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共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

若き日の美しい祈りの音楽〜シューベルト《ミサ曲第2番 ト長調 D167》

2025年04月13日 16時50分16秒 | 音楽
今日は朝から冷たい雨の降る、生憎の天気の日曜日となりました。そんな中、今日は自宅でひたすら練習していました。

実は来月に合唱団との本番があり、先日その演奏会の楽譜が送られてきたのですが、その中にあるのが、



フランツ・シューベルト(1797〜1828)の《ミサ曲第2番 ト長調 D167》です。最近の本番はかつて演奏したことのある曲がほとんどだったのですが、今回は久しぶりにお初の音楽です。

《ミサ曲第2番 ト長調 D167》は、シューベルトが18歳だった1815年の3月はじめに作曲したミサ曲です。1週間もかからないスピードで書き上げられたこのミサ曲は、3曲の小ミサ曲やミサ・ブレヴィスのうち最も広く知られている作品でもあります。

この前年の1814年にはシューベルトの教区教会で《ミサ曲第1番 ヘ長調 D105》が披露されて、大成功を収めていました。その時に、オーストリア宮廷作曲家でありシューベルトの師でもあったアントニオ・サリエリ(1750〜1825)はシューベルトを抱擁して

「君は私にもっと多くの名誉をもたらしてくれるだろう」

と言ったのだそうです。

そして、翌1815年の3月2日から7日にかけて《ミサ曲第2番ト長調 D167》が書かれました。恐らくはこれもシューベルトの一家が通うリヒテンタールの教区教会での演奏を念頭に置いての作曲だったと思われています。

しかし、楽譜はシューベルトの死後数年経った1845年まで出版されず、信じ難いことですが、その時まで作曲者の知られない楽曲のひとつでした。あまりに無名なため、初版はプラハの聖ヴィート大聖堂で音楽監督を務めたロベルト・フューラーという人物が自作と偽って発表していたほどでしたが、時とともに真の作曲者がシューベルトであることが明らかにされ、現在でもシューベルトの宗教音楽の中で人気を博しています。

《ミサ曲第2番ト長調 D167》はミサ・ブレヴィス(略式ミサ)のスタイルで書かれたシンプルな編成の音楽ですが、そこは歌曲王シューベルトのミサ曲らしく、親しみやすく美しい旋律が随所にちりばめられています。ソプラノのためのパッセージ群を別にすると差し挟まれる独唱は控えめで、シューベルトの性格として祈祷的な雰囲気に満ちたミサ曲です。

《ミサ曲第2番ト長調 D167》は元来ソプラノ、テノール、バス独唱と合唱、弦楽合奏とオルガンのみを必要とする、小規模な編成の作品でした。しかし、1980年代にシューベルトの総譜よりも新しい日付の記されたパート譜がまとまって発見され、作品の最終的な構想がトランペットとティンパニのパートを加えて全体に細かい修正を施された、より大きな規模のものだったことが明らかとなりました。

これを受けて、管打楽器を加えた増強版の総譜が出版されました。またこれとは別に、シューベルトの兄のフェルディナントが作品の人気に応える形で木管楽器、金管楽器とティンパニのパートを書い加えている版も存在しています。

そんなわけで、今日はシューベルトの《ミサ曲第2番ト長調 D167》をお聴きいただきたいと思います。今回は管打楽器を伴わないシンプルな弦楽合奏版の演奏で、美しいシューベルトの祈りの音楽をご堪能ください。


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今日はニーノ・ロータの祥月命日〜《フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロ、ハープのための五重奏曲》

2025年04月10日 17時17分17秒 | 音楽
昨日と比べると少し涼しいものの、今日もいいお天気となりました。私は今日は出勤日ではなかったのですが、今日から小学校では給食がスタートしているはずなので、もしかしたらその時にも一悶着あったかも知れません。

ところで、今日4月10日はニーノ・ロータの祥月命日です。



ニーノ・ロータ(1911〜1979)はイタリアの作曲家で、クラシック音楽と映画音楽で活躍しました。本人は

「本業はあくまでクラシックの作曲であり、映画音楽は趣味にすぎない。」

と言っていたようですが、なんと言っても映画音楽の分野で多大な業績を挙げていて、死後クラシックの作品も注目を浴びるようになりました。

北イタリアのミラノで生まれたニーノ・ロータは、11歳でオラトリオ、13歳でオペラを作曲し、ミラノ音楽院、サンタ・チェチーリア音楽院で学びました。その後米国に渡ってカーティス音楽学校に学び、帰国後ミラノ大学に入学して文学と哲学を並行して専攻しました。

