の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

軍越社 / 軍越神社

2014年07月23日 14時35分25秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■鳥居■
(16th June 2011)



★軍越社★ 長崎県壱岐市郷ノ浦町志原西触

・祭不明。

・住吉社境外攝社。

・功皇后が新羅出兵の時 三韓鎭護の爲に定めた軍越事が年に三囘行われるという。

・永祿年(1558-70)、古軍越丘より現社地に遷座。


■參道■
(16th June 2011)
 


■拜殿■
(16th June 2011)



■本殿■
(16th June 2011)
 


■牛■
(16th June 2011)



((コメント))

2011年6月16日

 日本最古とも言われる住吉社の攝社である軍越社。實際、この近くの御津濱なるところが最初の鎭座地であるという。當社に關しては、功皇后が始めたとされる事が行われている社であり、重要な社であることは否定できない。祭はわからないが、牛があるところを見ると、天滿宮も合祀されているのであろうか。鳥居の扁額には、兩社大明とあるが、意味するところはなんであろうか。

宇留布社 / 宇留布神社

2014年07月23日 13時57分06秒 | 中国(鳥取、島根)
■鳥居■
(12th June 2010)

 

★宇留布社★ 島根県松江市八雲町平原2038

・延喜式内社、出雲國意宇郡、宇留布社。

・舊社格は村社。

・祭は大山祇命、木花咲耶姬命。須佐之男命、稻田比賣命、天照大御、伊邪那美命、稻背脛命、菅原道眞を配祀。

・『出雲國風土記』記載宇流布社に比定。

・明治三十九年(1903)、平原村内にあった三島大明、國原社、金多大明を合祀して、現在は國原社の社地に鎭座という。一說に、國原社と金多大明は同一とされ、三島大明の境内地が現境内地ともいう。この、三島大明が延喜式内小社宇留布社に比定、社號を宇留布社と改稱。

・もとは、宇留山(標百二十メートル)の中腹にあったと傳えられる。


■手水鉢■
(12th June 2010)
 


■拜殿■
(12th June 2010)
 


■本殿■
(12th June 2010)
 


((コメント))

2010年6月12日

 見つけるのに少し迷ってしまったが、何とか、たどり着いた。ウルフ=狼か、と勝手に想像してしまい、行った。もちろん、式内社というのは知った上であるが。正直、境内では特別なものは何も感じなかった。宇留山というところに、元は鎭座していたというので、本來の姿はわかるべくもないが、現社地はさほど特別なところではないように思う。

平家一門の墓

2014年07月23日 13時52分45秒 | 歴史上人物の墓所
■赤宮内平家一門墓所■
(11th November 2009)



★平家一門の墓★ 山口県下関市阿弥陀寺町4-1 赤間神宮境内

・壇ノ浦の合戰で散っていった平家の武將たちの墓所。

・前列左より 參議中納言平教盛、大將中納言平知盛、參議修理大夫平經盛、副將能登守平教經、右近衞中將平資盛、左近衞中將平經、左近衞少將平有盛。後列左より 從二位尼平時子、丹後守侍從平忠房、越中次兵衞平盛繼、飛驒四兵衞平景俊、飛驒三左衞門平景經、上總五兵衞平忠光、伊賀平内左衞門平家長の墓碑。


((コメント))

2008年11月11日

 かなり背筋が凍りつくような冷氣を感じるところであった。もちろんの事ながらまだ得心してあの世には行かれていないのであろう。

音止瀧 / 音止滝

2014年07月23日 13時48分04秒 | 
■音止瀧■
(9th June 2008)



★音止瀧★ 静岡県富士宮市上井出

・日本の瀧百選の一。

・芝川本流の落差約二十五メートルの名瀑。

・音止の瀧の名前の由來は、かつて源朝が擧行した富士の卷狩りの際、曾我兄弟が父の仇である工藤祐經を討つため、その密議をしていた折、瀧の轟音で話が聞き取れないことで、に念じたところ、たちどころに瀧の音が止んだという傳說による。


((コメント))

2008年6月9日

 白糸の瀧の觀瀑臺へ續く道の入ったすぐのところにある。白糸瀧が非常に珍しい上流に川のない、富士山の靈水が湧き出る瀧であるのに対し、この音止瀧は正統派の豪快な瀧である。ただ、すこし、道などができ、開けすぎたかな。の中であれば美しかったに違いない。

熊野社 / 熊野神社

2014年07月23日 13時40分41秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■中門■
(16th June 2011)
 


★熊野社★ 長崎県壱岐市勝本町立石南触584

・延喜式内社、壹岐嶋壹岐郡、阿多彌社、論社。

・舊社格は村社。

・祭は伊弉册尊、素盞嗚尊、事解男、速玉男。天照大、國常立尊、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、天津彥彥火瓊瓊杵尊、彥火火出見尊、軻遇突知命、埴山姬命、罔象女、稚產靈、大山祇を配祀。

・立石村の產土。

・『壹岐風土記』によると、當社は紀伊熊野大と同體、すなわち、往昔、本宮和泉守橘貞兼が熊野より迎ヘ齋き奉り勸請とのことである。

・布代城主勸請、また、上川の居立石氏の勸請とも傳えられる。

・天平元年(730)、遣唐使多治比廣成の官命により鎭座とも傳えられる。

・立石村の海邊に溫泉があり、昔の代には地名を「アタミ」と言ったという。これが、式内社阿多彌社の論社たる理由であるという。


■正參道(南)■
(16th June 2011)
 


■東鳥居■
(16th June 2011)
 


■拜殿■
(16th June 2011)
 


■中門、本殿■
(16th June 2011)
 


■本殿■
(16th June 2011)
 


■末社■
(16th June 2011)




((コメント))

2011年6月16日

 延喜式内社阿多彌社の論社の一つ。近くの阿多彌社よりも、阿多彌社に相應しく思われる社。「あたみ」を熱水と考えると、溫泉と繋がるように思われる。熊野社に今はなっているが、熊野のが祀られているのはおそらく、廢れた社に盛であった熊野のが勸請されたことによるのであろう。おそらくは、遣唐使多治比廣成に關わる鎭座が祭祀の始めであるのではないか、と思う。熊野のを勸請し、この社に深く關わっている橘貞兼は、壹岐の式内社を査定した橘三喜の七代前の人物に當たるようであり、その三喜が當社を阿多彌社に比定しなかったことは、疑問ではある。單に現在の阿多彌社の鎭座地名が「アザミ」から轉じた「アタミ」に拘っただけなのか、熊野社に何か、式内社ではないと判斷し得る社傳があったのか。あの世で橘三喜に會い、聞いてみたいものである。

 ところで、社殿に關して、拜殿は壹岐らしいものであるが、本殿は久久に社を見た、という感じであった。正參道は雰圍氣もよく、好感が持てるものであった。