■拜殿■
(27th February 2009)
★惣社水分社★ 奈良県宇陀市菟田野区上芳野字中山648
・延喜式内社、大和國宇陀郡、宇太水分社、大、月次新嘗、論社。
・舊社格は村社。
・祭は天之水分、國之水分、天之兒屋根命。速秋津比古命、譽田別命、素盞嗚命、火産靈命を配祀。
・社名の惣社は文政十二年(1829)九月に卜部家から與えられた宗源宣旨に「惣社水分大明」とあることによるが、それ以前は「中山水分社」「中山社」と稱していた。
・貞和二年(1346)の御供酒瓶子の銘によって、さらに古くは「芳野本水分宮」と呼ばれていたことがわかる。
・『水分社記』に「天下泰平國家鎭護氏子繫昌の祈りの爲めに古市場古屋の内膳とに談じ、于時享元壬申年(1452)初て水分宮祭遵行し輿の渡御を始む」とあるが、この年、古市場の宇太水分社との本末關係から特殊な行式を始めて行ったものと考えられる。
・後世、當社を式内宇太水分社に充てるべく、樣様な方策が講じられた形跡が殘る。寶物の獅子頭と猿田彦の面に天平あるいは貞觀の銘が記されているが、ともに明らかに近世初期の作品と見られ信憑性は低い。また、造営棟札に天平八年(736)と記したものがあるが、同樣に信憑性は低い。
・社記は、延喜式内大社宇太水分社に充てるべく僞作されたものと思われ、およそ、信じられるものではないが、以下の通りである。醍醐天皇昌泰元年(898)九月に當社より初めて古市場および下井足に渡御があり、同三年三月七日に當社の御旅所に小祠が建てられて當社の先靈の靈奉遷鎭座式なるものが行われ、さらに嘉應元年(1169)二月、古市場、下井足の小休された場所に當社の分靈を鎭祭した。その後、渡御事は中絶、後に古市場までの渡御が再興されたがこれもやがて中絶。しかし、享二年(1453)九月に再び古市場への渡御が復活し、今日に及ぶという。實のところ、當社が元になったというわけではなく、芳野川での鎭座地の位置關係によるものと思われ、それゆえの、宇太水分三社上の宮の名稱にいたると思われる。
・大正二年(1913)、隣接する八幡宮を合祀し、明治二年(1869)建築とされる本殿を當社の本殿とした。懸魚、蟇股等の彫刻は幕末の名工安本龜八の作とされる。
■社號標■
(27th February 2009)
■一之鳥居■
(27th February 2009)
■參道■
(27th February 2009)
■手水舎■
(27th February 2009)
■二之鳥居■
(27th February 2009)
■三之鳥居■
(27th February 2009)
■拜殿■
(27th February 2009)
■本殿■
(27th February 2009)
((コメント))
2009年2月27日
惣社水分社へ行く前に、少し、リサーチしてから行ったのだが、關係のある、宇太水分社上社、下社であるが、この二社とともに宇太水分三社というらしい。惣社というので、そういう位置づけであると思っていたのだが、よくよく調べると非常に怪しく、この惣社というのも江戸時代後期の文書によるものであり、その頃はおそらく、延喜式内大社宇太水分社と名乗るべく工作を行っていたであろうから、そういう意味では、眞っ當な名稱ではなく、式内社を名乗るための布石としてつけられた名稱であると思ったほうがいい。そういうことを思うと、今は皇大宮別宮伊雑宮の僞作ストーリーを思い出さずにはおれない。鎭座地自體は緑と水の美しい山の中で清清しい所である。式内社という格を求めて、僞作された話を社傳に加えたがために、眞の由緒が見えなくなり、殘念の他ならない。