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珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

なぜ?2

2018-06-20 | S教団関係
我が子にどうあってほしいかという、おそらく自分の中で一番大切なものを考える時、それが私の心の奥底の声なんだと思う。

私は娘が生まれた時、ある教えの熱心な信者だったが、娘にそれを教えようとは思わなかった。
ふつうは教える。
私のように疑問もなく素直に信じていたら尚更。
でもそうしたいと思わなかった。
なぜ?

そしてそのアンチになった時も、それはやはり同じだった。
ネットで毎日のように自信たっぷりに書いていたのに。
なぜ?

なぜかはわからないけど、これが「絶対正しい」も、これが「絶対間違っている」も、そんなことは娘に教えたくなかったし、そんな言い方も彼女にはしたくなかった。

揺るぎない信念をもっているつもりが、何を頑なに信じていようと、何を声高に否定しようと、娘をみる時にだけ、不思議と私はどっちからも解放されるのである。

無言の子どもから、「それはどっちにしてもいけない」と言われているように。

なぜ?




なぜ?

2018-06-20 | S教団関係
先日中学で、納金と授業参観と懇談会がまとめてあった。

納金は学校の昇降口で現金手渡しなので、学校まで足を運ばなければならない。
ついでに「授業参観と懇談会にもぜひ出席を!」ということなんだけど、私は面倒くさくて、納金だけ済ませたらさっさと帰った。
途中でこれから学校に行く、小学校からの知り合いのお母さんとすれちがったので、お金だけ払ったから帰ると言ったら「相変わらずね。海さんらしいわ」と笑われた。
お母さん業にも、バリ活とユル活がいるのである。
私は相当なユル活である。

私は自分で自分を、そこそこ情熱的で強引な人間だと思っていた。
何よりはっきりした気質と思っていた。
だから子どものような非力で自分の権力をもっとも行使できる相手には、もっと支配的になるのかと思っていたら、そうはならなかった。

産んでみたらむしろ、そんなことは何よりやりたくないことだと思った。
説教は嫌いだし、欠点はまあまあと見逃すし、すぐ諦めるし、無理やりはやりたくないし、何より簡単に「白黒つけたくない」
ものごとのイイワルイや結果やプロセス…いろんなことに幅をもたせたいのである。
テキトーで、いい加減でいたいのである。

かつて私は、宗教勧誘や、或いはそれを止めさせたいことに強い使命感や情熱をもっていた。
これが絶対正しい!!なんとしても救いたい!!
という正義の前には、例えそれが「強引」でも「誇大」でも「自己満足」があっても、そんなことはスルーされ、正当化された。
そしてかっちり白黒つけたかった。

他では正当化するのに、子どもの前ではそれが誇れない。

なぜ?

雨音を聞きながらこれを考えたりする。