昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

とっちゃんの宵山 ②

2016年07月18日 | 日記

「なんや、とっちゃん!大きな声はあかん言うてるやろ、いつも。もう~!」

小太りのおっちゃんが奥から出てきた。歩くと汗ばむほどの陽気とはいえ、クレープのシャツにステテコは早過ぎる。おまけに、上から二つボタンの外れた胸元からは貧相な胸毛が覗いている。僕は一瞬、目を背けた。

とっちゃんから僕へと向けられたおっちゃんの大きな目は、一瞬ギラリとした後、すぐ柔らかくなった。

「配達?したいんか?」

おっちゃんはカウンターに両手を掛けた。とっちゃんがのそりと階段を離れ、近付いてくる。横に来てみると、身長165㎝くらいか。僕より少し小さい。身を低くして僕を見上げ、観察の態勢に入った顔の、顎のしゃくれが気になる。

「そうなんです。大丈夫でしょうか?」

そう答えた。すると、

「ええんちゃう?なあ、おっちゃん」

おっちゃんよりも早くとっちゃんが反応する。

「とっちゃんは、黙っとき!」

とっちゃんは、おっちゃんにたしなめられ首をすくたが、ニヤリとした目を僕に向けると、またのそりと階段に戻っていった。咥えたままだったタバコから、フィルターだけを残して灰が落ちる。

「とっちゃん!灰落としたで!気いつけんとアカン言うてるやろ!」

とっちゃんを目で追っていたおっちゃんが、声を荒らげる。とっちゃんはまたも首をすくめるが、気にしている様子はない。階段の下から3段目に腰を下ろすと、悠然ともう一本、タバコに火を点けた。

おっちゃんは大きく溜息をつき、カウンターから身を乗り出す。何か言いたそうな顔つきに、僕はカウンターに近寄った。

「ちょっとな、遅れてるんや。気にせんといてや」

おっちゃんの、カウンターに置いた人差し指が頭を指差す。作り笑いが苦笑いに変わっている。

「あ、はい」

とっちゃんの方に目をやろうとすると、おっちゃんは小さく首を横に振る。

「見たらあかん。見んといたって……」

目配せしながら小声で言うと、もう一度小さく首を振った。

「配達してくれるんやな。で、住み込み?通いか?どっちでも、好きなようにしてや。どっちや?……通いやな。ほな、説明させてもらおうか。ここに名前と住所。電話もあるんやったら、な。書いといて」

おっちゃんの声が、急に大きくなる。僕はそっと、とっちゃんを盗み見る。とっちゃんはタバコを咥え、細めた目で笑っている。気にしていないのか、気にならないのかはわからない。

おっちゃんが差し出した折り込みチラシの裏に、名前や住所等を書く。書き終わると、カウンターにかがんで何やらごそごそしていたおっちゃんが、ひょこっと顔を出した。書き終わったメモにざっと目を通し、にっこりと頷く。採用決定らしい。

次いでおっちゃんは、手にしていた地図をカウンターの上に広げる。するとまたも、すすっととっちゃんが忍び寄ってきた。

「おっちゃん、これなんて読むんや?」

僕を押しのけるようにしてメモを覗き込み、僕の名前を指差す。

「栗塚良介さん。言うんや」

おっちゃんは面倒臭そうに答え、僕に目配せをする。

「グリグリか~」

とっちゃんは身を低くし、僕を下からねめまわすように見上げ、もう決めてしまったらしい綽名で呼んだ。

「ほれ!ここ、ここ!」

おっちゃんの声に向き直る。目の前に地図が広げられている。販売区域全域と思われる地図は、赤線でいくつかのエリアに区切られていて、その中の一つをおっちゃんの太い指が差している。植物園の南側。そこそこ広い一角だ。

「広いやろ~~。お屋敷ばっかりやからなあ。ま、すぐ慣れるやろう。全部で、210部やったかな?ま、後はカズさんに聞いて。配達先、全部頭に入ってる人やから、な」

あまりのトントン拍子に、僕はただただ「はい」「は~」を繰り返す。すると、

「一番しんどいとこやな~~」

顎の下から声がする。目を下すと、とっちゃんのにやついた顔がある。

「あほ言いな。いらんこと言うたらあかんやろう。あっち行っとき!」

すかさず、おっちゃんの叱責が飛ぶ。またも首をすくめて階段の定位置に戻って行ったとっちゃんと目が合う。口をもごもごと動かしている。「一番しんどいとこやで~~」と繰り返しているように見える。

