昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

とっちゃんの宵山 ①

2016年07月15日 | 日記

玄関、ガラスの引き戸を開けて正面、2階へと続く階段の下から3段目に、とっちゃんは大股開きで座っていた。タバコを挟んだ人差し指と中指の先を鼻の穴に突っ込んでいた。入り口に向かってVサインをしているようにも見えた。

僕は一瞬ひるんだ。元気いっぱい張り上げたはずの「ごめんくださ~~い」の声がか細い。

すると、とっちゃんは、フィルター部分まですっぽり口の中に納まっていたタバコを引き抜いた。ジュポンと音がしたような気がした。

「おっちゃ~~~ん。お客さんやで~~~」

タバコが抜けた口から煙をぶーと吐き出すと、奥に向かって叫んだ。向き直った顔は、人懐っこく笑っていた。

それが、とっちゃんとの初対面。1年足らずの付き合いの始まりだった。

 

その年、1969年。10代終わりの年を迎えていた僕は、目標を見定める心の蓄えもないまま、“今、何を為すべきか?”を突きつけられているような日々を、ただただ右往左往していた。

下鴨神社近くの、四畳半の下宿生活も2年目。二度の受験の失敗は引きずってはいなかったが、だからといって本棚の参考書や高校の教科書に手を伸ばす意欲が湧き上がってくるわけでもなかった。

目覚めると始まる“今日一日をいかに過ごすか”に答もないまま、欠伸ついでの溜息を漏らすのが精一杯。窓の擦りガラスを抜けてくる春のむくもりに包まれていると、またもまどろみに落ちてしまう。身に覚えのない罪で追われる夢に汗だくになって半身を起こすと、斜めに差し込み足元を暖めていた日差しは、もう頭に残るだけ。焦燥と寂寥が胸の辺りで交錯し始める……。

そんな日々を、もう一週間も過ごしていた。挨拶と定食の注文の時にしか言葉を発した記憶のない一週間だった。

一週間目の夜、遂に僕はいたたまれなくなった。何かせねばと、手始めに日記を書くことにした。新しいノートの1ページ目に、“自立なくして自律なし!”と書いた。決意と覚悟を記したつもりだった。何度もボールペンでなぞった。そして、翌朝最初に目に飛び込んでくるよう、本棚に立てかけて眠った。

目覚めると、半開きになった日記が目に飛び込んできた。枕元の時計は、午前8時直前。頭を廻らせると、好天の空が眩しい。

「起きろ!行動開始にはうってつけの日ではないか!」

頭の中で声がする。僕は、布団を蹴上げた。窓を開け、暮れのバイトで買った初めてのジーパンを穿いた。「よし!」と声に出し、潔く飛び出した。行く当てがないまま、下賀茂神社方面へと向かう。

開店準備に忙しい下宿の息子が目に入る。亡くなった父親の跡を継ぎ、母親と二人で青果店切り盛りしている、僕と同じ19歳。生き生きと立ち働く姿が眩しい。僕はくるりと向きを変え、駆けるように出雲路橋方面に向かった。

しかし数分後、出雲路橋のたもとで、僕はもう途方に暮れていた。飛び出した勢いが落ち着くと、春爛漫を思わせる日差しが疎ましい。そののどかさは、茫洋として掴みどころのない“これからの僕”を象徴しているかのようであり、その明るさは、橋の上を行く明らかにそれとわかる大学生やサラリーマンの“生き生きとした明るい未来”を表しているようにも思えた。僕はまるで、目的地を持たない旅立ちを後悔する家出人だった。

それでも僕は、また歩き始めた。“また今度にしようよ”と後退しそうな心を押し留めたのは、寝起きに目にした半開きの日記だった。書いておいたお陰で、いつもは日の光にくすんでいく“夜の決意”は、まだ萎れてはいないようだった。

出雲路橋に背を向け、歩き始める。春の川風が頬にやさしい。鴨川のせせらぎも小さく耳に届いてくる。気づくと、北山橋のたもとだった。北大路橋は通り過ぎてしまったらしい。右の景色も、お屋敷の塀や生垣から植物園に変わっている。

北山通りを横断。東へと方向転換する。ここから北は京都の新興エリア。自立のきっかけと巡り会うチャンスは乏しい。東大路に出て南下することにする。と、その時目に留まったのが、“京都新聞北山橋東詰販売所”の看板だった。小学生の頃から新聞配達で小遣い稼ぎをしていた僕には、馴染み深い字面だった。

近付いてみると、“新聞配達員募集中!”の貼り紙。巡り合わせだと思った。躊躇することなく玄関を開けた。そして、とっちゃんと巡り会ったのだった。

                                                   Kakky(志波郁)


コメントを投稿