共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

天正遣欧少年使節団 伊東マンショの肖像画

2016年07月04日 23時05分32秒 | 日記

今日は小田原の教室の日なのですが、昨日書けなかったことがどうしても書きたくなったので、急遽その事について記事を書くことにしました。

昨日行った東京国立博物館の本館の一室に、これらの絵が展示されていました。上の肖像画に描かれている男性、実は日本史の教科書にも出てくる天正遣欧少年使節団の伊東マンショなのです。

天正10(1582)年、当時のローマ教皇とスペイン・ポルトガル両国王に日本での宣教の経済的・精神的援助を依頼し、また日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体感させ、帰国後に布教に役立てたいというイエズス会神父アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案により、ローマカトリックの総本山であるヴァチカンに向けて、伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルティノ・中浦ジュリアンの4人の少年が派遣されました。

彼等は時のスペイン国王フェリペ2世やトスカーナ大公フランチェスコ・デ・メディチと謁見しながらローマを目指し、ローマ法皇グレゴリオ13世に謁見、ローマ市民の権利まで与えられました。その後、ヴェネツィア・ヴェローナ・ミラノ等の諸都市を巡った後リスボンから帰路についたものの、日本は豊臣秀吉がバテレン追放令を発布いていた最中だったため3年間マカオに足留めを余儀なくされてしまい、彼等が無事に日本の土を踏んだのは天正18(1590)年のことでした。

翌年、彼等は京都・聚楽第において秀吉と対面し、秀吉の前でヴィオラ・ダ・ガンバでジョスカン・デプレの作品を演奏したという記録が残っています(これが、日本人による初の西洋音楽の演奏及び鑑賞記録と言われています)。また彼等はグーテンベルク式活版印刷機も持ち帰っていて、これで日本語書物の活版印刷が初めて行われました(当時はこの印刷物をキリシタン版と呼んでいました)。

秀吉は彼等をいたく気に入り、特にマンショには士官を強く勧めたようですが、司祭になることを決めていたマンショはこれを断って天草で勉学を積み、千々石ミゲル以外の2人と共に司祭に叙階されました。その後、マンショは小倉・中津・長崎と拠点を移して司祭を務めましたが、慶長17(1612)年に病死しました。

この伊東マンショの肖像画は、彼等がヴェネツィアを訪れた時にヴェネツィア元老院が4人の肖像画を描かせたと記録のあるもののひとつということで、個人が所蔵していたものが2009年に発見されてニュースにもなりました。

しかもこの肖像画の当時の元老院からの発注先が、ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠ヤコポ・ティントレットだというから驚きです。実際に仕上げたのは息子のドメニコ・ティントレットということですが、それでもビッグネームには違いありません。今回、日伊国交樹立150年を記念して、所蔵先のミラノ・トリヴルツィオ財団から特別に貸し出されたものということで、多くの人が観賞に来ていました。

同じ部屋には、当時のイタリア人神父が持ち込んで、その後長崎奉行所が所蔵していた聖母像《親指のマリア》(下の絵)等も展示されています。

7月10日までの期間限定展示ですので、興味のある方は是非足を運んでみて下さい。
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