「お屋敷ばっかりやからなあ。ちょっとしんどいかもわからへんけど、その分、他のとこよりちょっとだけ給料よくしてあるから、な!気にせんといて。とっちゃんの言うことあんまり聞かんといてな」

やや焦り気味なおっちゃんに、むしろとっちゃんの言ったことの正しさを感じる。が、折角のチャンスを逃すわけにはいかない。

「いえいえ、大丈夫です。是非、お願いします!」

僕ははっきりと答え、頭を下げた。

「もうちょっと待てて。そろそろカズさん、帰ってくるはずやから」

時計を見上げ、もう販売員を見る目で僕に言うおっちゃんに指差され、座る場所を求めて、階段下に向かう。とっちゃんは身じろぎ一つしない。僕には目もくれず正面を向いたまま、僕が最初に目にした時のように、タバコをくゆらせていた。

しばらくすると、バイクが店の前に止まる音がした。と、とっちゃんのタバコの灰が僕の横に落ちてくる。

「カズさんや~~」

とっちゃんのうれしそうな声に迎えられ入ってきたカズさんは、30代前半。中肉中背で、人との距離をわきまえた大人の顔は浅黒く、汗で光っていた。

おっちゃんから僕を紹介されたカズさんは、「栗塚君ね。よろしく」と微笑んだ。僕を手招きし、カウンターの地図を前に仕事の説明を始める。終始明るく穏やかな表情と語り口が、誠実な人柄を窺わせた。

「一週間は一緒に回ってあげるからね。意外と早く憶えるもんやで」

僕を安心させた後、とっちゃんに声をかけることも忘れない。

「とっちゃんは、時間かかったけどな。なあ、とっちゃん」

とっちゃんは、うふぇ、うふぇとまず笑う。

「1ヶ月やったかなあ、カズさん」

その言い方には、明らかに甘えがある。

「あほか!2ヶ月やろ!いや、3ヶ月やったかなあ…」

すかさず突っ込むカズさん。

「せやけど、とっちゃんのエライとこは、憶えてしまうと絶対欠配せえへんことや。なあ、とっちゃん」

カズさんは、フォローすることも忘れない。細かな気遣いのある人のようだ。

「こないだかて、……雨の日や、ほれ、なあカズさん……」 

頭に乗ったのか、僕に先輩風を吹かしたいのか、とっちゃんは自慢話を始める。

お客さんから欠配のクレームがあった朝。おっちゃんの再配達の指示を“絶対!配った”と言い張り、頑として聞き入れなかったとっちゃん。二人をなだめたカズさんがスーパーカブで駆けつけると、ビニール袋に入れられた新聞がポスト下の庭草に落ちていたという。

とっちゃんはいかにも誇らしげに、その顛末を語った。

「そうや、そうや。……そやったなあ」

カズさんは相槌を打ちながら微笑んでいたが、とっちゃんが興奮に顔を赤らめこちらに来ようとすると、厳しく制することも忘れなかった。

「ええから、そこに座っとき」

よく躾けられた動物のように、とっちゃんはカズさんの言葉にピタリと動きを止め、元の位置に座った。それを見届けたカズさんは、

「こないだ言うても、去年の梅雨の頃のことやけどな」

と、僕の耳元で言って笑った。

朝5時半までに来ること。時々チラシを入れる作業があること。チラシが多い時は、予めカズさんが束ねておいてくれること。自転車が1台貸与されること。給料日のこと。……。手慣れた簡潔な説明を受け、自転車の鍵を手渡される。

「明日から?ほな、明日はちょっと早めにしようか。5時に来て」

と、カズさんに背中を押され店の前に出る。がっしりとした荷台の付いた黒い自転車が数台並んでいる。カズさんはその中の1台に近寄り、

「これ。自分のものと思って大事にしてや」

とサドルを撫でた。

僕は「はい!」と元気よく答え、鍵を外して跨った。見かけよりも軽く、乗り心地は悪くなさそうだった。

「遅刻したらあかんで」

ペダルを踏み込んだ瞬間、後ろからカズさんの声がした。が、振り向くともう、カズさんの姿はなかった。

鴨川堤防へと自転車を走らせた。昼の光が眩しく暖かい。川風の匂いさえ感じる。

堤防に着くや向きを変え、南に下る。自転車は風を切り、勢いを増す。身体にまとわり付いていた自堕落な暮らしの臭いが吹き飛ばされていくような気がする。

下宿に着き、大きなスタンドに足を掛け自転車を止める。切れた息を整える。じんわりと軽やかな汗がにじみ出てくる。新たな門出にふさわしい汗だ。

           Kakky(志波郁)


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