第36回
記帳する二日前、安達は残っていた現金のほとんどを引き下ろしていた。その額、約120万円。久美子が30万円入金して間もなくのことだった。
自宅マンションは、千鶴子の手で既に解約済み。オフィスの家賃も、12月分までは安達が先払いしている。都内を漂流するための経費なら、過去4~5回と同様、必要になったその都度引き下ろせばいい。ホテル暮らしに大金を持ち歩くのは危険でもある。なぜ、何のために、一度に大金を、口座を空っぽにしてまで必要としたのか。開いた通帳の向こうにあるはずの安達の意志を、久美子は読み取ろうとした。
そして次の一瞬、久美子は気付く。
「これが最後だよ。だからもう、入金しておかなくていいからね」
安達は、そう語りかけているのだ。
お金の使途も、口座の残高も気にしなくてもいいということは、しかし、安達の行く末を気に掛けなくてもいいということを意味する。
まさか、安達は……。
身体が震えた。通帳が手から落ちた。しかし、気を取り直した。ずっと意識してはならないと思い、深く閉じ込めていたに過ぎないことが、今あからさまになろうとしているだけではないか。
「ねえねえ、来年だけどさ」
久美子がそう切り出したのは、青山通り紀伊国屋の近く、地下の小さなバーだった。真夏日の狭間を潜り抜け、秋風が初めて都心を駆け抜けた9月の初旬。土曜日夕方からの打ち合わせが早く終わったからと呼び出され、マックス・マーラの前で待ち合わせた。
安達は上機嫌で、「5時からバーで飲むってどう?」と初めての店に連れて行ってくれた。
開店前だというのに、ドアを叩く安達を快く迎え入れてくれたマスターは、「おや、今夜は美人さんと一緒なの?」と微笑み、すっとカウンターの中に入っていく。その身のこなしに、この店の歴史が見て取れる。
「開店前だったんでしょう。すみません」
久美子は店内をぐるりと見回し、ストゥールに腰を下ろしながら頭を下げる。
「いいえ~~。安達ちゃん早いこと多いから、慣れてますから。何かいいことあったんでしょ?ね!?」
正面から見るマスターの端正な顔が微笑む。
「うん。ちょっとね」
安達の横顔も微笑む。マスターとの付き合いの長さ、遠くなく近過ぎない距離が窺える。
「今回は住宅?お店?」
「久しぶりのスナックなんだけどさ」
「どこなの?」
「赤坂なんだけどさ。オーナーさんは青山の人で、すぐ近所だよ」
「あら。誰かしら?って言っても、近所付き合いないんだけどさ、私」
心を許した者同士の会話が温かい。久美子の表情もほころんでいく。
「いけない!」
マスターがくるりと背を向け、ガスレンジで音を立てている鍋の蓋を開ける。醤油と出汁の甘辛い匂いが湯気と立ち昇る。
「ヒジキ煮たのよ」
振り向くマスターのシルバーフレームの丸い眼鏡が曇っている。
「食べたいな~~、それ」
安達がヒジキをねだる。
「はいよ!」
小鉢が二つ、・カウンターに並ぶ。安達と同時に箸を延ばす。ふと合った目を逸らすと、前にあったマスターの目が笑っていた。
「ごめんなさい。まだ、お名前伺ってなかったわねえ」
「兵藤久美子です」
「兵藤って珍しくない?……久美子ちゃんね。ママのレモンです。ジョン・レノンが死ぬほど好きだったからあやかったのよ。よろしくね」
「レモンちゃん、て呼んであげると喜ぶよ」
すかさず、安達が久美子に耳打ちをする。
「安達ちゃん、まだ名前で呼んでくれたことないのよ~~。照れ屋さんでしょ?面倒くさくない?久美子ちゃん」
「ちょっと……」
「やっぱりね。……意外と頑固だし。そのくせ甘ったれだしねえ。ねえ、久美子ちゃん。私だったらいらないわよ、こんな男」
ママは顔をしかめてみせながら、ワイングラスを並べる。
「いらなくて結構!」と言う安達の横顔は穏やかに笑っている。