大学卒業後は音楽教師となり、その傍らクラシック音楽の作曲家として活動を開始したニーノ・ロータは、1942年以降、映画音楽の作曲も始めました。1951年、



当時新進映画監督として注目を集めたフェデリコ・フェリーニ(1920〜1993)と出会い、その後自身が亡くなるまで、フェリーニの映画音楽を数多く手がけることになりました。

フェリーニ監督以外の映画音楽も多数手がけ、1968年にはフランコ・ゼフィレッリ(1923〜2019)監督の『ロミオとジュリエット』の音楽を担当しました。更にフランシス・フォード・コッポラ(1939〜)監督の『ゴッドファーザー』の音楽はロータの代表作となり、「愛のテーマ」は多くの人々に親しまれました。

ニーノ・ロータは1975年と1976年の2回来日しており、1976年の来日時には、国内11か所で自作を取り上げたコンサートを開催し、自ら指揮棒も振りました。その後1979年の4月10日に、心臓発作によりローマで死去しました(享年67)。

ニーノ・ロータといえば『太陽がいっぱい』『ロミオとジュリエット』『ゴッドファーザー』といった映画音楽が圧倒的に有名ですが、前にも書いた通り本人はあくまでもクラシック音楽の作曲家だという認識が強く、3つの交響曲や

オペラ『フィレンツェの麦わら帽子』(1946年)

木管五重奏のための『小さな音楽の贈り物』(1943年)

オーボエとピアノのための『エレジー』(1955年)

弦楽のための協奏曲(1964年 - 1965年)

トロンボーン協奏曲 ハ長調(1966年)

ファゴット協奏曲(1977年)

といった様々な作品を遺しました。また、あまり有名ではありませんがヴィオラ・ソナタを2曲書いていて、ヴィオラ奏者の貴重な近代音楽レパートリーとなっています。

そんなニーノ・ロータの祥月命日である今日は《フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロ、ハープのための五重奏曲》をご紹介しようと思います。

この曲は1935年にされた作品で、3つの楽章からなっています。特に第2楽章の美しいメロディは、『ロミオとジュリエット』の名旋律を彷彿とさせるような美しさに満ち溢れています。

そんなわけで、今日はニーノ・ロータの《フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロ、ハープのための五重奏曲》をお聴きいただきたいと思います。映画音楽に多大な功績を残したニーノ・ロータの、クラシック音楽作曲家としての一面を御覧になってみてください。


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今日はカラヤンの誕生日〜1966年来日公演でのベートーヴェン・序曲《コリオラン》

2025年04月05日 17時17分17秒 | 音楽
ここ数日の雨模様から一転して、今日は気持ちのいいお天気に恵まれました。なので溜まっていた洗濯物を一気に片づけて、新年度に備えることができました。

ところで、今日4月5日はカラヤンの誕生日です。



ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908〜1989)は、オーストリア=ハンガリー帝国、ザルツブルク公国ザルツブルク生まれの指揮者、音楽家です。

カラヤンは1955年から1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至りました。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、『楽壇の帝王』と称されていました。

その独自の音楽性と自己演出は『魔術師カラヤン』『カラヤン美学』などと謳われ、時代の寵児にもなっていました。更にカラヤンは史上最多の録音を残し、そのアルバムの総売上枚数は1億枚を超えています。

カラヤンの指揮スタイルは、精緻でありながらも情熱的で、オーケストラから豊かな音色を引き出すことで知られています。特に、ベートーヴェン、ブラームス、ヴァーグナー、ブルックナーなどのドイツ・オーストリア系の作曲家の作品で高い評価を得ています。

カラヤンの影響は録音技術の発展にも及び、彼の録音は音質の向上に大きく貢献し、CDの収録時間を決定する際にも影響を与えたといわれています。また、東京・赤坂アークヒルズのサントリーホールの建設にも関与し、



