の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

沈堕瀧 / 沈堕滝

2014年08月13日 03時55分36秒 | 
■雄瀧■
(19th June 2011)



★沈堕瀧★ 大分県豊後大野市大野町矢田

・雄瀧はさ約二十メートル、幅約百メートル。雌瀧はさ約十八メートル、幅四メートル。

・雄瀧は大野川中流、雌瀧は支流である平井川との合流口にある。

・「豐後のナイアガラ」、「大野のナイアガラ」と呼ばれる。

・文明八年(1476)、雪舟が訪れ「鎭田瀑圖」を描いたことでも知られる。ちなみに「鎭田瀑圖」は關東大震災で燒失し、現在は狩野常信による模寫が現存するのみである。

・明治四十二年(1909)、豐後電氣鐵道株式會社によって別大電車のために沈堕發電所が建設されて、雄瀧のすぐ上流に取水用の堰が設けられた。


■雄瀧■
(19th June 2011)
 


■雌瀧■
(19th June 2011)



((コメント))

2011年6月19日

 本宮山への通り道にあったので寫眞の爲に少し立ち寄る。雄瀧の上の方にダムが見えており、水量はあるが非常に殘念な景觀となっていた。

土佐稻荷社 / 土佐稲荷神社

2014年08月13日 03時07分42秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■參道■
(6th June 2012)
 


★土佐稻荷社★ 大阪府大阪市西区北堀江4-9-7

・舊社格は社。

・祭は宇賀御魂大。

・創建由不詳。

・長堀川畔の土佐藩藏屋敷に古くから鎭座していたという。

・天正年の創建とも、明和七年(1770)に伏見稻荷を勸請したものとも傳わる。

・享保二年(1717)、藩主山内豐隆が社殿を造營して藏屋敷の鎭守社とし、一般の參拜を許したという。

・山内家は參勤交代で大坂を通る際には必ず當社を參拜し、社殿の修繕は藩費で行った。

・明治元年(1868)、土佐藩藏屋敷とともに當社は岩崎彌太郎に讓り渡され、岩崎彌太は當地で事業を營み、三菱の發祥の地となる。


■社號標、鳥居■
(6th June 2012)
 


■參道■
(6th June 2012)
 


■拜殿■
(6th June 2012)




■本殿■
(6th June 2012)
 


■奧之院■
(6th June 2012)

 


■末社若宮社■
(6th June 2012)
 


■末社石宮社■
(6th June 2012)
 


■末社磐居社■
(6th June 2012)




■末社玉根社■
(6th June 2012)



■末社大社■
(6th June 2012)
 


■末社源八社■
(6th June 2012)
 


■馬像■
(6th June 2012)
 


■岩崎彌太屋敷蹟■
(6th June 2012)
 


((コメント))

2012年6月6日

 稻荷ということであるが、要は土佐藩藏屋敷の鎭守。一應、稻荷ということになっているが、天正年に祀られたという話を取るならば稻荷ではないかもしれない。山内家の氏が本來は祀られていてもおかしくないと思うのだが、謎である。本殿背後に奧院があるというのも興味深い。ただ、個人的にはあまり好きなところではない。

祈りの瀧 / 祈りの滝

2014年08月13日 02時37分21秒 | 
■瀧全景■
(9th April 2009)
 


★祈りの瀧★ 奈良県御所市大字関屋

・水越川源流の一つである祈瀧谷にある。

・落差は約十メートル。

・水はおいしくて有名。


■祠と瀧■
(9th April 2009)
 


■瀧全景■
(9th April 2009)



((コメント))

2009年4月9日

 通り道で、薄暗くなってきていたので日光に邪魔されずにいい寫眞が撮れるかな、と思い、立ち寄ったのだが、暗すぎてぶれることに・・・

丹生川上社上社 / 丹生川上神社上社

2014年08月13日 02時23分09秒 | 近畿(奈良)
■拜殿■
(9th April 2009)
 


