昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 ⑳

2011年01月14日 | 日記

前に進もうとする僕を、ジーンズのループに回した指先の力で止めている。振り向くと、口元に力が籠っている。指先に渾身の力を込めているようだ。

訝しく思い様子を窺うと、視線が一点に集中して動かない。新たなきれいなネエチャンの出現か、と舌打ちしたい気分で目線の先を追う。

そこに見えたのは、意外な人物だった。“おっさん”だったのだ。銭湯に来ることがなくなり、次の現場に移動していったはずの、“おっさん”だった。

「“おっさん”やないか。宵山に来はったんやろう」と言い、とっちゃんの腕を取る。“おっさん”だったら、声を掛けて合流すればいい。“おっさん”たちも揃っているに違いない。広い御池通り沿いで立ち止まって話すのであれば、宵山見物の人たちの邪魔になることもない。

ところが、とっちゃんは動かない。“おっさん”を凝視したままの目に不思議な色が宿っている。「何?どした?とっちゃん」

声を掛け腕を引っ張ってみるが、駄々っ子のように動かない。やむを得ず、とっちゃんが動く意思を示すまで待つことにする。腕を掴んだまま横に並ぶ。自然と僕の目も“おっさん”を見つめることになる。

“おっさん”が決して宵山見物に来たわけではないことは、すぐにわかった。河原町御池を少し上った東側の歩道脇で、“おっさん”はゆるゆると屋台の準備をしていた。

その横には“筋肉”も見えてきた。しゃがんで屋台の足の固定でもしていたのであろう。ひょっこり“おっさん”の横から頭を出し、やがてたくましい上半身を胸元まで見せてきた。“おっさん”と同じ白のTシャツ姿だった。

“長髪”と“ぽっこり”の姿は、見えない。何かいわくありげだった“長髪”が見えないのは不思議ではないが、“おっさん”がずっと面倒を見続けているはずの“ぽっこり”の姿がないのは奇妙だ。とっちゃんの目の色の変化は、彼が、僕と同様、奇妙な感覚に捕らわれているからかもしれない。

「“おっさん”、屋台出すみたいやねえ。行ってみる?」

奇妙とはいっても、深刻な問題ではないであろうと思えた。とっちゃんには、あれだけ親しかったはずの“おっさん”に意外な場所で遭遇した戸惑いもあるのだろう。近くまで連れて行けば、きっと話は弾むに違いないと、僕は思った。

もう一度、二度、腕を軽く引っ張ってみた。しかし、とっちゃんは動かない。さらに、一度、二度と引っ張ると、僕の腕を振り払ったとっちゃんの口から、小さな声が漏れた。

「嘘つきやなあ、“おっさん”」

いつも声の大きいとっちゃんの口から洩れた小さな呟きには、真実の色があった。僕は、驚いた。と同時に、とっちゃんの言葉の根拠を知りたいと思った。

とりあえず、動き出しそうにないとっちゃんと並んで、“おっさん”二人を観察してみることにした。目のいいとっちゃんは、ひょっとすると、随分手前で“おっさん”を見つけ観察していたのかもしれない。そして、僕が発見する前の“おっさん”の行動に、とっちゃんが不信を抱く理由があったのかもしれない。

これ以上近付くと、自分たちが発見される危険性が高まる。そのぎりぎりの距離感でとっちゃんは立ち止まったのだろう。

とっちゃんの中に生まれた不信感が落ち着き場所を見つけるまでは、遠くから見つめ続けるしかない。多少時間がかかることを、僕は覚悟した。

 

*月曜日と金曜日に更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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