昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―26

2017年04月11日 | 日記

翌朝。しかし、とっちゃんは思いの外元気だった。

「おお、グリグリ~~。お帰り~~。宵山よかったの~~」

配達が終わって帰ってきた僕に、いつもの場所から大きく手を振ってくる。

「宵山、何かええことあったんか~~?」

カウンターから首を出したおっちゃんの顔がにやついている。どう応えていいかわからず黙って微笑む。

「きれいなネエチャンいっぱいおったもんなあ。なあ、グリグリ~~」

その快活さを僕はどう受け止めていいのかわからない。僕にウィンクまでしてみせるとっちゃんに、ただただ言葉も出ない。

「なんや?栗塚君、元気ないなあ」

黙ったままの僕を、おっちゃんが心配そうに見つめる。

「とっちゃんが何か面倒かけたんちゃうか?」

「いえ。宵山の熱気にあたったみたいで‥‥」

「そうか~~。疲れたんやな。えらい人やったやろう?」

「それはもう……」

「早う帰って寝とき」

おっちゃんの言葉に、販売所を出ようとして気付く。大沢さんと桑原君の姿がない。

「大沢さんと桑原君は?」

とっちゃんに尋ねる。

「グワグワもザワザワも疲れたみたいやなあ。もう寝てるん違うか?」

“お前のせいだろう!”と怒鳴りたいところだが、何しろとっちゃんの異様な元気に当たってしまっている。

「そうやろなあ。僕も‥‥」

「早う帰って寝ておいで。夕刊もあるしな」

とっちゃんが先輩顔で頷く。

僕は黙って外に飛び出す。ほっと息をつき、空を見上げる。今日も雲一つない。

自転車のサドルに尻を乗せハンドルに両手を置く。胸につかえていた怒りと悲しみが込み上げてくる。涙が出てきそうだ。

思いっきり自転車を走らせた。出雲路橋を通り越し出町柳まで走り抜けた。下鴨神社の境内に入り、自転車を止める。

朝の糺の森は初めてだ。辺りは清涼な空気で満たされている。清冽なせせらぎが目を捉える。大きく息を吸う。胸の奥まで清々しさが浸透していく。

一旦止めた息を大きく吐き出す。怒りや悲しみやこだわりが、朝の木漏れ日の中に拡散していく。

自転車を押して下宿に向かう。怒りや悲しみやこだわりが拡散してしまうと、果たしてそれらの原因は何だったのか、もはや考える気力も生まれてこない。所詮すべてはさしたる問題ではないのかもしれない。

 

「今日は早かったんやねえ」

下宿に帰ると、おばあさんの笑顔が迎えてくれた。

「おはようございます」

挨拶をして二階に上がろうとしたら、呼び止められた。

「これ、着てたえ。うちの郵便に混ざってたさかい、わからへんでなあ」

手には一通の手紙が握られている。高鳴る胸で受け取り、差出人を見る。差出人は啓子だ!2か月間待ちに待った手紙だ!

階段を駆け上がり、震える指で封筒を開ける。啓子の文字が目に飛び込んでくる。以前よりも上手になったように見える。大人の匂いが漂ってくるような気さえする。

一気に読み下す。しかし、僕の頭に、内容の詳細が入ってくるゆとりはない。どうも、全体の印象は悪くはない。印象は悪くはないが、啓子が遠ざかっていったような感覚もなくはない。

畳の上に手紙を置き、座って深呼吸をする。最初からもう一度、じっくりと読むことにする。何度も行きつ戻りつする。何度も立ち止まる。

読み終わり、前に屈めていた腰と首を延ばすと窓からの日の光が目に眩しい。相当な時間が経ったような気がする。

畳に仰向けになる。天井を遠く感じる。啓子の手紙の一節が浮かんでくる。

 

“今の僕、高校生でもなく大学生でもない僕を、そのまま受け入れることはできませんか?大学生にならなかったとしたら、認めることはできないのでしょうか?”と手紙にありました。自分のこととして考えてみました。でも、自分のことではないとわかりました。「今の僕」を受け入れられないのは、あなた自身じゃないでしょうか?自分を認めることができていますか?大学生になることを一番必要としているのは、あなた自身のような気がします。

 

「きっと、そのとおりなんだよ」

天井に向かって心の中で言う。

「ほら~~、ね!」

啓子の笑顔が答えたような気がした。

しかし、僕の中の啓子は、すぐ大人の顔になる。手紙の一節がまた浮かぶ。

 

あなたはこんなことを言いました。“寄り道っていいよね。早く山の向こうに行きたくてトンネルを掘る、なんてしたくないんだ。暗い穴の中でずっと暮らすより、山の裾をぐるっと、日を浴びたり月を仰いだりしながら回っていく方が楽しくない?”って。まだ高校生だった私には魅力的なお話でした。でも、今は違います。私はトンネルを掘り始めました。向こう側に行き着けるかどうかはわかりません。でも、いつの日かツルハシの先が小さな穴を開け、そこから光が差し込んでくる。そう信じて、掘り続けるつもりです。暗いのには慣れました。

 

「えらいなあ」

天井に向かって呟く。シャツが汗で背中に貼り付いている。身体を反転し、敷いたままの布団にうつ伏せになる。

「大人になったんだ」

布団に口を押し付け呟く。啓子は空間的に離れただけではなく、違うステージへ行ってしまったんだ。そう思った。

不思議なほど悲しみはなかった。むしろ惨めだった。

               Kakky(柿本洋一)

  *Kakkyのブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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