■鳥居■
(16th March 2012)
★阿禮社奧社★ 長野県塩尻市大字塩尻町字明神平
・延喜式内社、信濃國筑摩郡、阿禮社。
・舊社格は縣社。
・祭は素盞嗚命。
・『延喜式』の古寫本に「アレイ」「アレ」の二訓あるが、『信府統記』は「素盞嗚尊、出雲國簸ノ川上ノ大蛇ヲ斬リ平ヶ給ヒ、ソレヨリ信濃國鹽川上荒彥山ノ惡鬼ヲモ寶劔ヲ以テ擊チ鎭メ給ヒシ故ニ、劔ノニ依テ荒井大平ナリト云フ意ヲ、中比ニ和訓シテ所ノ名トシ、阿禮平ト稱ス、此尊則此嶺ニ化現マシマシシトナリ」と記している。
・かつて、奧社は五百砥山(醫王堂山)にあったがのちに現社地の柿澤の明平に遷されたという。五百砥登山が困難であるため、明平と舊蹟地五百砥山の中の原である御湯ヶ原にて遙拜式行ったといい、現在もこの原の一端に碑を立てて保存し、毎年五月一日、五百砥山祭のとき、碑前にて修祓の式を行うのを例とすると云う。
・仁壽元年(851)、この地に流行した疫病が明の効驗によって鎭まったとの傳えもあるが、年代等の眞僞は不明であるが、この明は素盞嗚と考えられる。
・古來、武運長久のと知られ、崇敬を受けている。大同二年(807)、坂上田村磨が敕命を奉じ、安曇郡有明山の兇賊を討つ時、戰勝祈願をし、また、治承四年(1180)、木曾次源義仲は當社にて必勝祈願後、鹽尻の豪族や諏訪一族に擧兵を要請したという。また、義仲は木曾柏原の城中に分靈社を建て奉齋。義仲沒落のとき、遺臣今井、梨の一族の者たちは社を上野國に奉遷したといい、今の羣馬縣澁川市鎭座の舊縣社木曾三社社に祀られる。
■社號標■
(16th March 2012)
■鳥居■
(16th March 2012)
■拜殿■
(16th March 2012)
■本殿■
(16th March 2012)
■木木■
(16th March 2012)
((コメント))
2012年3月16日
國道二十號線と長野道が交差する近くの道沿いに鎭座。社前に車を停めれる廣い空があるのであるが、現在、封鎖されており、どうも、ここで何らかの問題があったことを示唆するような掲示が見られており、殘念である。
現在の社地は道に面していることで簡單に行けるためにありがたみもなく、また、社地も狹いために、寂しい限りではあるが、實際、山を步いて登った時代を想像するとなかなか惡くなかったのであろうな、という思いを抱かずにおれなかった。
(16th March 2012)
★阿禮社奧社★ 長野県塩尻市大字塩尻町字明神平
・延喜式内社、信濃國筑摩郡、阿禮社。
・舊社格は縣社。
・祭は素盞嗚命。
・『延喜式』の古寫本に「アレイ」「アレ」の二訓あるが、『信府統記』は「素盞嗚尊、出雲國簸ノ川上ノ大蛇ヲ斬リ平ヶ給ヒ、ソレヨリ信濃國鹽川上荒彥山ノ惡鬼ヲモ寶劔ヲ以テ擊チ鎭メ給ヒシ故ニ、劔ノニ依テ荒井大平ナリト云フ意ヲ、中比ニ和訓シテ所ノ名トシ、阿禮平ト稱ス、此尊則此嶺ニ化現マシマシシトナリ」と記している。
・かつて、奧社は五百砥山(醫王堂山)にあったがのちに現社地の柿澤の明平に遷されたという。五百砥登山が困難であるため、明平と舊蹟地五百砥山の中の原である御湯ヶ原にて遙拜式行ったといい、現在もこの原の一端に碑を立てて保存し、毎年五月一日、五百砥山祭のとき、碑前にて修祓の式を行うのを例とすると云う。
・仁壽元年(851)、この地に流行した疫病が明の効驗によって鎭まったとの傳えもあるが、年代等の眞僞は不明であるが、この明は素盞嗚と考えられる。
・古來、武運長久のと知られ、崇敬を受けている。大同二年(807)、坂上田村磨が敕命を奉じ、安曇郡有明山の兇賊を討つ時、戰勝祈願をし、また、治承四年(1180)、木曾次源義仲は當社にて必勝祈願後、鹽尻の豪族や諏訪一族に擧兵を要請したという。また、義仲は木曾柏原の城中に分靈社を建て奉齋。義仲沒落のとき、遺臣今井、梨の一族の者たちは社を上野國に奉遷したといい、今の羣馬縣澁川市鎭座の舊縣社木曾三社社に祀られる。
■社號標■
(16th March 2012)
■鳥居■
(16th March 2012)
■拜殿■
(16th March 2012)
■本殿■
(16th March 2012)
■木木■
(16th March 2012)
((コメント))
2012年3月16日
國道二十號線と長野道が交差する近くの道沿いに鎭座。社前に車を停めれる廣い空があるのであるが、現在、封鎖されており、どうも、ここで何らかの問題があったことを示唆するような掲示が見られており、殘念である。
現在の社地は道に面していることで簡單に行けるためにありがたみもなく、また、社地も狹いために、寂しい限りではあるが、實際、山を步いて登った時代を想像するとなかなか惡くなかったのであろうな、という思いを抱かずにおれなかった。