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相模國一之宮寒川神社

2010年03月06日 16時53分48秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■拝殿■
(11th June 2008)



★相模國一之宮寒川神社★ 神奈川県高座郡寒川町宮山3916

・延喜式内社、相模國高座郡、寒川神社、名神大。

・旧社格は國幣中社。

・祭神は寒川大明神(寒川比古命、寒川比女命)。『新編相模國風土記稿』によると「社殿に祭神は應神天皇なり」という記載があり、『延喜式神名帳比保古』もその説をとる。『一宮記』『諸國一宮神名帳』などは八幡大神、八幡大菩薩とし、『舊神祀紀』は素盞嗚尊、稲田媛命説、など、諸説ある。應神天皇の可能性が強いように思う。

・例祭日 九月二十日、前日祭 九月十九日 流鏑馬神事

・創建年代不詳。

・日本総国風土記によれば、約千五百年前雄略天皇の御代にて記録が残り、崇敬篤く著名の大社であった事が知られる。

・桓武天皇の延暦七年(788)を始めとして、歴代奉幣のことがあり、また仁明天皇の承和十三年(846)以来、数次に亘り神階を奉授せられた。

・源頼朝、後北条氏、武田信玄の信仰も厚く、寄進等を受けた。

・室町末期ごろのものと推定される当社の所蔵文書「相州一宮引着事」に「社領東石川、南荒海、西相模河、北間澤橋切也」とあり、その頃まで当社南方に相模湾が入り込んでいたことが想像され、地名にも柳島、中島などが残っている。

・鎮座地は、古くは相模川河口を扼する位置に当たっていたと思われ、当社は氾濫を繰り返す相模川を鎮めるとともに、相模國中心部へ通う舟人たちの守護をする神であったと考えられる。

・社殿裏手の森の中にかつては豊かな湧水があったといい、「サムカワ」の「サム」を「神聖な」の意として、その湧水を社名の由来とする説がある。

・社地南東一キロの位置に應神塚古墳という前方後円墳が現存するのだが、盗掘の跡はないにも関わらず、築造年代および原規模が詳らかでない。発掘調査の折、漢鏡その他わずかな遺物が出土したのみで、人を埋葬したと思しき主体部は検出されなかったというが、近くの陪塚を発掘したところ、石棺が存在し、頭蓋骨と数本の歯とともに長刀、玉類など豊富な遺物が発見されたというが、寒川神社には應神塚古墳は祭神の奥津城とする伝承が残る。


■神橋と鳥居■
(11th June 2008)



■参道■
(11th June 2008)



■手水舎■
(11th June 2008)



■楼門■
(11th June 2008)



((コメント))

2008年6月11日

 地図では、割と街の中かなと思ったが、割と田舎で古い町であった。神社の気は、なんとなく擦り切れて磨耗した感じでイマイチの一言に尽きる。


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