昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―③

2017年01月16日 | 日記

1969年4月下旬。かくして僕は、新聞少年になった。給料は、23,000円。生活費は、下宿代5,000円を含め17,000~20,000円だったので、十分な額だった。

その夜、いつもの定食屋の100円定食に生卵1個を追加した。早く寝なくてはと思ったが寝つけなかった。枕元にラジオと日記帳を置いてうつ伏せになった。

“いよいよ自立への第一歩だ。足は軽やかだ。澱が落ちたような気分だ。楽しみだ。”と日記帳に書いた。少しいい気分だった。身体を反転させ仰向けになると、枕元の電気スタンドの灯りに天井がほんのりと明るい。毎夜のように僕に何かを問い掛け、日常をなじっては眠りを妨げる、険しく厳しい目付きの天井の木目が、今夜は優しく微笑んでいるように見える。

ラジオで“夜のバラード”が始まる。テーマソングの“夜明けのスキャット”が流れてくる。いつもは僕を感傷の淵に引きずり込むその曲が、今夜は心地よい。もう一度うつ伏せになり、頬杖をする。ぼんやりとした希望が頭をうっすらと包み込んでいるのを自覚する。偶然見かけた求人の張り紙が僕にもたらしたものの大きさを実感する。行動することで開かれた扉の向こうは、きっと明るい。

日記帳の真ん中を2枚引きちぎり、手紙を書くことにする。啓子への手紙だ。

一つ年下の彼女は、この春、東京の女子大に入学。僕よりも一足早く大学生暮らしに入っている。3月中旬には、上京の途中京都に立ち寄ってくれた。四条河原町の喫茶店で1時間を過ごした。

 

啓子との付き合いは、僕が高校の卒業式を迎えた日、一通の手紙を手渡された直後から始まったものだった。

 

一回目の大学受験が終わった直後、それまで6年間僕の心を支配し続けていた初恋の人に会った。隣町の高校に行っていた彼女と、駅のホームで待ち合わせをした。一足早くやって来ていた彼女は、すっかり大人になっていた。そして、どこかよそよそしかった。恋人ができたのに違いないと思った。

わずかの時間、立ち話をした。他愛もない話題だった。しかし、会話も心もすれ違っていると感じた。彼女に何を訊くでもなく、何かを確かめるでもなく、僕は“諦めた方がいい”と決めていた。

身勝手に初恋だと思っていた片想いは、終わった。僕は失恋したんだと思った。それもまた、身勝手な話だった。しかしそれでも、僕の心にはぽっかりと隙間ができていた。

 

その心の隙間に彼女からの手紙は清々しく染み入った。

「友達から“栗塚さんに渡して”って頼まれたんです。受け取ってください」

卒業式が終わり、教室の前で高校生活最後の時間を過ごしていた僕の前に、小さな下級生の女の子が突然現れ、手紙を差し出した。小走りに去っていく彼女の後姿を見送りながら開封すると、僕に言った言葉が嘘だった、その言い訳から手紙は始まっていた。

“嘘をついてごめんなさい。手紙の主は、私です。突然栗塚さんを呼び止め、手紙を差し出して驚かせた背のちっちゃな女子高生です。初めまして。1年後輩の早瀬啓子です。”

そこまで読み下し目を上げると、彼女の姿はもうなく、卒業式後の廊下には、興奮と喧騒の名残があるだけだった。

「なに?手紙か?」「誰、誰?」「いいなあ。見せろよ」

口々に言いながら、同級生たちが覗き込んでくる。

「たいしたもんじゃないよ」

好奇心から逃れるために手紙を無造作に畳み、学生服のポケットに入れた。

2時間後、やっとじっくり読んだ。手紙の前半は、僕の観察日記のようなものだった。

同級生とじゃれあっている姿、講堂裏でしゃがみこみ地面に見入っている後ろ姿、体育祭の準備に動き回っている姿、掲示された模擬試験の成績表を見上げている横顔等々、早瀬啓子が遭遇した僕と、その時の印象が綴られていた。淡く初々しい先輩への憧れと好奇心に満ちていた。

その目は、時には大人の色を帯びていくようにも思えた。ところどころに見られる僕の性格分析は、表現は控えめながらも簡潔にして的確で、僕を驚かせたほどだった。

そればかりではなかった。僕を研究課題としたレポートのような手紙の、その最後の1ページには、彼女の写真が貼られていた。友達の肩にしなだれかかる写真の中の彼女は、手紙を差し出した時の彼女よりも随分と可愛く、僕の性格分析をしてみせた手紙の中の彼女よりも幼く見えた。そして、その脇に“好きです”と赤い文字が小さく添えてあった。

彼女がしなだれかかった肩は、暗に僕の肩を表しているのかもしれない、と思った。僕は、顔が一気に上気していくのを感じた。

セロハンテープで軽く留められた写真を剥がすと、裏に“早瀬啓子。夢はラジオのアナウンサーになること。でも、まだまだ勉強の足りない、17才です。”と書かれていた。僕は思わず微笑んだ。そして、すっかり、この少女が気に入っていた。

 

それから、受験が失敗に終わった春、初めて喫茶店“白鳥”で会った。それからは、帰郷する度に会った。合計5度会った。いつも“白鳥”だった。そして、会う度に僕の心の中の彼女は大きくなっていった。

4度目の時は彼女の家に招待された。彼女の父親と母親の対応には、僕が啓子の交際相手として歓迎され認められていることが表れていた。啓子から聞かされたのであろう僕の人物像を信じるほど、啓子は両親に愛され認められているんだと感じた。少し荷が重かったが、うれしく心地よかった。

京都に戻ると、手紙のやり取りをした。お互いの日常や友人のことを伝え合う他愛もない内容にも、次第に心を許し合った者同士の情感が滲むようになっていった。僕は、郵便配達を心待ちにするようになった。

しかし、秋も深くなる頃には、少しばかり様子が変わっていた。自分のことを語ることが多くなった僕に、啓子は不満そうだった。“今は受験に力を注いでくださいね”と、まるで母親のような言葉が、必ず書き足されるようになった。予備校にほとんど通っていない僕の暮らしを見透かしているかのようだった。

そして、啓子は東京の女子大に合格、僕はまたも失敗、という春を迎えた。僕は親父からの帰郷命令に背き、京都に居座ることにしていた。憂いと憤りに満ちた親父からの手紙には、“僕は親父が望むように生きていくことはできないようです。どう生きていくのか、何になり何を成し遂げたいのか、どんな人間になろうとしているのか、まだ何もわかりませんが、その一つひとつを自分で探したいと思っています。一生探し続けることになるかもしれませんが‥‥。”と書いた。そう書いてはみたものの、それほどの決意が僕の中にあるわけではなかった。希薄で行き先を持たない意志と、拠り所のない感情に支配されているだけだった。

そんな3月の下旬に届いたのが、啓子からの葉書だった。京都着の日時と京都発の時間に、“いよいよ東京に出発です。京都に立ち寄ります。会えますか?”と添えてあった。

素っ気ない印象に、秋から変わりつつあるように感じていた啓子の気持ちの在り処をあれこれ憶測もしたが、それよりも会いたい気持ちが勝っていた。僕は指折り数えて3月20日を待った。

                     Kakky(柿本洋一)

  *ブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ

 


コメントを投稿