まるで安達の実家を訪ね、温かく迎えられたかのようだ。おそらく、安達の仙台の実家では、同じような歓迎は受けられないのだろうが……。
「今日は、お祝いね」
ママが赤ワインの栓を開ける。
「え?!何の?」
「仕事、うまくいったんでしょ?」
「そんなの普通だから……」
グラスを受け取りながら、安達はどこか怪訝な顔付きだ。
「それと!」
もう一つのグラスが久美子に渡される。
「初めて彼女連れてきた祝いよ!」
自らのグラスに急いでワインを注ぎながらそう言うと、顔を上げるなり「おめでとう!」と言った。
久美子はなんと応えていいかわからず、ただただ大きく微笑んで、順にグラスを重ねる。安達の顔には戸惑いと喜びが混ざり合っている。
グラスのワインを一気に飲み干す。熱い一筋が胃へと落ちていく。
「横に並んで飲むのって初めてだね」
安達が前を向いたまま、ぽつりと呟く。「そうだね」と答えようとしたが、胃の中の熱い塊が先に反応し、軽やかな興奮が頭へと走り抜けていった。
「ねえねえ、来年だけどさ」
その時、口をついて出てきた言葉だった。
「一緒に旅行に行かない?」
口にしてみると重くもなく、特別なことでもなかった。しかし、口から出ることを長く求めていた言葉だと思った。
安達は、ちらりと横目で久美子を見ると、あっさりと「いいよ」と言った。しかし、すぐに目を落とすし、ワイン数滴が残るグラスの底を見つめた。
久美子は「何処にする?」という次の言葉を飲み込む。
「よかったわね。OKだって」
小さな声で言ってママが注いでくれた2杯目を、また一気に飲み干す。ワインの熱さだけを噛み締める。ふぅと息を吐き、安達に目を向ける。安達の目は依然としてグラスの底を見つめている。頬に、微かな緊張が浮かんでいる。
「ねえねえ、来年だけどさ」という一言が彼の中の何を刺激し、何のトリガーになったというのだろう。
そのまま1分ほどが経った。ママは、もう一つの鍋の様子を見るふりをしているが、その背中は聞き耳を立てている。久美子はもう一杯注がれたワインを舐めている。
「来年のこともいいけど……」
そう切り出して、安達は久美子のグラスと自分のグラスを交換し、一口ワインを含む。
「今を積み重ねていくことも大事だと思うんだ。今を重ねて合板にしたり、バウムクーヘンにしたりさ。今の積み重ねもなしに、先のこと考えたり先の約束をしたりするのって不安じゃない?高い塔だって一個一個のレンガの積み重ねでできてるんだしね」
「私たち、積み重ねてきてない?」
いつもそこはかとなく安達を支配している“不安と戸惑い”。幸せな時間に限って顔を出す安達の中の暗黒。幸せを心から味わうことを妨げるその存在に、そしてそれを見つめてしまう安達に、いつもになく久美子は苛立ちを覚えた。
その頃から久美子は、恐れていたのだ。レンガを積み上げ、天にまで届く塔を建てようとする努力が、一気にある日崩壊し、バラバラのレンガの山になってしまうことを。
そして、その崩壊が安達の死と共に訪れるということだけは、考えないことにしていたのだった。
あのレモンちゃんのバーで味わった幸せと苛立ちは、安達の失踪の明確な予兆だったのかもしれない。そして、予兆を感じたにもかかわらず心の奥に閉じ込めることで、久美子は失踪を思いとどまらせることも、暗黒から引きずり出すこともできない存在になることを、自ら選んでいたのかもしれない。
ひょっとすると、安達は久美子にそんな存在になることを求めていたのではないだろうか。サインを出してはいなかっただろうか。
久美子は、安達の失踪は自分の心の失踪でもある、と強く思う。自分の心を取り戻すために、もう一度安達のオフィスで時間を使ってみよう、と思う。そこから再スタートだ。
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