日本国内の各所で最大2hPaも気圧が上昇するという変化まで観測されたほどだったようです。
港に繋留されていた漁船が津波の影響で転覆する被害も出ました。私の実家のある茨城県でも、大洗漁港で60cmの津波を観測したようです。
当時のマリインスキー劇場の支配人だったイワン・フォセヴォロシスキーはチャイコフスキーに、シャルル・ペローの昔話『眠れる森の美女』に基づくバレエ音楽の作曲を依頼する手紙を書きました。かつては外交官としてパリに駐在していたこともあり、フランス文化を愛好する文化的見識が深い人物だったフォセヴォロシスキーにとって、当時フランスで最も人気の高い演目として上演されていた『眠れる森の美女』は、自身が支配人を務める劇場で是非とも採り上げたかった魅力的な題材だったのでしょう。
当時のロシアでは、1881年に起きた皇帝暗殺事件以降、ロシア皇帝による専制政治がが強化されていました。そのような情勢の中でフォセヴォロジスキーは原作者シャルル・ペローが生きたルイ14世時代のフランスと当代のロシアを重ね合わせることによって、皇帝を賛美するための豪華絢爛なバレエを上演しようとしたとも言われています。
バレエの振付は、マリインスキー劇場の首席バレエマスターだったマリウス・プティパが担当することになりました。作曲は1888年の秋から開始され、途中に何度か中断を挟みながらも翌1889年の夏には全曲が完成し、1890年のこの日に初演の運びとなりました。
全3幕の歌劇《トスカ》の初演は1900年の1月14日、ローマのコンスタンツィ劇場で行われました。
プッチーニは《ラ・ボエーム》の作曲を終えた後の1896年から《トスカ》の作曲に取り掛かりました。そして3年にわたる困難な作業の末、1899年の10月に作品が完成し、ローマ市内に実在する場所を舞台にした作品のため、ローマ市内のコスタンツィ劇場で初演が行われることに決まりました。
当日はイタリア王妃マルゲリータに加え、《カヴァレリア・ルスティカーナ》の作曲者ピエトロ・マスカーニや《アンドレア・シェニエ》の作曲者フランチェスコ・チレアなど多数の作曲家が聴衆に加わったといいます。《トスカ》の初演は批評家からの評価は芳しくなかったものの聴衆からは熱狂的に受け入れられ、完全な成功を収めました。
《トスカ》と言えば、何をおいてもマリア・カラスを想い起こす方もあるかと思います。特に
幼い頃から音楽の才能を現したペルゴレージは1731年にナポリ音楽院を卒業し、翌1732年にオペラ・ブッファ《妹に恋した兄》を初演して最初の成功を収めました。1733年にはサン・バルトロメオ劇場でオペラ《誇り高き囚人》を初演しましたが、残念ながらこちらは失敗に終わりました。
それにもかかわらず、この《誇り高き囚人》の幕間劇として作曲されたインテルメッツォ《奥様女中》が歴史的な大成功を収め、オペラの歴史に大きな変革をもたらしました。この《奥様女中》をめぐっては賛否が大きく別れたことによって『ブッフォン闘争』とよばれる白熱した議論が展開され、ひどい時には意見の対立から決闘沙汰まで起きたといいます。
1735年、オペラ《オリンピアーデ》をローマで初演したものの失敗してナポリへ戻ったペルゴレージはこの頃から結核のため体調を悪化させ、オペラよりも宗教音楽の作曲に取り組むようになりました。1736年にはナポリ近郊の聖フランチェスコ修道院に療養に移り、そこで知己を得たナポリ在住貴族の集まり「悲しみの聖母騎士団」から委嘱された《スターバト・マーテル(悲しみの聖母)》を余力を振り絞って書き上げましたが、まもなく26歳で夭折してしまいました。
ペルゴレージの評価は彼の死後どんどん高まっていき、様々な作品が新たに世に送り出されました。しかし実はその多くがペルゴレージの名を騙った偽作で、20世紀に入って全集を編纂するにあたって精査したところ、かつてペルゴレージ作といわれていたものの殆どが残らなかったといいます(汗)。
ペルゴレージ作品で有名なものは、先程も書いたインテルメッツォ《奥様女中》と《スターバト・マーテル》でしょう。ただ、どちらも演奏時間が40分以上かかる作品なので、今日は《スターバト・マーテル》と同時期に書かれたといわれる《サルヴェ・レジーナ(元后憐れみの聖母)》という作品をご紹介しようと思います。
この《サルヴェ・レジーナ》は《スターバト・マーテル》ほど有名ではありませんが、ほぼ同時期に書かれたこともあって《スターバト・マーテル》の兄弟的な存在となっている作品です。甘美で流麗なメロディや切々と歌われる下降半音階に寄り添う和声は、人気オペラ作曲家ペルゴレージの面目躍如たるものがあります。
そんなわけで、今日はペルゴレージの《サルヴェ・レジーナ》の演奏動画を転載してみました。26歳の青年作曲家が遺した渾身の祈りの音楽を、じっくりと御堪能ください。