わずか一日余りの不在だったのに、夏の日差しに照らし出されている店の姿はすっかりよそよそしかった。僕の部屋さえ、よそよそしかった。僕が暮らし働いていた痕跡は、もう掻き消えたかのようだった。
汗に濡れたシャツとジーンズを脱ぎ捨て、敷きっぱなしの布団に胡座をかいた。尻に貼り付くブリーフが気になり、立ち上がり下ろした。素裸のまま、身に付けていた物全てを一抱えにして窓辺に行った。
窓を開け放つと、朝の冷気をほんの少し残した外気が身体の正面を覆った。物干し用に張ってある紐に全てを掛けてしまうと、まるで僕自身がぶら下がったかのように小さくたわんで揺れた。「よ〜し」と声に出し身体を反転させた瞬間、目の前の路地を誰かが通り過ぎて行くのを感じた。汗ばんだ背中全体に触れた外気を惜しみながら、部屋の片隅のリンゴ箱に手を掛けた。奈緒子からの手紙は奥の方にあるはずだ。
「帰ってんのか〜?」
ドアから、コックの大声が届いてくる。
「帰ってますよ〜。ちょっと待ってくださ〜い」
大声を返しながら、リンゴ箱の中に見つけたばかりのチェックのスラックスに両足を滑り込ませた。
「なんや。また、何処か出掛けるんか?」
ジーパン姿しか目にしたことのないコックは、スラックスを指差しながら笑った。しかしその笑顔には、どこかおもねるような卑屈な風情があった。
「いや、まあ。‥‥何か?」
小さな優位性を保ちながら意味あり気に口ごもると、コックは一瞬俯き、顎に決意を覗かせながら、「悪いんやけど、もう少し仕事してくれへんかなあ」と言って手を合わせてみせた。
「耕介さん、どうされたんですか?」
コックの弟耕介の兄貴にすがるような目つきと、自信に溢れた口っぷりを思い出す。コックも信頼を寄せているように見えていたが‥‥。
「あいつ、やっぱりあかんわ」
「え!?」
「初日から寝坊しよってん。あかんやろう、ヤル気ある思えへんやろう。ほんで、大喧嘩や!‥‥でな、出てけ!言うたら、出て行くわ!言うて出て行きよってんや。あかんやろう。あかん奴やろう。小っちゃい時からそうやねん‥」
と、僕の部屋の中を覗き込む。
「だからか〜」
部屋に入った時に感じたよそよそしさは、きっとわずかの間とはいえ、他人が身を置いていたからだろうと納得していると、
「なんか失くなったりしてへんか?」
と、コックは真顔になった。
「いえ、大丈夫ですよ。元々大した物ないですし‥‥」
一枚だけ辛うじて残っている夏物のシャツに袖を通しながら、「仕込み、できてますの?」と店に向かう。
「仕込みはやったんやけど、なんせ喧嘩したあとやからなあ、抜けがあるかもしれへん」
と後ろから付いてきたコックは、僕の背中の勢いに安心したのか、店のドアの手前でくるりと向きを変え、自分の部屋へと帰って行った。
店の中はいつもとは少しだけ様子が違っていた。仕込みをチェックしてみると、炊飯器の中に米が入っていないことがわかった。米を研ぎ、浸したまま、店内の掃除を始める。
次第に、僕の存在が店内に満ちてくる。帰って来た時に感じたよそよそしさは、もうない。
「でも、僕は東京に行くんだ。決めたとおりに行動せんとあかん。きっと何もできなくなるぞ〜」
心の中で何度も反復していると、時折襲いかかってきていた睡魔も遠慮がちに身を潜めていった。
そうして僕は元の“中華料理屋の住込み店員”に戻った。そして、京都への引越しと東京旅行の準備にじっくりと取り組んでいったのだった。
つづきをお楽しみに~~。
Kakky(柿本)
第一章“親父への旅”を最初から読んでみたい方は、コチラへ。
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第二章“とっちゃんの宵山” を最初から読んでみたい方は、コチラへ。
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第三章“石ころと流れ星” を最初から読んでみたい方は、コチラへ。
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