の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

棚下不動瀧

2011年08月20日 16時07分50秒 | 
■棚下不動瀧(雄瀧)■
(15th May 2009)



★棚下不動瀧★ 群馬県渋川市赤城町棚下

・日本瀧百選に選ばれている。

・落差三十七メートル。


■棚下不動瀧(雌瀧)■
(15th May 2009)
 
 


■棚下不動瀧(雄瀧)■
(15th May 2009)
 




■雄瀧(裏側からの眺め)■
(15th May 2009)
 


((コメント))

2009年5月15日

 不動尊だけあり、獨特のおどろおどろしい氣があふれていたが、なかなかどうして、瀧は非常に興味深く美しいものであり、満足であった。

平野社

2011年08月14日 03時20分18秒 | 近畿(滋賀、京都)
■拜殿■
(24th April 2009)



★平野社★ 京都府京都市北区平野宮本町1

・延喜式内社、山城國葛野郡、平野祭四座、竝名大、月次新嘗。

・舊社格は官幣大社。

・祭は今木、久度、古開。比を配祀。この四を以て平野と總稱。今木の今木は「今來」のことで、新たな渡來を意味した言葉で、今來郡(大和國高市郡)には百濟系の人人が多く住み、彼らによって今來郡、後に平城京田村後宮に祀られていた渡來とされ、都が平安京に遷されるにおよび、桓武天皇が生母野新笠の尊崇した今木を大和から遷したものであるという。久度、古開は大和國平群郡の式内久度社に祀られていた渡來とされるが、久度社は一座なので謎がある。古開は平野社のみで聞かれる名である。比には諸説あるが、桓武天皇生母野新笠という説もある。

・二十二社の上七社の一。伊勢、賀茂、石清水、松尾につぐ五位に位置づけられた。

・創建年代には諸説あり、『諸記』は延暦四年(794)、『一代要記』は延暦十三年(803)、『江家次第』は延暦年中とする。

・『貞觀式』には「平野久度古開三」とみえることから、本来の祭は三座であり、今木が平野と主であったことがわかる。

・源、平、階、大枝、清原、中原、菅原、秋篠等 八氏の祖とされる。


■鳥居■
(24th April 2009)
 


■參道、中門■
(24th April 2009)
 


■拜殿■
(24th April 2009)


・東門院の寄進。


■門、本殿■
(24th April 2009)

 


 國重要文化財

・向かって右より、今来、久度、古開、比を祀る。
・比翼春日造。


■境内■
(24th April 2009)



■木■
(24th April 2009)



((コメント))

2009年4月24日

 櫻で有名な平野社へ初の訪問。京都らしい社と言える。境内の雰囲氣、土地自體から感じる氣、目に入る社殿の姿。大和や南山城で感じるものとは明らかに別物である。おそらく境内にあるは木の違いが大きい。乾ききって、祀られていたものがいなくなってしまった、という感覚して沸いてこないのである。

惣社水分社

2011年08月14日 02時58分04秒 | 近畿(奈良)
■拜殿■
(27th February 2009)



★惣社水分社★ 奈良県宇陀市菟田野区上芳野字中山648

・延喜式内社、大和國宇陀郡、宇太水分社、大、月次新嘗、論社。

・舊社格は村社。

・祭は天之水分、國之水分、天之兒屋根命。速秋津比古命、譽田別命、素盞嗚命、火産靈命を配祀。

・社名の惣社は文政十二年(1829)九月に卜部家から與えられた宗源宣旨に「惣社水分大明」とあることによるが、それ以前は「中山水分社」「中山社」と稱していた。

・貞和二年(1346)の御供酒瓶子の銘によって、さらに古くは「芳野本水分宮」と呼ばれていたことがわかる。

・『水分社記』に「天下泰平國家鎭護氏子繫昌の祈りの爲めに古市場古屋の内膳とに談じ、于時享元壬申年(1452)初て水分宮祭遵行し輿の渡御を始む」とあるが、この年、古市場の宇太水分社との本末關係から特殊な行式を始めて行ったものと考えられる。

・後世、當社を式内宇太水分社に充てるべく、樣様な方策が講じられた形跡が殘る。寶物の獅子頭と猿田彦の面に天平あるいは貞觀の銘が記されているが、ともに明らかに近世初期の作品と見られ信憑性は低い。また、造営棟札に天平八年(736)と記したものがあるが、同樣に信憑性は低い。

・社記は、延喜式内大社宇太水分社に充てるべく僞作されたものと思われ、およそ、信じられるものではないが、以下の通りである。醍醐天皇昌泰元年(898)九月に當社より初めて古市場および下井足に渡御があり、同三年三月七日に當社の御旅所に小祠が建てられて當社の先靈の靈奉遷鎭座式なるものが行われ、さらに嘉應元年(1169)二月、古市場、下井足の小休された場所に當社の分靈を鎭祭した。その後、渡御事は中絶、後に古市場までの渡御が再興されたがこれもやがて中絶。しかし、享二年(1453)九月に再び古市場への渡御が復活し、今日に及ぶという。實のところ、當社が元になったというわけではなく、芳野川での鎭座地の位置關係によるものと思われ、それゆえの、宇太水分三社上の宮の名稱にいたると思われる。

・大正二年(1913)、隣接する八幡宮を合祀し、明治二年(1869)建築とされる本殿を當社の本殿とした。懸魚、蟇股等の彫刻は幕末の名工安本龜八の作とされる。


■社號標■
(27th February 2009)
 


■一之鳥居■
(27th February 2009)
 


■參道■
(27th February 2009)



■手水舎■ 
(27th February 2009)
 


■二之鳥居■
(27th February 2009)



■三之鳥居■
(27th February 2009)

 

■拜殿■
(27th February 2009)



■本殿■
(27th February 2009)
 


((コメント))

2009年2月27日

 惣社水分社へ行く前に、少し、リサーチしてから行ったのだが、關係のある、宇太水分社上社、下社であるが、この二社とともに宇太水分三社というらしい。惣社というので、そういう位置づけであると思っていたのだが、よくよく調べると非常に怪しく、この惣社というのも江戸時代後期の文書によるものであり、その頃はおそらく、延喜式内大社宇太水分社と名乗るべく工作を行っていたであろうから、そういう意味では、眞っ當な名稱ではなく、式内社を名乗るための布石としてつけられた名稱であると思ったほうがいい。そういうことを思うと、今は皇大宮別宮伊雑宮の僞作ストーリーを思い出さずにはおれない。鎭座地自體は緑と水の美しい山の中で清清しい所である。式内社という格を求めて、僞作された話を社傳に加えたがために、眞の由緒が見えなくなり、殘念の他ならない。