■鳥居と土壘■
(1st March 2009)
★花知社★ 三重県熊野市神川町花知
熊野市史蹟(竹原八屋敷蹟として)
・祭不明。
・竹原八屋敷蹟に鎭座。
・東西四十四メートル、土壘や空堀を持つ。
■社殿■
(1st March 2009)
■土壘■
(1st March 2009)
((コメント))
2009年3月1日
川を隔てた先は、今は和歌山縣の飛び地となっている北山村である。その邊りも、竹原八入道たちの根城であったように思う。北山村には、竹原八入道の娘と護良親王のに產まれた若宮を祀るという骨置社もある。おそらく、當時の關係なども考えて、祭はおそらくは護良親王、竹原八、加えては後醍醐天皇というところであろうか。
ところで、このが竹原八死後も竹原氏によって使われていたのであろうか。川の脇ということで、運搬その他に、非常に便利であったと思われるので。十六世紀初頭には熊野新宮黨と戰う産田社の有馬とともに戰って、何度も新宮勢を驅逐しているみたいなのでその頃も活躍していたはず。
まあ、熊野川を登る川沿いであり、登れば大塔の天辻峠という要所にもいけるので、そういう點では、交通の要所を締め、裕な一族だったのだろう。
(1st March 2009)
★花知社★ 三重県熊野市神川町花知
熊野市史蹟(竹原八屋敷蹟として)
・祭不明。
・竹原八屋敷蹟に鎭座。
・東西四十四メートル、土壘や空堀を持つ。
■社殿■
(1st March 2009)
■土壘■
(1st March 2009)
((コメント))
2009年3月1日
川を隔てた先は、今は和歌山縣の飛び地となっている北山村である。その邊りも、竹原八入道たちの根城であったように思う。北山村には、竹原八入道の娘と護良親王のに產まれた若宮を祀るという骨置社もある。おそらく、當時の關係なども考えて、祭はおそらくは護良親王、竹原八、加えては後醍醐天皇というところであろうか。
ところで、このが竹原八死後も竹原氏によって使われていたのであろうか。川の脇ということで、運搬その他に、非常に便利であったと思われるので。十六世紀初頭には熊野新宮黨と戰う産田社の有馬とともに戰って、何度も新宮勢を驅逐しているみたいなのでその頃も活躍していたはず。
まあ、熊野川を登る川沿いであり、登れば大塔の天辻峠という要所にもいけるので、そういう點では、交通の要所を締め、裕な一族だったのだろう。