【仁徳と3人の女性】
仁徳天皇の皇后になったのは葛城ソツヒコ(襲津彦)の娘の磐之媛(いわのひめ)である。
この大和葛城地方の豪族の娘は「嫉妬深い」ことで有名であった。
仁徳天皇が「吉備海人直の娘クロヒメ」を召し入れようとしたが、クロヒメは「皇后が嫉妬深いのでそれはできません」と断ったそうだ。
また仁徳は、ウジノワキイラツコの妹で矢田(やた=八田)皇女をどうにかして召し入れようとした。そこで皇后の磐之媛が紀伊方面に出かけて「御綱柏」を摘んでいる留守の間に、まんまとよろしき仲になった。
それを知った磐之媛は怒り心頭、せっかく摘んできた御綱柏(みつながしわ)をすべて海に投げ捨て、仁徳天皇の宮殿である難波の「高津宮」を素通りして淀川をさかのぼり、山背の宇治の木津川まで行ってしまった。
仁徳天皇は何とかして皇后に帰ってもらおうと、歌を届けるのだが、皇后は頑として受け入れず、やがて木津川沿いに建てた「筒城(つつき)宮」において逝去する。
その翌年、仁徳は八田皇女を皇后として迎え入れた。
八田皇女はウジノワキイラツコの妹で、この兄弟の父は応神天皇だが、母は和珥氏の祖である武振熊(たけふるくま)の娘で「ミヤヌシヤカヒメ」と言った。ウジノワキイラツコの妹はもう一人いて「女鳥王(めどりのおおきみ)」と言った。
仁徳はその女鳥王(めどりのおおきみ)も召し入れようとしたが、腹違いの隼別(はやぶさわけ)皇子と良い仲になっており、それは叶わなかった。結局、仁徳の思惑を拒否した隼別皇子と女鳥王は、伊勢まで逃れたのちに見つかって誅殺される。
(※残酷な話だが、それだけ当時の女性の巫女的な霊能力は大きく、そのアドヴァイスの下で、男王は主観に左右されない統治を執行したわけである。)
実は八田皇女も女鳥王もウジノワキイラツコの妹であった。つまり三人とも和珥氏の直系であり、仁徳は和珥氏の持つ勢力をわが勢力に加えたかったというのが、八田皇女と女鳥王の二人を召し入れようとした理由だろう。
皇后の磐之媛は葛城ソツヒコの娘であるから、当然、葛城勢力の後ろ盾は得ていた。しかも葛城ソツヒコの父は武内宿祢で、南九州の古日向とは親縁関係にあった。
したがって仁徳は大和にいる限りは安泰であったが、難波の淀川河口に近い微高地に「高津宮」を建てた。すると、淀川流域でも山背(宇治)を本拠地とする和珥氏にしてみれば、淀川河口の難波高津宮を攻略するのは極めて容易であった。
仁徳はまだ即位する前に、同母弟のオオヤマモリと腹違いの弟ウジノワキイラツコとを戦わせてオオヤマモリを滅亡させ、そのあとに3年の確執を経てウジノワキイラツコの自死を誘発している。これでまずは安全を確保した。
ウジノワキイラツコは半島から渡来した王仁博士から漢籍を習っており、優秀な頭脳の持ち主であったようだが、仁徳(オオサザキ)の智謀には及ばなかったのだろう。
応神天皇が九州に張り付いて半島出兵を繰り返していたのと比べれば、何と優雅な立ち位置にあったことだろうか。
葛城氏の後ろ盾の要だった皇后イワノヒメの死は痛手ではあったが、葛城氏側も追及はしなかった。おそらく育った葛城の「高宮」でも、イワノヒメの「嫉妬深さ」には手を焼いていたのかもしれない。
というのは父の葛城ソツヒコ(襲津彦)である。この人は書紀引用の「百済記」によると、神功皇后の時代に半島に派遣された武将だが、新羅の策略で美女をあてがわれ、すっかりその気になってそそのかされ、味方すべき任那を撃ってしまったという失態を演じていた。
こんな好色な父親を目の当たりにして育ったら、大抵の子女は男を信用できず、ために「嫉妬深く」なるに違いない。
イワノヒメが自分の留守のうちに八田皇女を入内させてしまった仁徳を、徹底的に嫌って避けた描写は劇的ですらあるが、最後まで自分の育った葛城の高宮には帰れず、山背の「筒城(つつき)宮」でひっそりと亡くなったのは哀れでもある。
【天下泰平の20年と百舌鳥野陵】
仁徳紀の67年条にはその最後のところに「天下、大いに平かなり。20年余、事無し」とあり、前代の応神王朝が終焉した後の仁徳王朝の「単立」を示唆しているのだが、同じ67年の10月条には「陵地を定め給う」という記事がある。
河内の石津原に陵地を卜して、いよいよ「寿陵」(生前墓)の築造工事に取り掛かろうという日に、次のような珍しいことが起きたのであった。
<この日、鹿ありて、たちまちに野の中より起こりて、走りて役民の中に入りて、倒れ死ぬ。時にそのたちまちに死ぬることを怪しみて、その痍(きず)を探す。即ち百舌鳥、耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉くに、咋(く)い割(さ)き剥(は)げり。故に、その所を号して「百舌鳥耳原」と云うは、それ、この縁なり。>(仁徳紀67年10月条)