★丹生川上社上社★ 奈良県吉野郡川上村大字迫167 

・舊社格は官幣大社。但し、丹生川上神社下社との二社合一、後、中社も含め三社合一にて。

・祭は龗。大山祇と大雷を配祀。以前は罔象女を主祭としていたが、大正十一年(1922)の丹生川上社中社との倂合に際し、龗に改めた。

・明治初年(1868)までは龗社という小規模な祠であり、その創建由等は不詳。

・大瀧ダム建設に伴う境内發掘調査により宮の平遺蹟が發見され、本殿蹟の眞下から平安時代後半以前に遡る自然石を敷き竝べた祭壇蹟が出土。

・付近からは、繩文時代中期末から後期初め(約四千年前)にかけての祭祀遺蹟と見られる、立石を伴う環状配石遺構が出土した。

・本殿は伊勢宮舊社殿の古材を用い、平成十年(1999)に造營された。

・舊社殿は大正六年(1917)の造築にかかるもので、飛鳥坐社へ移築され、同社の本殿等になっている。


■拜殿、本殿■
(9th April 2009)



■本殿■
(9th April 2009)
 


■平安時代祭場蹟(復元)■
(9th April 2009)

 


■末社三社■
(9th April 2009)


・向かって右より、水社、惠比壽社、愛宕社。
・祭神は水社に彌津波能賣、惠比壽社に大國主、事代主、愛宕社に火武須毘。


■末社山之社■
(9th April 2009)


・祭は大山祇。


((コメント))

2009年4月9日

 何度も來ている社ゆえに、特別な感慨などは存在しない。ただ、龍さんの總本宮らしく、お守りもなかなか面白いのがあるので、そちらのほうはお勸めであったりする。

 それはさておき、東吉野村の中社が延喜式内社丹生川上社であることは違いないが、上社及び下社も非常に古い歷史を物語る遺蹟があるわけであるが、その二社に比定しうる延喜式内社の存在はない。ここで、ふと思ったのであるが、熊野市の大部分、尾鷲市、北山地方、天川村および川上村の大部分は平安期まで大和朝廷の支配圏ではなかったのではなかろうか、という疑問が消せないのである。現上社および下社、下北山村の池社、天川の天河大辨財天社、十津川の玉置社、熊野の產田社、どの社も式内社となって然るべき社なのである。隱された歷史の中に大和朝廷の祕密があるのは違いないであろう。

蜻蛉瀧 / 蜻蛉滝

2014年08月13日 01時52分38秒 | 
■二の瀧、上方からの姿■
(9th April 2009)
 


★蜻蛉瀧★ 奈良県吉野郡川上村西河

・蜻蛉とはトンボのことである。

・人皇第二十一代雄畧天皇がこの地に行幸の際、狩人に命じて獸を馳り、自ら射ようとしたとき突然、大きな虻が飛んできて、天皇の臂に喰いついた。ところが、何處からともなく蜻蛉が現われその虻を嚙み殺したので、天皇が大いにほめたたえこれより、この地を蜻蛉野(あきつの)と呼ぶことになった。蜻蛉の名にちなんで、この瀧を蜻蛉の瀧と呼んでいる。

・さ約五十メートル。飛沫は太陽に映じて常に虹をつくっていることから、この付近は一名虹光といわれている。蜻蛉の瀧は古く『萬葉集』にも記述されており、松尾芭蕉、本居宣長など著名人が多く訪れている。


■二の瀧、上の段■
(9th April 2009)
 


 


■一の瀧■
(9th April 2009)
 


■二の瀧、上の段、上方からの眺め■
(9th April 2009)
 


■二の瀧、上の段、側方からの眺め■
(9th April 2009)



((コメント))

2009年4月9日

 毎度のことながら、通りかかるとよく立ち寄る瀧。まあ、そんなに美しいというわけでもないが・・・