★糸瓜忌の空に高さの戻り来ぬ 正子
子規の忌は9月19日、その日前まではお天気が悪かったのであろうか。今日はよく晴れて天高く秋が戻ってきている。(祝恵子)
○今日の俳句
子規の碑を覆いつくして萩は白/祝恵子
折しも白萩が真っ盛りのころ子規忌がある。子規の碑を覆い尽くす白萩がこの上なくやさしい。(高橋正子)
○稲刈
[稲刈/横浜市緑区北八朔] [稲干す/横浜市緑区北八朔]
★世の中は稲刈る頃か草の庵 芭蕉
★みるうちに畔道ふさぐ刈穂哉 杉風
★稲刈れば小草に秋の日のあたる 蕪村
★落日が一時赤し稲を刈る/青木月斗
★稲を刈る夜はしらたまの女体にて/平畑静塔
★月の水ごくごく飲んで稲を刈る/本宮哲郎
早苗取り、田植え、田草取り、稲刈り、脱穀、籾干しなど、一連の稲作の仕事は、小学生から中学生ぐらいまではすべて手伝って経験した。稲刈りは、今よりもっと遅く、日暮れが早かったと思う。子どもは、手が小さいので、刈り取る稲も少しずつしか刈り取れない。鎌で指を切ったこともあるが、それでも猫の手よりましだったのだろう。子供の主な仕事は、大人が束ねた稲を運んで稲架(はざ)架けることだった。稲を刈ったあとの田んぼは広くなり、虫も飛び出し、自由に遊べたので、稲刈りは結構面白かった。夏の田草取りは、手ではなく、小さい回転刃のある農具を稲株と稲株の間に入れてざぶざぶと押して田草の根を切るものだった。暑い盛りだったが、田んぼを吹く風が気持ちよかった。大人は苦労だったろうが、子供には、田草取り以外は楽しいものだった。親類が集まって、早苗を植える間隔を決めるコマのついた綱を張り田植えをした。稲は鎌で刈る。脱穀も足踏み式のものだったが、ごりんごりんと調子よく稲穂が藁から離れていった。籾干しは、筵に広げて干すが、籾干し用たの農具があった。グランドを均すような溝のある道具だ。庭に干すので、籾を干した傍で遊ぶのは厳禁。ボールが飛んで行ったときは、ひやひやして筵の端を踏んで取りにいった。小石が籾に入ったのでは大変だから。そのほかにも籾と玄米を風を起こして振り分ける大げさな農具もあった。50年ほども前のことで、今なら農具資料館などに展示されてあるようなものだ。
★田の土の匂いが強し稲を刈る/高橋正子
★稲を刈りバッタ飛びたる弧が澄みぬ/〃
稲刈り(いねかり)とは、熟したイネを収穫するために切り取る農作業で、普通は根元からその穂ごと切り取る。古代には穂のみを切り取ったと考えられるが、現在では株の基部で切り取るのが普通である。刈り取った稲は、普通はその基部で縛って束ね、ぶら下げて乾燥させる。実際の米の収穫はこれ以降の脱穀の過程で行われる。人力のみで行われていたころは、大きな人数を要し、集中して行う必要のある作業であった。稲刈りは古来より、日本の農村部における秋の代表的な風物でもある。秋祭りは、その年のイネが無事に収穫されたことを祝い、来年も豊作であることを祈願する祭りである。日本では第二次世界大戦後も久しく、鎌を用いて手作業で稲刈りが行われた。稲刈りに使用する鎌は、刃先が鋸になった特殊なもので、イネの茎の切断が容易に出来るよう工夫されている。稲刈りの実際の作業は、近年のコンバインの登場によって大きく様変りした。