この話は石津原が「百舌鳥耳原(もずみみはら)」と呼ばれるようになった由来譚である。百舌鳥耳原にある「百舌鳥古墳群」の中で最大の「大仙陵古墳」が仁徳天皇陵として間違いないと思わせる話でもある。
しかし、鹿の耳の中を百舌鳥が「悉くに咋い割き剥げ」(荒らしまわって食いちぎった)ために、鹿が死んだという事実があり得ないことは明白だろう。鹿の耳は人間のよりは大きいにしても、スズメの2倍ほどもある百舌鳥が耳の中に入り込む余地はない。
私はこの話は次の史実の寓意だろうと考えるのだ。
すなわち、鹿は南九州のことを表し、百舌鳥耳原の「耳原」は「ミミの勢力範囲」であると。
「ミミ」とは南九州投馬国の王の称号であったことは、魏志倭人伝上の倭国内の国々のうち戸数五万戸の大国「投馬(つま)国」の官名が、大官を「ミミ」と言い、副官を「ミミナリ」と言ったということから判明している。もちろん九州倭国内の国々の位置比定からも言えることである。
さてそう考えると、「鹿の耳」とは南九州投馬国そのものを意味していることになり、それが食い荒らされたということは、南九州投馬国の衰退を示唆しているのだ。
南九州のうち特に諸県(もろかた)地域には諸県君がおり、応神王朝の母体というべき勢力であった。したがって半島出兵に際しては兵力の一大供給源地であり、その分、軍事的な消耗が激しかった。
特に高句麗との戦いでは、初めて遭遇する「騎馬戦」には大いに手古摺ったはずである。
得たものは騎馬戦術用の馬具や鎧くらいで、失ったものの方がはるかに多く、南九州投馬国は斜陽にさらされるほかなかった。
そのような時代状況を示唆したのが「鹿の耳が食い破られて鹿が死んだ」という説話なのだと考えるのである。
(※崇神天皇の時代に、この百舌鳥耳原からそう遠くない茅渟(ちぬ)県の陶邑(すえむら)に居た「太田田根子」に大物主神を祭らせたという記事がある(7年2月条)が、太田田根子の母はイクタマヨリヒメといい、陶津耳(スエツミミ)の娘であった。「ミミ」名を持つ豪族がここにいたのである。おそらく出自は南九州投馬国で、土器生産のエキスパートだったのだろう。)
仁徳天皇の皇后になったのは葛城ソツヒコ(襲津彦)の娘の磐之媛(いわのひめ)である。
この大和葛城地方の豪族の娘は「嫉妬深い」ことで有名であった。
仁徳天皇が「吉備海人直の娘クロヒメ」を召し入れようとしたが、クロヒメは「皇后が嫉妬深いのでそれはできません」と断ったそうだ。
また仁徳は、ウジノワキイラツコの妹で矢田(やた=八田)皇女をどうにかして召し入れようとした。そこで皇后の磐之媛が紀伊方面に出かけて「御綱柏」を摘んでいる留守の間に、まんまとよろしき仲になった。
それを知った磐之媛は怒り心頭、せっかく摘んできた御綱柏(みつながしわ)をすべて海に投げ捨て、仁徳天皇の宮殿である難波の「高津宮」を素通りして淀川をさかのぼり、山背の宇治の木津川まで行ってしまった。
仁徳天皇は何とかして皇后に帰ってもらおうと、歌を届けるのだが、皇后は頑として受け入れず、やがて木津川沿いに建てた「筒城(つつき)宮」において逝去する。
その翌年、仁徳は八田皇女を皇后として迎え入れた。
八田皇女はウジノワキイラツコの妹で、この兄弟の父は応神天皇だが、母は和珥氏の祖である武振熊(たけふるくま)の娘で「ミヤヌシヤカヒメ」と言った。ウジノワキイラツコの妹はもう一人いて「女鳥王(めどりのおおきみ)」と言った。
仁徳はその女鳥王(めどりのおおきみ)も召し入れようとしたが、腹違いの隼別(はやぶさわけ)皇子と良い仲になっており、それは叶わなかった。結局、仁徳の思惑を拒否した隼別皇子と女鳥王は、伊勢まで逃れたのちに見つかって誅殺される。
(※残酷な話だが、それだけ当時の女性の巫女的な霊能力は大きく、そのアドヴァイスの下で、男王は主観に左右されない統治を執行したわけである。)
実は八田皇女も女鳥王もウジノワキイラツコの妹であった。つまり三人とも和珥氏の直系であり、仁徳は和珥氏の持つ勢力をわが勢力に加えたかったというのが、八田皇女と女鳥王の二人を召し入れようとした理由だろう。
皇后の磐之媛は葛城ソツヒコの娘であるから、当然、葛城勢力の後ろ盾は得ていた。しかも葛城ソツヒコの父は武内宿祢で、南九州の古日向とは親縁関係にあった。
したがって仁徳は大和にいる限りは安泰であったが、難波の淀川河口に近い微高地に「高津宮」を建てた。すると、淀川流域でも山背(宇治)を本拠地とする和珥氏にしてみれば、淀川河口の難波高津宮を攻略するのは極めて容易であった。
