昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 ⑬

2010年12月17日 | 日記

いつものように配達が終わり、いつものようにお菓子が出され、いつものようにとっちゃんがむさぼってはポケットに押し込み、いつものように4人で残り物を食べる……。

銭湯に行った翌日から、そんな風景に流れる空気が変わった。

桑原君は山下君と額を寄せ合い、大沢さんは僕と話をしたいと思っているようだった。

とっちゃんはそんな4人を階段から高みの見物といった風情。“おばちゃん”の「あんたら、どないしたん?仲良うせんとあかんえ」という訝しむ声に、「大丈夫です」と大沢さんが応えると、ズヒヒヒ~~と笑い「“おばちゃん”。心配せんでええで。何か考えとんねんて」と言うと、悠然とタバコに火を点けた。

元自衛隊員ということが桑原君の山下君に対する興味の核になっているのは明らかだった。山下君は、昨晩から質問を投げかけられ続けているようで、いささか閉口気味に見えた。精一杯受け止めようとしている姿は可愛らしかったが、少し悲しくもあった。

大沢さんの関心は、“おっさん”が帰る間際に僕に語った一言に集中していた。その意味するところは何か、それが何故僕に向けて語られたのか、が気になって仕方ないようだった。

「一番ぼーっとした顔してたん違います?」「都会も世間も、まだまだ知らない田舎もんや、思うたん違います?僕のこと」といった感想しか僕にはない。

「いや、とっちゃんから何か聞いてるんちゃうかなあ」と大沢さんは声を潜める。

「君が気にかけてくれてることを、とっちゃん感じ取ってるんや、思うわ。期待したり、がっかりしたりしては、銭湯で全部喋ってるんちゃうかなあ」「………」「とっちゃんの嫌な部分も感じ取ってる“おっさん”が、君のことを心配してくれたんちゃうかなあ」

何かしてあげたいと思った自覚が、僕にはない。あるとすれば、将棋の相手をしたことくらいだ。

「考え過ぎちゃいますか?」と微笑んだ瞬間、「なあ、九州は梅雨入りしたらしいやないか。こっちにはいつ頃来るんやろう、梅雨」ととっちゃんが大声を上げ、話は中断した。退屈に耐えきれなかったようだ。

「南ベトナム臨時政府が……」と話に力が籠っていた桑原君も中断。山下君は、救われたとばかりに曖昧な笑みを向けてくる。

カウンター後ろに座り、様子見を続けていた“おばちゃん”の「今年は遅いみたいやねえ、梅雨入り。じめじめするのは嫌やけど、雨にも降ってもらわんとねえ」という言葉に、みんなが口々に相槌を打つ。それをきっかけに、朝刊配達後の団欒は終わった。

 

銭湯で受けた刺激が変容させた朝の風景がまた元に戻るのに、そう時間はかからなかった。ただ、販売所2階は変化を続けていた。

桑原君の夜の外出が増え、時には徹夜したまま配達に出ることさえあった。山下君は、桑原君の質問攻撃から解放された時間を大沢さんの部屋で過ごすようになっていた。

そして10日ほど経った頃、とっちゃんの顔付が突然変わった。前触れはなかった。思い当たる節も、誰にもなかった。

口数が減り、笑いが少なくなり、タバコの本数が増えた。タバコを口から抜く時の音が聞こえなくなり、替わりに深い溜め息を耳にすることが多くなった。

「カズさんが“壺に入れて庭に埋めてるみたいやで”言うてたとっちゃんの金、またおかんに使われたんちゃう?」「それやったら、口に出すやろう」「“おっちゃん”と何かあったんやろか?」「それはないな。“おっちゃん”が黙ってるはずないもん」

色々詮索してみるのだが、思い当たるものがない。「君が聞き出すべき話ちゃうかなあ」とか「僕は話したこと、ほとんどないですから」とか「俺には、絶対話してくれへん思うわ」言われ、僕が話を聞いてみることになった。

ところが、なかなか機会が見つからない。そのうちに、京都地方も梅雨入り。雨がここぞとばかりに続いた。そして、ぽつんと晴れ間ができた日の夕方、突然チャンスはやってきた。

 

*月曜日と金曜日に、更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)

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