木曜日に渋谷のタワーレコードで買ってきたCDです。ベートーヴェンの交響曲全集、オケはスイス・ロマンド管弦楽団、指揮は巨匠エルネスト・アンセルメです。アンセルメ没後40年を記念して発売されていて、一旦生産中止になったものが再発売されていたのを見つけました。1960年前後の演奏は今時のものよりも重厚で、非常に落ち着いています。
私は幼少期、よく祖父の家に週末毎に遊びに行っていました。そうすると祖父が私を『電蓄』の前に座らせて、クラシックのレコードをかけて聞かせてくれました。その時にかけていたLPがこういう時代の演奏のものでした。
私はアンセルメの指揮するベートーヴェンの交響曲第6番《田園》が大好きでした。特に独特の『空気感』が好きでした。聞いていると、行ったこともないドイツの田舎の風景が目の前にフワ~っと浮かんでくるようでした。澄み切った田舎の空気、小川のせせらぎ、鳥の声、収穫の祭、突然の雷雨、嵐の後の湿った空気の中に照り輝く眩しい夕日、夕べの祈りの鐘の音が鳴り響く黄昏…針音の向こうから聞こえる《田園》はまるで絵を見るようで、とても幸せになれたものです。
それから世々経てCDの時代になり、いろいろなアナログの名盤がCD化される中このアンセルメ盤はなかなかCD化されず、半ば諦めつつそれでも聞きたくてしかたない私は、祖父から譲り受けた擦り切れ寸前のLP盤を大事に聞くしかなかったのです。それが、この前たまたま全曲盤のかたちで店頭に並んでいたのを見て、矢も盾もたまらず買ってきました。
ただ、そうは言っても不安はありました。「買ったはいいけど、私の知っているのと違うアンセルメだったら…」そして恐る恐るかけてみたら…とめどなく涙が溢れ出したのでありました。針音がしないのは不思議な感じでしたが、やっぱり私にとってアンセルメの《田園》は最高です。
最近プロ・アマを問わず、オーケストラの演奏会で《田園》を取り上げることが少なくなってきたように思います。その要因に「さしたる盛り上がりもなくて退屈」「《運命》みたいに『バンッ!』って終わる曲のほうが弾いてて楽しいし、客も呼びやすい」などと言う人達がいます。何とも残念なことです。
私の知り合いの音楽愛好家さんが「人間全体が昔に比べてせせこましくなってきたから仕方ねぇんだよな」と言っていたことを思い出します。確かに、かつてアンセルメやエーリヒ・クライバー等の巨匠の時代には、演奏旅行をするためには船旅しかなかった時代です。新幹線やジャンボジェットで分刻みで世界中を飛び回れるような時代には、こういう感性は受け入れられにくいのかも知れません。事実それゆえに、一時期はアンセルメの録音には20世紀末の評論家達から『凡演』というレッテルが貼られてしまった不遇の時代が長く続きました。
それから十数年、価値観が多様化してくる中で、こういう素朴で奇をてらわない演奏に再び目が向けられるようになってきたのは、ある意味喜ばしいことではあります。しかし、田舎の里山でザリガニを釣ったりトンボを追いかけたりしたことのない子達が大人になって《田園》を演奏するようなことがあった時、彼等にこの『空気感』を表現することはできるのでしょうか…。
私は幼少期、よく祖父の家に週末毎に遊びに行っていました。そうすると祖父が私を『電蓄』の前に座らせて、クラシックのレコードをかけて聞かせてくれました。その時にかけていたLPがこういう時代の演奏のものでした。
私はアンセルメの指揮するベートーヴェンの交響曲第6番《田園》が大好きでした。特に独特の『空気感』が好きでした。聞いていると、行ったこともないドイツの田舎の風景が目の前にフワ~っと浮かんでくるようでした。澄み切った田舎の空気、小川のせせらぎ、鳥の声、収穫の祭、突然の雷雨、嵐の後の湿った空気の中に照り輝く眩しい夕日、夕べの祈りの鐘の音が鳴り響く黄昏…針音の向こうから聞こえる《田園》はまるで絵を見るようで、とても幸せになれたものです。
それから世々経てCDの時代になり、いろいろなアナログの名盤がCD化される中このアンセルメ盤はなかなかCD化されず、半ば諦めつつそれでも聞きたくてしかたない私は、祖父から譲り受けた擦り切れ寸前のLP盤を大事に聞くしかなかったのです。それが、この前たまたま全曲盤のかたちで店頭に並んでいたのを見て、矢も盾もたまらず買ってきました。
ただ、そうは言っても不安はありました。「買ったはいいけど、私の知っているのと違うアンセルメだったら…」そして恐る恐るかけてみたら…とめどなく涙が溢れ出したのでありました。針音がしないのは不思議な感じでしたが、やっぱり私にとってアンセルメの《田園》は最高です。
最近プロ・アマを問わず、オーケストラの演奏会で《田園》を取り上げることが少なくなってきたように思います。その要因に「さしたる盛り上がりもなくて退屈」「《運命》みたいに『バンッ!』って終わる曲のほうが弾いてて楽しいし、客も呼びやすい」などと言う人達がいます。何とも残念なことです。
私の知り合いの音楽愛好家さんが「人間全体が昔に比べてせせこましくなってきたから仕方ねぇんだよな」と言っていたことを思い出します。確かに、かつてアンセルメやエーリヒ・クライバー等の巨匠の時代には、演奏旅行をするためには船旅しかなかった時代です。新幹線やジャンボジェットで分刻みで世界中を飛び回れるような時代には、こういう感性は受け入れられにくいのかも知れません。事実それゆえに、一時期はアンセルメの録音には20世紀末の評論家達から『凡演』というレッテルが貼られてしまった不遇の時代が長く続きました。
それから十数年、価値観が多様化してくる中で、こういう素朴で奇をてらわない演奏に再び目が向けられるようになってきたのは、ある意味喜ばしいことではあります。しかし、田舎の里山でザリガニを釣ったりトンボを追いかけたりしたことのない子達が大人になって《田園》を演奏するようなことがあった時、彼等にこの『空気感』を表現することはできるのでしょうか…。







