昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   10か月後の再発。 ①

2010年10月18日 | 日記

平成13年春、身辺のざわつきは増していた。失われた10年も終わり、ミレニアムを契機に好転すると期待されていた景気は、街でよく見かけるようになった腰パンのように、低位に留まったまま。事務所を訪れる友人・知人たちの表情にも、疲れが目立つようになっていた。事態を転回させなくては、とあがき努力した挙句、ふっと消えていく会社やクリエーターやプログラマーたちも多くなっていた。

そんな4月。20日の夜のことだった。

親父、肝臓癌再発!の知らせ。親父からの一報だった。

午後2時の着信に気付かず、着信アリの表示を目にしたのは、午後7時半過ぎ。辞職・独立の相談にやってきた友人と、行きつけの店に腰を落ち着けた時だった。僕は、“再発か!?”と直感した。

すぐに中座し、店の外から電話。できるだけ平静を装い「僕だけど…。どうしたの?何かあった?」と訊くと、わずかの沈黙の後「再発じゃ」という声が返ってきた。

その静かで落ち着いたトーンに戸惑う。「そう。……また、手術しなくちゃいけないんだね」と、今度は早期発見で容易な手術、という予測に縋りついてみる。

それにしても、早過ぎる。完全摘出から、わずか10か月。やっと回復した体力を、また手術で削がれていくのか。

「う~~~ん」と唸った後の沈黙に、「で、次はいつ頃になるの?」と訊くと、それに対しても「う~~ん」と唸り、また沈黙。「薬で治るの?」と希望的な観測を口にすると、やっと親父の口が開く。

「いや。それは、ない!…手術も無理みたいじゃのお」。親父の声が小さくくぐもっていく。

“なんだと!何してたんだよ~~!”。僕は心で叫ぶ。検査は?!チェックは?!……あの手術は何だったんだ?!

憤懣を抑え「検査はしてたんでしょ?」と、親父にやさしく訊く。親父に責任はない。体調管理をしっかりとやりながら、生真面目に検査通院していたのを僕は知っている。

「検査はちゃんとしてたんじゃけどのお。今日の写真では、小さいのが無数にあってのお。粉雪が降ってるような感じでのお……」「なんで?そうなるまでわからないもんなの?」「そりゃあ、わしにはわからんが…。そんな状態じゃけえ、手術は無理みたいじゃのお」

「主治医にそう言われたの?執刀医は?」質問の声が怒りに震えているのがわかる。

「どうしようもないって……」「どうしようもないって、誰が?主治医?執刀医?」「主治医がのお…」「だって…だってさあ、当分は大丈夫だって言ってたじゃない?言ってたよねえ」と、まくしたてて、僕は黙り込む。

可哀想なのは親父だ。意外な再発の早さに驚き失望し、怒りだって覚えたであろう親父の心を慮らねばならない。なにしろ、今日のことだ。午後の息子へのつながらない電話の後、親父は死の宣告にも近い事態とどう向き合っていたのだろう。その結果の静かな声と沈黙がいかにしてもたらされたのか。それは、とても僕の想像の及ぶところではない。

「お前、帰ってくる必要ないけえ。今帰ってきても、何もすることないいけえ」。親父が沈黙を破る。“何もすることない”という言葉に、死の匂いがする。

「いや、帰るよ!ちゃんと話を聞きたいし」「まあ、わしが聞いたことと変わらんと思うで。帰って来んでええて。帰って来て欲しくて電話したんじゃあないけえ」「わかった。じゃあ、親父に言われたからとか、そういうことじゃなくて。僕が勝手にふらっと帰るんだったらいいでしょ?僕の勝手な都合と意志で、ね。ね」。と、明るく言ってみる。それに対する親父の言葉は「いや、ええて。それより、仕事はどうじゃ?今は大変じゃろう。そっちの方を頑張った方がええんじゃあなあかい?」というものだが、少し力が籠り明るくなっていた。僕はもう、頭の中でスケジュール調整を始めた。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記

 


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