の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

金鑽神社

2010年03月06日 16時44分11秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■中門■
(16th May 2009)



★金鑽神社★ 埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮

・延喜式内社、武藏國兒玉郡、金佐奈神社、名神大。

・旧社格は官幣中社。

・祭神は『金鑽神社鎮座之由来記』、『金鑽神社明細帳』によると、天照大神、素戔嗚命、日本武尊の三柱であるが、『新編武蔵風土記稿』には、「神体金山彦尊、或ハ素戔嗚命トモ云」とあり、『大日本地名辞書』もこの説を引き、次のように記している。
「神祇志料云、金佐奈神社の後なる山を金華山といふ、銅を掘し岩穴今現存すと云へり、之に拠るに、金佐奈盖金砂の義、其銅を出す山なるを以て、之を神とし祭る事、陸奥八溝黄金神社のごときか。」
「甲子夜話云、児玉郡金鑽村、神社のほとり、大石あり、土中に埋りて其ほど知らず、顕はれたる所、一丈に九尺ほどなり、色は柿色にしてこれに向へば鏡にうつる如く、人影見ゆるとぞ。」

・標高約三百メートルの御室山を神体山とし、その麓に鎮座。

・本殿がなく、典型的な神体山信仰の形を残す。また、御室山の背後には浅い谷を隔てて御嶽山があり、その山頂には磐座状の巨岩がある。

・八幡山ほか二十二ヶ村の総鎮守。

・鎌倉時代には武蔵七党の一、児玉党の尊信厚かった。

・九郷用水の守護神。

・『金鑽神社鎮座之由来記』によると、景行天皇四十一年、日本武尊が東征の折、東国を治めるため、倭姫命より賜わって草薙剣とともに常に携えていた火打金を御霊代に天照大神と素戔嗚命を祭り、金鑽神社と名づけて関東総鎮守とし、さらに、欽明天皇二年、その日本武尊が合祀され、勅幣を奉られたという。

・『金鑽神社明細帳』によると、延暦二十年(801)、坂上田村麻呂が夷蝦地平定を奏請し、永承六年(1051)には源義家が奥州平定を奏請して大虎、小虎の琵琶二面を奉納したと伝えられる。

・金鑽は金砂の意味であり、御嶽山を金華山といい、山腹に銅を掘った跡があるという。

・現社地の北東四百メートルほどのところに、旧社地と伝えられるところがあり、飛び地境内社元森神社が鎮座するが、御室山がひときわ美しく仰がれる地点で、原初の遥拝地点ともいう。

・一般に武蔵国二之宮とされているが、これは一之宮を氷川神社とした近世のものに基づいており、本来の一之宮を小野神社とする格付けに対しては武蔵國五之宮とされており、それが本来の位置づけである。


■多宝塔■
(16th May 2009)


 国重要文化財

・三間四面の杮葺、宝塔に腰屋根がつけられた二重の塔婆。
・天文三年(1534)に阿保郷丹荘豪族の阿保弾正全隆(武蔵七党丹党支流阿保氏)が寄進したもの。
・塔の真柱に「天文三年庚午八月晦日、大旦那阿保弾正全隆」の墨書銘がある。


■参道■
(16th May 2009)



■旗懸銀杏■
(16th May 2009)


 八幡太郎源義家、康平五年(1062)、奥州平定の帰路に奉賽のため植えつけたものの二代目。


■手水舎■
(16th May 2009)



■拝殿■
(16th May 2009)



■末社群■
(16th May 2009)



■鏡岩への道■
(16th May 2009)



■鏡岩■
(16th May 2009)


 国特別天然記念物

・約一億年前にできた岩断層活動のすべり面という。
・断層の両側面が強い摩擦力によって鏡のように光ってなめらかになり、物の姿を映すということから鏡岩と呼ばれるようになったという。


((コメント))

2009年5月16日

 一年前の東日本征伐のときにも偶然立ち寄っているが、時間的な問題と詳しい情報を持っていなかったことから鏡岩に行っていなかったので、今回、是非にと思い、行った。実はこの日の予定ではなかったが、天気予報がイマイチだったので急遽変えたのであった。ちなみに、去年の段階で行っていても十分いける距離であったことがわかった・・・
 個人的には、祭神のこともあり、さほど好きな神社ではないのだが、立派なところではあると思う。真の武蔵國一之宮小野神社が小さいので余計にそう思ってしまうのかもしれない。鏡岩は、光っていなかった・・・

椋神社

2010年03月06日 16時43分11秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■拜殿■
(16th May 2009)



★椋神社★ 埼玉県秩父市下吉田7377

・延喜式内社、武藏國秩父郡、椋神社、論社。

・旧社格は縣社。

・祭神は猿田彦大神、武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、比賣神。十六柱を合祀。

・本来「くら」神社と読むのだが、他地域の人々が「むく」神社と呼ぶために改称したという。

・旧社地は、背後の畑地に残る井椋塚の上と伝えられ、近世には「井椋五所大明神」と記録されている。

・現社殿と井椋塚を結ぶ直線を西に延ばした先にある鍛冶山の山中に奥宮があるという。

・日本武尊が東征の折、この地に至ったときに杖にしていた矛の先端から光を発し、飛び去ったので、そのあとを辿ると光は井椋塚の上に留まっていたという。光は老翁の姿に変わり、ここに導いたのは猿田彦命であると告げたため、尊は塚の上に祠を建て、猿田彦命を祀り、東国鎮撫を祈願したと伝わり、それを創祀とする。