コンバインは1940年代に初めて登場し、徐々に普及した。稲刈りから脱穀までの作業を一貫して行えるのがコンバインの特徴である。稲刈りから脱穀をまとめて行うが、その間籾の乾燥工程がないので、脱穀された籾は直ちに専用の穀物乾燥機にかけられる。現在でも、山間地や棚田など大型の農業機械の導入が困難な田んぼ(圃場整備が行われていない千枚田など)では、バインダーで刈り取り、稲架にかけて乾燥、ハーベスターで脱穀するという組み合わせで収穫するか、もしくは鎌を用いた従来通りの作業方法が採られている。
コンバインの普及により作業時間は大幅に短縮されたが、車両後方に排出される藁のくずが皮膚に付着すると、比較的大きな痒みや(人によっては)肌荒れが起きる為、コンバイン搭乗者以外の作業従事者は作業時の風向きに十分注意する必要がある。稲刈りを行っている農家が顔を覆うようにタオルや手ぬぐいを着用しているのは、その痒みを事前に防ぐ為である事が多い。近年は高価ではあるがキャビン(操縦席が密閉されているもの)付きの車両も登場しており、エアコンが搭載されている事も含め、搭乗者の負担は大幅に減少しているようだ。
刈り取られた稲は水分が多いので、稲架にかけて天日干しされ、十分乾燥した頃に脱穀を行う。人力のみに頼ったころは、多人数が必要であったから、当然のように子供も動員された。そのため農村域では学校でも休暇を設定しているのが普通であった。農繁休暇と呼ばれたが、一般には稲刈り休みと呼んでいた。
神社で神に捧げる少量の稲を神職や氏子などの手により作られている場合もあり、この場合、稲刈りはだいたい手作業で行われる。皇居でも生物学御研究所脇に御田があり、毎年9月下旬頃に天皇が自ら手作業で稲刈りをする。この行事は昭和天皇が始めたもので今上天皇にも引き継がれている。収穫した稲は伊勢の神宮に納めたり、皇居内の神事に使うほか、天皇一家の食事にも使用されている。
◇生活する花たち「犬蓼・吾亦紅・チカラシバ」(横浜下田町・松の川緑道)
子規の忌は9月19日、その日前まではお天気が悪かったのであろうか。今日はよく晴れて天高く秋が戻ってきている。(祝恵子)
○今日の俳句
子規の碑を覆いつくして萩は白/祝恵子
折しも白萩が真っ盛りのころ子規忌がある。子規の碑を覆い尽くす白萩がこの上なくやさしい。(高橋正子)
○稲刈
[稲刈/横浜市緑区北八朔] [稲干す/横浜市緑区北八朔]
★世の中は稲刈る頃か草の庵 芭蕉
★みるうちに畔道ふさぐ刈穂哉 杉風
★稲刈れば小草に秋の日のあたる 蕪村
★落日が一時赤し稲を刈る/青木月斗
★稲を刈る夜はしらたまの女体にて/平畑静塔
★月の水ごくごく飲んで稲を刈る/本宮哲郎
早苗取り、田植え、田草取り、稲刈り、脱穀、籾干しなど、一連の稲作の仕事は、小学生から中学生ぐらいまではすべて手伝って経験した。稲刈りは、今よりもっと遅く、日暮れが早かったと思う。子どもは、手が小さいので、刈り取る稲も少しずつしか刈り取れない。鎌で指を切ったこともあるが、それでも猫の手よりましだったのだろう。子供の主な仕事は、大人が束ねた稲を運んで稲架(はざ)架けることだった。稲を刈ったあとの田んぼは広くなり、虫も飛び出し、自由に遊べたので、稲刈りは結構面白かった。夏の田草取りは、手ではなく、小さい回転刃のある農具を稲株と稲株の間に入れてざぶざぶと押して田草の根を切るものだった。暑い盛りだったが、田んぼを吹く風が気持ちよかった。大人は苦労だったろうが、子供には、田草取り以外は楽しいものだった。親類が集まって、早苗を植える間隔を決めるコマのついた綱を張り田植えをした。稲は鎌で刈る。脱穀も足踏み式のものだったが、ごりんごりんと調子よく稲穂が藁から離れていった。籾干しは、筵に広げて干すが、籾干し用たの農具があった。グランドを均すような溝のある道具だ。庭に干すので、籾を干した傍で遊ぶのは厳禁。ボールが飛んで行ったときは、ひやひやして筵の端を踏んで取りにいった。小石が籾に入ったのでは大変だから。そのほかにも籾と玄米を風を起こして振り分ける大げさな農具もあった。50年ほども前のことで、今なら農具資料館などに展示されてあるようなものだ。
