■本殿と境内社(全五殿)■
(13th March 2009)
★國王社★ 奈良県吉野郡十津川村上野地
・祭は長慶天皇。
・南朝文中二年(1373)創祀という。長慶天皇自害、水葬の際、御首が流れてきたのを祀ったことに創祀とすると傳えられてきているが、おそらくは、長慶天皇の勅願宮として建てられたのが創祀であろうと思われる。
■國道沿いの鳥居■
(13th March 2009)
■正面鳥居■
(13th March 2009)
■拜殿、本殿■
(13th March 2009)
■本殿■
(13th March 2009)
■南帝陵御首塚■
(13th March 2009)
・この地に潜居していた人皇第九十八代長慶天皇が北朝勢に追われ、無念にも天河五色谷で自害された。時に應永元年(1394)であったという。遺体は水葬されたが、數日後、河津平の淵に御首が現れ、里人が長慶天皇の勅願宮河津國王社の傍に奉葬したという。
・のちに、御首塚は頭の様として崇め奉られるようになった。長慶天皇が優れた文学者であったことに由來するのかもしれない。
((コメント))
2009年3月13日
谷のつり橋を過ぎて、國道を熊野新宮方面へ走るとカーブの先に國王社の看板が見える。氣になっていたのであるが、一度も行っておらず、調べると長慶天皇に關係のあるところであるということであったので、寄ってみた。
本來、十津川という地は隣接する周囲の村とも一線を隔し、獨特な特殊な文化の中で過ごしてきている地区である。この十津川には、寺を建てることは許されず、社も玉置社のみとされ、それが十津川村で唯一の信仰であったところである。明治以前は、死者は式で祀っていたのもそのためである。そういう文化の村に、長慶天皇關係の社がいくつかあるのである。これは、非常に注目しなければいけない事柄である。
文中二年(1373)の鎭座というが、祭が長慶天皇であるのであれば、勅願宮として建てたときの祭は消されたのであろうか。玉置のか、天河弁財天か、住吉のであったのだろうか。海はないが、熊野水軍の力を背景にしていた時代であったらば、水の戦住吉であったのかもしれない。だが、それは事實であったのであろうか。年号が文中ではなく元中の間違いであったらば、やはり、祭は長慶天皇であり、その魂を鎭めるために建てられたのかも知れないと思うわけである。
國王社が勅願宮であったと『大和誌』にあるそうだが、實は別に社の歴史などで信用できない記述があったことから、正直信できかねるのである。
ただ、十津川の人々たちは、六百年來、長慶天皇の在位を確信し、奉祀してきている事實がある。
(13th March 2009)
★國王社★ 奈良県吉野郡十津川村上野地
・祭は長慶天皇。
・南朝文中二年(1373)創祀という。長慶天皇自害、水葬の際、御首が流れてきたのを祀ったことに創祀とすると傳えられてきているが、おそらくは、長慶天皇の勅願宮として建てられたのが創祀であろうと思われる。
■國道沿いの鳥居■
(13th March 2009)
■正面鳥居■
(13th March 2009)
■拜殿、本殿■
(13th March 2009)
■本殿■
(13th March 2009)
■南帝陵御首塚■
(13th March 2009)
・この地に潜居していた人皇第九十八代長慶天皇が北朝勢に追われ、無念にも天河五色谷で自害された。時に應永元年(1394)であったという。遺体は水葬されたが、數日後、河津平の淵に御首が現れ、里人が長慶天皇の勅願宮河津國王社の傍に奉葬したという。
・のちに、御首塚は頭の様として崇め奉られるようになった。長慶天皇が優れた文学者であったことに由來するのかもしれない。
((コメント))
2009年3月13日
谷のつり橋を過ぎて、國道を熊野新宮方面へ走るとカーブの先に國王社の看板が見える。氣になっていたのであるが、一度も行っておらず、調べると長慶天皇に關係のあるところであるということであったので、寄ってみた。
本來、十津川という地は隣接する周囲の村とも一線を隔し、獨特な特殊な文化の中で過ごしてきている地区である。この十津川には、寺を建てることは許されず、社も玉置社のみとされ、それが十津川村で唯一の信仰であったところである。明治以前は、死者は式で祀っていたのもそのためである。そういう文化の村に、長慶天皇關係の社がいくつかあるのである。これは、非常に注目しなければいけない事柄である。
文中二年(1373)の鎭座というが、祭が長慶天皇であるのであれば、勅願宮として建てたときの祭は消されたのであろうか。玉置のか、天河弁財天か、住吉のであったのだろうか。海はないが、熊野水軍の力を背景にしていた時代であったらば、水の戦住吉であったのかもしれない。だが、それは事實であったのであろうか。年号が文中ではなく元中の間違いであったらば、やはり、祭は長慶天皇であり、その魂を鎭めるために建てられたのかも知れないと思うわけである。
國王社が勅願宮であったと『大和誌』にあるそうだが、實は別に社の歴史などで信用できない記述があったことから、正直信できかねるのである。
ただ、十津川の人々たちは、六百年來、長慶天皇の在位を確信し、奉祀してきている事實がある。