・社殿が東向きであるのは、当社が東国鎮撫の役割を担っているからという。

・天慶三年(940)、乱を起こした平将門が敗れて、この地に逃れて来、城峯山に立て籠もったという伝説があり、追跡してきた藤原秀郷は容易に破ることができず、窮して、当社に戦勝祈願をしたところ、将門の城内に無数の鼠が現れ、兵具を残らず食い破ってしまい、秀郷が勝利を得るにおよび、霊験に感謝をし、鼠社を建てたといい、北の山中に現存する「子の神社」のことという。

・神体は石棒。


■鳥居■
(16th May 2009)



■狛犬■
(16th May 2009)




■舞殿■
(16th May 2009)



■拜殿■
(16th May 2009)



■本殿■
(16th May 2009)



■絵馬殿■
(16th May 2009)



■八幡神社旧本殿■
(16th May 2009)


 秩父市指定文化財


■城峯山遠景■
(16th May 2009)



((コメント))

2009年5月16日

 延喜式内社の論社ということでやってきた。神社の東側に川があるのだが、その東岸には桓武平氏秩父党代々の館があり、畠山重能までこの地にいたという。この重能は後に信濃の英雄木曾義仲となる嬰児駒王丸を悪源太義平の急襲のあとに救出し、友人の齋藤長井別当實平に託した人物である。その嫡子、重忠は嵐山のほうに移り、その館跡は国の史跡にもなっている。

 神社自体は、大して何も感じない微弱な気しか発しないところであるが、日本困民党のこともあるし、非常に歴史的に重要なところである。ついでに言うと、延喜式内社の論社が他にもあるが、ここが本命ではないであろうか。

 しかし、人々が「むく」神社と誤って読んでいたことで、本来の「くら」神社の名称を「むく」に変えたことは感心できず、残念なことである。

出雲乃伊波比神社

2010年03月06日 16時41分47秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■鳥居と神橋■
(16th May 2009)



★出雲乃伊波比神社★ 埼玉県熊谷市板井824

・延喜式内社、武蔵國男衾郡、出雲乃伊波比神社、論社。

・旧社格は村社。

・祭神は武甕槌命。

・周囲には奈良期の住居跡や古墳群がある。

・入間郡周辺に勢力を誇っていた出雲系氏族の一派が当社を創建したと推測される。

・中世期に当社に鹿島明神が勧進され、以来「鹿島社」とされ、明治期に旧名に改められた。


■社號標■
(16th May 2009)



■拝殿■
(16th May 2009)



■末社合殿■
(16th May 2009)



■社叢■
(16th May 2009)



((コメント))

2009年5月16日

 式内社の論社の一つで、一般的には、寄居町赤浜のほうが有力視されているみたいだが、周囲の条件からしても、おそらくはこちらが本当の式内社であろうと思う。寄居町のほうは八幡宮であり、隣村の神社が式内社小被神社とされたのに対抗して、無理やり名乗った可能性が高い。当社に関していうと、祭神は、武甕槌は本当の祭神ではない。鹿島の神を勧請した段階で本当の神が封じ込められたようであり、実際は出雲系と思われるので、おそらくは大國主ではなかろうか。ただ、地名に氷川が残っているため、鹿島の前は氷川社の時代もあったのであろう。複雑なところである。

 気は村の鎮守なりに悪くないと思う。

安房國一之宮安房神社

2010年03月06日 16時26分13秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■参道■
(13th June 2008)



★安房國一之宮安房神社★ 千葉県館山市大神宮589

・延喜式内社、安房國安房郡、安房坐神社、名神大、月次新嘗。

・旧社格は官幣大社。

・祭神は天太玉命。天比理刀命、忌部五部神(櫛明玉命<出雲忌部氏祖>、天日鷲命<阿波忌部氏祖>、手置帆負命<讃岐忌部氏祖>、彦狭知命<紀伊忌部氏祖>、天目一箇命<筑紫、伊勢忌部氏祖>)を配祀。寛永年間(1624-1644)の当社旧記には、天日鷲命、天神立命、大宮賣命、豊磐窓命、櫛磐窓命の五神と記されており、現在までに変遷があったことがわかる。

・本宮が上の宮とい呼ばれ、天太玉命の弟の天忍日命と孫の天富命を祀る摂社が下の宮と呼ばれる。

・創祀は今から二千六百六十年以上も前、神武天皇が初代天皇として即位した皇紀元年(紀元前660)と伝えられる。

・神武天皇の命令を受け、天富命が肥沃な土地を求め、阿波国に上陸、そこに麻や穀を植え開拓を進めた。その後、天富命一行は更に肥沃な土地を求め、阿波国の忌部の一族の天日鷲命の後裔を引き連れ海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸、ここにも麻や穀を植えた。この時、天富命は上陸地の布良浜の男神山、女神山に、自身の先祖にあたる天太玉命と天比理刀命を祀り、これが現在の安房神社の起源となるという。