★田の土の匂いが強し稲を刈る/高橋正子
★稲を刈りバッタ飛びたる弧が澄みぬ/〃
稲刈り(いねかり)とは、熟したイネを収穫するために切り取る農作業で、普通は根元からその穂ごと切り取る。古代には穂のみを切り取ったと考えられるが、現在では株の基部で切り取るのが普通である。刈り取った稲は、普通はその基部で縛って束ね、ぶら下げて乾燥させる。実際の米の収穫はこれ以降の脱穀の過程で行われる。人力のみで行われていたころは、大きな人数を要し、集中して行う必要のある作業であった。稲刈りは古来より、日本の農村部における秋の代表的な風物でもある。秋祭りは、その年のイネが無事に収穫されたことを祝い、来年も豊作であることを祈願する祭りである。日本では第二次世界大戦後も久しく、鎌を用いて手作業で稲刈りが行われた。稲刈りに使用する鎌は、刃先が鋸になった特殊なもので、イネの茎の切断が容易に出来るよう工夫されている。稲刈りの実際の作業は、近年のコンバインの登場によって大きく様変りした。
コンバインは1940年代に初めて登場し、徐々に普及した。稲刈りから脱穀までの作業を一貫して行えるのがコンバインの特徴である。稲刈りから脱穀をまとめて行うが、その間籾の乾燥工程がないので、脱穀された籾は直ちに専用の穀物乾燥機にかけられる。現在でも、山間地や棚田など大型の農業機械の導入が困難な田んぼ(圃場整備が行われていない千枚田など)では、バインダーで刈り取り、稲架にかけて乾燥、ハーベスターで脱穀するという組み合わせで収穫するか、もしくは鎌を用いた従来通りの作業方法が採られている。
コンバインの普及により作業時間は大幅に短縮されたが、車両後方に排出される藁のくずが皮膚に付着すると、比較的大きな痒みや(人によっては)肌荒れが起きる為、コンバイン搭乗者以外の作業従事者は作業時の風向きに十分注意する必要がある。稲刈りを行っている農家が顔を覆うようにタオルや手ぬぐいを着用しているのは、その痒みを事前に防ぐ為である事が多い。近年は高価ではあるがキャビン(操縦席が密閉されているもの)付きの車両も登場しており、エアコンが搭載されている事も含め、搭乗者の負担は大幅に減少しているようだ。
刈り取られた稲は水分が多いので、稲架にかけて天日干しされ、十分乾燥した頃に脱穀を行う。人力のみに頼ったころは、多人数が必要であったから、当然のように子供も動員された。そのため農村域では学校でも休暇を設定しているのが普通であった。農繁休暇と呼ばれたが、一般には稲刈り休みと呼んでいた。
神社で神に捧げる少量の稲を神職や氏子などの手により作られている場合もあり、この場合、稲刈りはだいたい手作業で行われる。皇居でも生物学御研究所脇に御田があり、毎年9月下旬頃に天皇が自ら手作業で稲刈りをする。この行事は昭和天皇が始めたもので今上天皇にも引き継がれている。収穫した稲は伊勢の神宮に納めたり、皇居内の神事に使うほか、天皇一家の食事にも使用されている。
◇生活する花たち「犬蓼・吾亦紅・チカラシバ」(横浜下田町・松の川緑道)