初代館長であるサントリーの佐治敬三氏にアドバイスしたことでサントリーホールは



ベルリンのフィルハーモニーホールのように客席が舞台をぐるりと取り囲む日本初のワインヤード型ホールとなり、その功績を称えて



ホール前の広場は『カラヤン広場』と名付けられています 。

カラヤンは、他の指揮者と比べていくつかの特徴的な違いがあります。以下にいくつかのポイントを挙げてみます。

①音響の美しさの追求

カラヤンは、音響の美しさを徹底的に追求しました。カラヤンの演奏はレガート(滑らかに音楽を紡ぐ手法)を多用し、ゴージャスで豊かな響きを強調することが特徴です 。特にベートーヴェンの交響曲全集は3回も録音し、その都度音響の美しさを追求しました。

②視覚的な指揮

カラヤンは、指揮の姿勢や動作にも非常にこだわりがありました。カラヤンの指揮は「魅せる」ことを意識していて、左手の使い方や、肩から両腕を大きく振り上げる動作などが特徴的です 。

この視覚的な要素は、他の指揮者にはあまり見られないものです。そうしたこだわりは、カラヤンが編集した演奏動画やオペラ映画で観ることができます。

③録音技術の革新

カラヤンは、録音技術の発展にも大きく貢献しました。カラヤンの録音は音質の向上に大きく寄与し、CDの収録時間を決定する際にも影響を与えたといわれています 。

現在のCDの収録時間は概ね74〜75分ですが、これはカラヤンが

「ベートーヴェンの第九を一枚で聴けるようにしろ。」

と言ったからだといわれています。ただ、この逸話には諸説あるようです。

④レパートリーの広さ

カラヤンは、ベートーヴェン、ブラームス、ヴァーグナー、ブルックナーなどのドイツ・オーストリア系の作曲家だけでなく、フランスやロシアの作曲家の作品も幅広く手掛けました。この広いレパートリーもカラヤンの特徴の一つですが、一方で同じドイツ・オーストリア系でもハイドンやモーツァルトなどの演奏については「ねちっこい」と評されることもあります。

⑤カリスマ性と影響力

カラヤンは、そのカリスマ性と影響力で『楽壇の帝王』と呼ばれ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を世界的なオーケストラに育て上げました。一方で、それまで男性のみで構成されていたベルリン・フィルに女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーを強硬に入団させようとしたことで、ベルリン・フィルと軋轢を生んだりもしました。

こうした特徴が、カラヤンを他の指揮者と一線を画す存在にしています。

カラヤンはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者として名を馳せた大指揮者ですが、カラヤンの趣味や特技もまた桁外れでした。カラヤンは



自家用ジェット機やヨットの操縦を趣味としていて、6機もの自家用機を所有し、



自ら操縦してベルリンや別荘へと飛び回っていました 。

また、カラヤンはスピード狂としても知られ、



ポルシェカレラでF1サーキットを走ったり、自家用ヨットでレースに参加したりしていました。周りからしたら、事故でも起こして予定がキャンセルになりはしないかとヒヤヒヤものだったことでしょう。

カラヤンは音楽だけでなく、こうしたライフスタイルでも多くの人々を魅了し続けました。それ故に1989年に他界した時には世界中でニュースになりましたが、個人的には同じ時代に生きてこられたことを誇りに思っています。

そんなわけで、今日はカラヤン指揮によるベートーヴェンの序曲《コリオラン》をお聴きいただきたいと思います。1966年の東京文化会館来日公演によるライブ録画で、画質や音質は悪いものではありますが、壮年期のカラヤンによる華麗な指揮ぶりにご注目ください。


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今日はディニークの誕生日〜ハイフェッツ独奏による《ホラ・スタッカート》

2025年04月03日 15時55分51秒 | 音楽
今日も神奈川県は冷たい雨の降る、生憎の天気となりました。この雨で心配される桜の花の状況ですが、とりあえず今のところ花散らしにはなっていないようです。

ところで、今日4月3日はディニークの誕生日です。

『…誰?』

と思われるかも知れませんが



グリゴラシュ・ディニーク (1889〜1949) は、ルーマニアのヴァイオリニスト、作曲家です。

ディニークはクラシック音楽とポピュラー音楽の両分野で活躍し、



ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツ(1901〜1987)からは

「今まで聴いた中で最高のヴァイオリニスト」

と評されました。また、ロマ(ルーマニア・ジプシー)の権利向上に尽力し、ルーマニア・ジプシー(ロマ)総連合の名誉会長を務めた人物でもあります。

1889年4月3日にブカレストの音楽一家に生まれたディニークは、1902年から1906年までブカレスト音楽院にて学びました。1906年から1908年には公教育省(日本でいう文部省)付属オーケストラのヴァイオリニストを務めたほか、ブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団のソロ・ヴァイオリニストやブカレスト・プロムジカのヴァイオリニストとしても活躍し、1906年から1946年にかけてポピュラー音楽コンサートの監督も務めました。