・昭和七年(1932)、境内参籠所の井戸を開鑿中、海蝕洞窟が発見され、発掘調査によって二十体以上の人骨をはじめ多数の貝輪、弥生式土器片、石器のほか、多量の貝殻、鳥骨、獣骨、魚骨などが出土、成人の人骨には十五例の抜歯の痕跡が認められた。このことから、これらの弥生人は安房大神の祭祀に関係した安房忌部一族と推測され、当社の創祀は弥生時代にさかのぼるものと考えられた。

・養老元年(717)に、吾谷山の麓の現在地に安房神社が遷座され、それに伴い、天富命と天忍日命を祀る「下の宮」の社殿も併せて造営された。

・元々、地理的に地震、津波、台風の被害を受けやすいところに位置するため、延喜式内社安房郡六社は遷座等余儀なくされたりすることが多く、その結果、それぞれ論社が二社ある中、唯一、当社については古来より異説がない。

・天太玉命を祀る忌部氏本宗の社としては、舊大和國高市郡鎮座延喜式内名神大社天太玉命神社があり、これを区別する意味で安房坐神社としたと考えられる。房州では古来「大神宮様」と呼ばれ親しまれてきたという。

・源頼朝、房総里見氏の崇敬篤かったという。


■一の鳥居■
(13th June 2008)



■二の鳥居■
(13th June 2008)



■拝殿■
(13th June 2008)



■本殿■
(13th June 2008)



■神饌殿■
(13th June 2008)



■摂社下の宮■
(13th June 2008)



 祭神は天富命(天太玉命の孫神)と天忍日命(天太玉命の兄弟神)。


■末社厳島社■
(13th June 2008)


 古代の磐座跡と言う説もある。

■神木■
(13th June 2008)



((コメント))

2008年6月13日

 御神気とかいうものとはあまり感じなかった。安房の海の神社の雰囲気は畿内で感じるものとは大きく違う感じであるが、共通しているものを感じる。ただ、それは、神といわれるものの重さではないように思う。

 何というか、まったくすごいとは思わない、というのが正直な気持ち。

皇大神宮別宮瀧原宮および瀧原竝宮

2010年03月06日 16時13分58秒 | 近畿(三重、和歌山)
■参道の神木群■
(13th October 2008)



★皇大神宮別宮瀧原宮および瀧原竝宮★ 三重県度会郡大紀町滝原872

・皇大神宮別宮。

・延喜式内社、伊勢國度會郡、瀧原宮、大、月次新嘗。

・祭神は瀧原宮、瀧原竝宮ともに天照坐皇大御神。

・「倭姫命世記」では、水戸神速秋津日子と速秋津比賣としている。

・神体を入れる御船代を納める御船倉を持つ唯一の別宮。

・神宮は、「倭姫命世記」の説をとり、人皇第十一代垂仁の皇女倭姫命が、宮川下流の磯宮より天照坐皇大御神を祀る地を探し、上流にさかのぼった折、宮川の支流大内山川の流域に「大河の瀧原の国」という美しい場所があったので新宮を建てた。しかし、その後すぐ、神意により現在の内宮のある地に五十鈴宮を建てたため、天照坐皇大御神御魂を祀る別宮になったとし、元伊勢の一つに数えているが、あくまで伝説であり、創祀の由緒は不明。

・志摩國の伊雑宮と並んで、「天照大神の遙宮」と呼ばれる。

・創建当初は瀧原竝宮は瀧原宮に含まれ九世紀から十世紀にかけて独立したと考えられている。

・園田守夏という方は、志摩の南部にいた神戸の民が移って来、大神宮を遙祭した地であろうと言っている。


■鳥居■
(13th October 2008)



■参道■
(13th October 2008)




■手水■
(13th October 2008)



■参道の神木群■
(13th October 2008)



■皇大神宮別宮瀧原宮■
(13th October 2008)



■皇大神宮別宮瀧原竝宮■
(13th October 2008)



■瀧原宮所管若宮神社■
(13th October 2008)


 若宮神を祀るという。創建由緒等不詳。


■瀧原宮所管長由介神社および川島神社(同座)■
(13th October 2008)


 長由介神と川島神を祀る。創建由緒等不詳。長由介神は御饌の神とされることから豊受大神の御霊あるいは分霊とする説がある。


((コメント))

2008年10月13日

 通りすがりであったために、立ち寄ってみたところ。皇大神宮こと伊勢神宮内宮別宮である。参道の大きな杉はなかなかのものではあるが、境内を通して、個人的には心地いい空気ではなかった。

 だが、神気はあり、人によれば、荘厳というべき気を持っていたことは理解できるが、私の肌には合わぬようである。どこかに、伊勢全体(三重県北部というべきか)に通じる独特な気がある。