仁徳はまだ即位する前に、同母弟のオオヤマモリと腹違いの弟ウジノワキイラツコとを戦わせてオオヤマモリを滅亡させ、そのあとに3年の確執を経てウジノワキイラツコの自死を誘発している。これでまずは安全を確保した。
ウジノワキイラツコは半島から渡来した王仁博士から漢籍を習っており、優秀な頭脳の持ち主であったようだが、仁徳(オオサザキ)の智謀には及ばなかったのだろう。
応神天皇が九州に張り付いて半島出兵を繰り返していたのと比べれば、何と優雅な立ち位置にあったことだろうか。
葛城氏の後ろ盾の要だった皇后イワノヒメの死は痛手ではあったが、葛城氏側も追及はしなかった。おそらく育った葛城の「高宮」でも、イワノヒメの「嫉妬深さ」には手を焼いていたのかもしれない。
というのは父の葛城ソツヒコ(襲津彦)である。この人は書紀引用の「百済記」によると、神功皇后の時代に半島に派遣された武将だが、新羅の策略で美女をあてがわれ、すっかりその気になってそそのかされ、味方すべき任那を撃ってしまったという失態を演じていた。
こんな好色な父親を目の当たりにして育ったら、大抵の子女は男を信用できず、ために「嫉妬深く」なるに違いない。
イワノヒメが自分の留守のうちに八田皇女を入内させてしまった仁徳を、徹底的に嫌って避けた描写は劇的ですらあるが、最後まで自分の育った葛城の高宮には帰れず、山背の「筒城(つつき)宮」でひっそりと亡くなったのは哀れでもある。
【天下泰平の20年と百舌鳥野陵】
仁徳紀の67年条にはその最後のところに「天下、大いに平かなり。20年余、事無し」とあり、前代の応神王朝が終焉した後の仁徳王朝の「単立」を示唆しているのだが、同じ67年の10月条には「陵地を定め給う」という記事がある。
河内の石津原に陵地を卜して、いよいよ「寿陵」(生前墓)の築造工事に取り掛かろうという日に、次のような珍しいことが起きたのであった。
<この日、鹿ありて、たちまちに野の中より起こりて、走りて役民の中に入りて、倒れ死ぬ。時にそのたちまちに死ぬることを怪しみて、その痍(きず)を探す。即ち百舌鳥、耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉くに、咋(く)い割(さ)き剥(は)げり。故に、その所を号して「百舌鳥耳原」と云うは、それ、この縁なり。>(仁徳紀67年10月条)
この話は石津原が「百舌鳥耳原(もずみみはら)」と呼ばれるようになった由来譚である。百舌鳥耳原にある「百舌鳥古墳群」の中で最大の「大仙陵古墳」が仁徳天皇陵として間違いないと思わせる話でもある。
しかし、鹿の耳の中を百舌鳥が「悉くに咋い割き剥げ」(荒らしまわって食いちぎった)ために、鹿が死んだという事実があり得ないことは明白だろう。鹿の耳は人間のよりは大きいにしても、スズメの2倍ほどもある百舌鳥が耳の中に入り込む余地はない。
私はこの話は次の史実の寓意だろうと考えるのだ。
すなわち、鹿は南九州のことを表し、百舌鳥耳原の「耳原」は「ミミの勢力範囲」であると。
「ミミ」とは南九州投馬国の王の称号であったことは、魏志倭人伝上の倭国内の国々のうち戸数五万戸の大国「投馬(つま)国」の官名が、大官を「ミミ」と言い、副官を「ミミナリ」と言ったということから判明している。もちろん九州倭国内の国々の位置比定からも言えることである。
さてそう考えると、「鹿の耳」とは南九州投馬国そのものを意味していることになり、それが食い荒らされたということは、南九州投馬国の衰退を示唆しているのだ。
南九州のうち特に諸県(もろかた)地域には諸県君がおり、応神王朝の母体というべき勢力であった。したがって半島出兵に際しては兵力の一大供給源地であり、その分、軍事的な消耗が激しかった。
特に高句麗との戦いでは、初めて遭遇する「騎馬戦」には大いに手古摺ったはずである。
得たものは騎馬戦術用の馬具や鎧くらいで、失ったものの方がはるかに多く、南九州投馬国は斜陽にさらされるほかなかった。
そのような時代状況を示唆したのが「鹿の耳が食い破られて鹿が死んだ」という説話なのだと考えるのである。
(※崇神天皇の時代に、この百舌鳥耳原からそう遠くない茅渟(ちぬ)県の陶邑(すえむら)に居た「太田田根子」に大物主神を祭らせたという記事がある(7年2月条)が、太田田根子の母はイクタマヨリヒメといい、陶津耳(スエツミミ)の娘であった。「ミミ」名を持つ豪族がここにいたのである。おそらく出自は南九州投馬国で、土器生産のエキスパートだったのだろう。)