ディニークはイギリス、フランス、ベルギー、アメリカなどへ演奏旅行を行い、ホテルやレストラン、ナイトクラブやカフェでも演奏していました。ディニークは「芸術音楽」と「大衆音楽」を区別することはせず、自身のリサイタルでは古典派やロマン派の作品とならんでルーマニアの伝統音楽も演奏しました(ディニークの演奏はいくつか録音が残されています)。

また、ディニークは20世紀初頭のルーマニアにおけるロマ(ジプシー)の解放運動の中心人物でもありました。1933年10月8日に開催されたルーマニア・ジプシー総連合の第1回大会では、同連合の名誉会長に任命されました。

そんなディニークの誕生日である今日は、代表作《ホラ・スタッカート》をご紹介しようと思います。タイトルだけだと何のことだか分からない方も多いかと思いますが、少なくとも大人の方ならどこかで耳にしたことのある曲です。

ディニークはルーマニア民謡を採集していて、それらの民謡を用いたヴァイオリンとピアノのための作品を何作か残しました。その中でも特に有名なのは、ブカレスト音楽院を卒業する1906年に作曲した《ホラ・スタッカート》です。

1929年にブカレストのカフェを訪れた際、ディニークによる《ホラ・スタッカート》の演奏を聴いたハイフェッツは16,000ルーマニア・レウ(現在の日本円で約52万円)で曲の権利を買取り、共同製作者というクレジットのもとで編曲版を出版する契約を結びました。ハイフェッツ編曲版は1932年に完成し、以降ハイフェッツのレパートリーとして有名になりました。

ハイフェッツが何度も《ホラ・スタッカート》を演奏したり録音したりした結果、この曲はヴァイオリンのためのアンコール曲として親しまれるようになりました。ハイフェッツの編曲で特筆されるのは、多くは32個ほどの音を一弓でスタッカートで鳴らす『ワン・ボウ・スタッカート』の指定があることで、その指定がアップ(上げ弓)でもダウン(下げ弓)でも出てくるのがヴァイオリン奏者の悩ませどころです。

なお、《ホラ・スタッカート》はヴァイオリン以外の楽器でも演奏されていて、フルート編曲版やサクソフォーン編曲版、チェロ編曲版が存在しています。この曲をチェロで弾いた奏者の一人が



アメリカの名手リン・ハレル(1944〜2020)で、1984年頃の動画を観るとアップでもダウンでもニコニコしながら弾いていて驚かされます。

そんなわけで、今日はディニークの《ホラ・スタッカート》をお聴きいただきたいと思います。ヤッシャ・ハイフェッツによる超絶技巧が光る独奏で、軽妙洒脱なディニークの名曲をお楽しみください。


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今日はラフマニノフの誕生日〜事実上初の交響曲《交響曲第1番ニ短調 作品13》

2025年04月01日 17時17分17秒 | 音楽
今日から4月ですが、今日は昨日より寒くなり、冷たい雨も降り続きました。令和7年度の始まりだというのに、この寒さは身体に堪えます…。

ところで、今日4月1日はラフマニノフの誕生日です。



セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873〜1943)はロシア帝国出身の作曲家・ピアニスト・指揮者です。

セルゲイ・ラフマニノフは1873年4月1日(当時ロシアで使われていたユリウス暦では3月20日)、ロシア帝国のノヴゴロド県セミョノヴォで下級貴族の家に生まれました。ラフマニノフ家は音楽家の素養を持つ家系で、セルゲイの祖父アルカディ・アレクサンドロヴィチや陸軍の将校だった父ヴァシーリイ・アルカジエヴィチはアマチュアのピアニストで、父親はピョートル・ブタコフ将軍の娘リュボーフィ・ペトローヴナと結婚し、その際に妻の持参した5つの地所を手に入れていました。

ヴァーシリイ夫妻は3男3女を儲け、セルゲイはその第3子でした。父親は音楽の素養のある人物でしたが妻から受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたといいます。

