた体調も元に戻りつつあり、ようやく北海道旅行の土産の整理など、後始末を始めたkamokamoです。

様々な資料や部品と一緒に、カメラバッグのポケットから「大神神社」の「交通安全御守」が出てきました。
先日、大和の三輪山を訪ねた時に求めたお守りです。

そういえば、この旅行に出る前に、何気なくバッグのポケットに入れたんだったわ。
すっかり忘れていた。

まるで誘い込まれたかのように次々と降りかかった災難からkamokamoを守ってくれたのは、
きっと、このお守りだったに違いない。


う~~ん、さすが、その名轟く霊験あらたかな神社。
またいつか、お礼参りに出かけなければならないわ。


神社のご神体は「鏡」が多いけれど、古代の人々はご神体の鏡を通して神を感じる他、邪悪なものを退散させる願いを鏡に込めたかもしれない。 そういえば吉備路にある道ばたの道祖神も、沖縄の石敢當も、邪気や災いを跳ね返す魔除だったわね。


大神神社の御神体は「三輪山」
柔らかい光に包まれたあの神秘的な山の霊験は、実際、鏡どころではないかも。








ところで……
強力なパワーで跳ね返された邪気は、一体どこへ向かうのだろう?

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知人の招待で、クルーザーで気ままに瀬戸内海の島々を訪れるという貴重な体験をしました。

招待といっても、決して故ダイアナ妃のような優雅なクルーズではありません。
招待されたひとりひとりが乗組員、児島のマリーナで船を海に下ろした後、まず船室やデッキの清掃から始まります。
島の船着き場での接岸離岸ではそれぞれの能力に応じて役割を果たし、最後は再び船を陸にあげて清掃で終わります。


船長は足の悪い70過ぎのおじいちゃんですが、島々の間にある暗礁や航行不能とも思える浅瀬にある「ビンの首」と呼ばれる水路などを知り尽くし、なかなか巧みな舵さばきです。



大小多数の船が行き交う瀬戸内の風景は、古代も変わらないものだったに違いありません。今のようにトラックなどによる陸の輸送が期待出来ない時代ですから、むしろ瀬戸内海航路は唯一の大量物流手段、生命線だったでしょう。
そういえば、天皇の寵愛を一身に受けたことで皇后の嫉妬を買って吉備へ逃げ帰った黒比売(兄媛だったっけ)は、船を使うことを許されず、吉備まで陸路を歩いて大変だったとか……何かの本で読みました。


2階操舵席からの眺めは抜群、舳先で全身に受ける風は爽快です。

いくつかの島を訪れた後、最後に与島に向かいました。
与島から出航した観光船「咸臨丸」に航路を譲り、その後追い抜いて与島の船着き場に入りました。

勝海舟に率いられた咸臨丸には、塩飽諸島と呼ばれるこの周辺の島出身の男たちが何十人も水夫として乗り込み、アメリカ初渡航を果たしました。観光船「咸臨丸」はそれにちなんだ名前です。

瀬戸内海は穏やかな表情とは裏腹に浅瀬や海峡も数多くあります。まるで鳴門のような急流に出会うこともあります。
その中でも特に、潮湧くが如く複雑に変化する潮流に囲まれた塩飽本島に本拠地を構え、潮を利用して船を意のままに操った「塩飽水軍」の操船技術は、他の追随を許さなかったのでしょう。

本を読んだだけでは到底分からない、貴重な塩飽体験でした。


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余談ですが

瀬戸大橋で渡れるこの与島には新しい施設、ベゴニアの温室や足湯が造られていました。入場料はチョット高め(1500円)だったけれど、結構楽しめました。

足湯は鉄分を含んだアルカリ泉で、何となく踵がすべすべになりましたよん。

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