の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

國王社

2011年08月20日 16時53分18秒 | 近畿(奈良)
■本殿と境内社(全五殿)■
(13th March 2009)



★國王社★ 奈良県吉野郡十津川村上野地

・祭は長慶天皇。

・南朝文中二年(1373)創祀という。長慶天皇自害、水葬の際、御首が流れてきたのを祀ったことに創祀とすると傳えられてきているが、おそらくは、長慶天皇の勅願宮として建てられたのが創祀であろうと思われる。


■國道沿いの鳥居■
(13th March 2009)

 

■正面鳥居■
(13th March 2009)

 

■拜殿、本殿■
(13th March 2009)
 


■本殿■
(13th March 2009)
 


■南帝陵御首塚■
(13th March 2009)


・この地に潜居していた人皇第九十八代長慶天皇が北朝勢に追われ、無念にも天河五色谷で自害された。時に應永元年(1394)であったという。遺体は水葬されたが、數日後、河津平の淵に御首が現れ、里人が長慶天皇の勅願宮河津國王社の傍に奉葬したという。
・のちに、御首塚は頭の様として崇め奉られるようになった。長慶天皇が優れた文学者であったことに由來するのかもしれない。


((コメント))

2009年3月13日

 谷のつり橋を過ぎて、國道を熊野新宮方面へ走るとカーブの先に國王社の看板が見える。氣になっていたのであるが、一度も行っておらず、調べると長慶天皇に關係のあるところであるということであったので、寄ってみた。

 本來、十津川という地は隣接する周囲の村とも一線を隔し、獨特な特殊な文化の中で過ごしてきている地区である。この十津川には、寺を建てることは許されず、社も玉置社のみとされ、それが十津川村で唯一の信仰であったところである。明治以前は、死者は式で祀っていたのもそのためである。そういう文化の村に、長慶天皇關係の社がいくつかあるのである。これは、非常に注目しなければいけない事柄である。

 文中二年(1373)の鎭座というが、祭が長慶天皇であるのであれば、勅願宮として建てたときの祭は消されたのであろうか。玉置のか、天河弁財天か、住吉のであったのだろうか。海はないが、熊野水軍の力を背景にしていた時代であったらば、水の戦住吉であったのかもしれない。だが、それは事實であったのであろうか。年号が文中ではなく元中の間違いであったらば、やはり、祭は長慶天皇であり、その魂を鎭めるために建てられたのかも知れないと思うわけである。

 國王社が勅願宮であったと『大和誌』にあるそうだが、實は別に社の歴史などで信用できない記述があったことから、正直信できかねるのである。

 ただ、十津川の人々たちは、六百年來、長慶天皇の在位を確信し、奉祀してきている事實がある。

棚下不動瀧

2011年08月20日 16時07分50秒 | 
■棚下不動瀧(雄瀧)■
(15th May 2009)



★棚下不動瀧★ 群馬県渋川市赤城町棚下

・日本瀧百選に選ばれている。

・落差三十七メートル。


■棚下不動瀧(雌瀧)■
(15th May 2009)
 
 


■棚下不動瀧(雄瀧)■
(15th May 2009)
 




■雄瀧(裏側からの眺め)■
(15th May 2009)
 


((コメント))

2009年5月15日

 不動尊だけあり、獨特のおどろおどろしい氣があふれていたが、なかなかどうして、瀧は非常に興味深く美しいものであり、満足であった。