1877年、セルゲイが4歳になった後、一家はセミョノヴォから180km離れた豊かな自然に恵まれたオネグの地所に移り住み、セルゲイは9歳まで同地で過ごしました。セルゲイは4歳のとき母からピアノのレッスンを受け始め、彼女が弾いたパッセージを1度聴いただけで完璧に再現する息子を見て、母が彼の音楽の才能に気づいたとされていますが、姉たちの家庭教師をしていたドゥフェール夫人がセルゲイに宛てた1934年の手紙によると、ドゥフェール夫人が歌唱する際に母親の伴奏を聴いて暗譜したセルゲイが後日夫人の前で演奏を披露し、それを彼女が両親に報告した…とあります。

この話を聞いた祖父アルカディに説得された父ヴァシーリィは息子のためペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナツカヤを招き、セルゲイはラフマニノフ家に住み込んだ彼女からレッスンを受けることとなりました。後にセルゲイ自身、

「彼女が最初の音楽の先生だった」

と語っていて、歌曲《12のロマンス 作品14》の第11曲『春の水』をオルナツカヤに捧げています。

そんなセルゲイ・ラフマニノフの誕生日である今日は、《交響曲第1番ニ短調 作品13》をご紹介しようと思います。ラフマニノフは1891年に『ユース・シンフォニー』と通称される単一楽章の《交響曲 ニ短調》を作曲していますが第1楽章だけであとは未完のため、完成した交響曲としては事実上この作品が初めてのものとなります。

ラフマニノフは、20歳の1892年にモスクワ音楽院を首席で卒業すると、有名な《前奏曲嬰ハ短調 作品3-2》を作曲して熱狂的な人気を獲得しました。1895年になると交響曲の作曲に取り掛かり、約8か月で《交響曲第1番ニ短調 作品13》を完成させました。

交響曲は1897年3月15日にペテルブルクで初演されましたが、この初演は記録的な大失敗に終わってしまいました。失敗の原因は作曲家でもあるアレクサンドル・グラズノフ(1865〜1936)の指揮に問題があったともいわれていますが、『ロシア五人組』の一人であった作曲家ツェーザリ・キュイ(1835〜1918)に酷評されるなど散々なもので、ラフマニノフはその後約3年もの間作曲活動がままならないまでに大きな精神的ダメージを受けてしまいました。

初演の失敗もあり、《交響曲第1番》はラフマニノフによって出版が禁じられていたため、次第に忘れられていきました。しかし、ラフマニノフの死後の1945年に初演時のパート譜が発見されると同年10月17日にモスクワで復活初演され、1947年にはソヴィエト国立音楽研究所(当時)によって楽譜が出版されて世界的に知られることとなりました。

この《交響曲第1番》は、曲の冒頭に提示されるモチーフが全楽章を貫いていて、名曲の誉れ高い《ピアノ協奏曲第2番ハ短調》や《交響曲第2番ホ短調》などのように甘い旋律を歌い上げるというよりかは、リズムや対位法に重点が置かれている作品です。最後の第4楽章は多くの打楽器を伴う華やかなニ長調の曲ではありますが、変ロ音や変ホ音という♭の音を多用することでニ短調の第1楽章を想起させて全体に統一感を与えていて、最後には重々しく結ばれます。

そんなわけで、今日はラフマニノフの事実上の初めての交響曲である《交響曲第1番ニ短調 作品13》をお聴きいただきたいと思います。ミハイル・プレトニョフ指揮によるロシア・ナショナル管弦楽団の演奏で、有名な第2番に先駆けるラフマニノフ初の交響曲をお楽しみください。


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優しい世界観の絵本『いいよ』〜TOT WORKS《いいよ》MV

2025年03月29日 15時55分51秒 | 音楽
昨日までの暑さは何だったのかと思うくらい、今日は凄まじく寒くなりました。今日の最高気温は日付が変わった頃に出ていたらしく、日中にかけてどんどん気温が下がって真冬のような寒さとなりました。

ところで、先日我が家に届いたものがあります。それが



『いいよ』というタイトルの絵本です。

これは『TOT WORKS(トットワークス)』の名前で活躍されている厚木市在住のシンガソングライター上野友輝さん作詞作曲の『いいよ』という楽曲の歌詞を元に、政木アニーさんという画家が挿絵を描いた絵本です。『いいよ』という歌は

〽もう、笑わなくってもいいよ
 泣かなくってもいいよ
 怒らなくてもいいよ
 喜ばなくてもいいよ…

という、プラスの感情からマイナスの感情まで全てを肯定してくれる楽曲で、ライブの度に感涙にむせぶ人がいる素敵な作品です。

この絵本を制作するにあたってクラウドファンディングが開かれ、私も些少ながら参加させていただきました。そのクラウドファンディングの返礼品として、この絵本と



政木アニーさんの素敵な絵のポストカードが送られてきました。

自分の好きな楽曲がこうした形でも残るということは、作品の新たな可能性を広げる素晴らしいことだと思います。言葉も絵も優しい絵本なので、できればもっと普及してほしいと思っています。

そんなわけで、今日はこの絵本の元となったTOT WORKSこと上野友輝さんの楽曲『いいよ』をお聴きいただきたいと思います。昨年制作されたオリジナルミュージックビデオで、どこまでも優しい世界観の歌をご堪能ください。

TOT WORKSの活動や配信については、YouTubeの概要欄から確認できます。是非ご参照ください。この素敵な歌が、一人でも多くの人の心に届きますように…。


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今日はムソルグスキーの祥月命日〜晩年の名歌曲《蚤の歌》

2025年03月28日 17時00分17秒 | 音楽
未明から降り続いていた雨は昼前に上がり、陽が差してきました。気温もぐんぐんと上昇し、Tシャツだけでも十分に過ごせる一日となりました。

ところで、今日3月28日はムソルグスキーの祥月命日です。


イリヤ・レーピン『作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像』(トレチャコフ美術館所蔵、1881年)

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(1839〜1881)はロシアの作曲家で、『ロシア五人組』の中の一人です。

『ロシア五人組』とはミリイ・バラキレフを中心とした、19世紀後半のロシアで民族主義的な芸術音楽の創造を志向した作曲家集団のことをいいます。そのメンバーは

ミリイ・バラキレフ(1837〜1910)

ツェーザリ・キュイ(1835〜1918)

アレクサンドル・ボロディン(1833〜1887)

ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844〜1908)

そしてムソルグスキーの五人です。

『五人組』の中でムソルグスキーはプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書きました。国民楽派の作曲家に分類されていて、歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》や管弦楽曲《禿山の一夜》、ピアノ組曲《展覧会の絵》などが知られています。

ムソルグスキーが唯一生前に完成させた歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》は批評家筋の受けが悪く、上演回数は十回程度でしかありませんでしたが聴衆には好評で、これによってムソルグスキーの活動は頂点を極めました。しかしこの頂点からの転落のきざしが次第に明らかとなり、ムソルグスキーは友人のもとから押し流され、アルコール依存症が関係する狂気も見受けられるようになりました。

さらに《展覧会の絵》の元になった友人の画家ヴィクトル・ハルトマン(ロシア語ではガルトマン、1834〜1873)が他界し、肉親や親しい友人たちも結婚などで次々とムソルグスキーの元を去って行きました。翌1874年、ムソルグスキー35歳の時にはピアノのための組曲《展覧会の絵》が作曲されました。

やがて著名人のサークルと交際を始めましたが酒量が抑えられず、身近な人の相次ぐ死はムソルグスキーに深い心痛をもたらしました。そんな中で、ムソルグスキーの最も力強い作品《死の歌と踊り》が作曲されました。

ムソルグスキーの窮乏を知った友人たちは、1880年に歌劇《ホヴァーンシチナ》や《ソロチンスクの定期市》を完成できるように寄付を集めようとしました。《ホヴァーンシチナ》はピアノ・スコアが2曲を除いて完成していて仕上げまでもう少しというところまで達していたのですが、残念ながら完成には至りませんでした。

ムソルグスキーは1881年初頭に、4度の心臓発作に見舞われました。ムソルグスキーが入院させられた状況は絶望的で、今日3月28日に42歳という若さで他界してしまいました。

そんなムソルグスキーの祥月命日である今日は、歌曲《蚤の歌》をご紹介しようと思います。

《蚤の歌》はムソルグスキーが1879年に作曲した歌曲で、正式な題名は《アウエルバッハの酒場でのメフィストフェレスの歌》といいます。元来はアルト歌手を想定して作曲された作品ですが、現在ではもっぱらバス歌手によって歌われています。

ムソルグスキーは1879年8月から11月にかけて、アルト歌手ダリヤ・ミハイロヴナ・レオノワ (1829〜1896)の伴奏者として南ロシアへ演奏旅行を行いましたが、レオノワの歌唱に刺激を受けたムソルグスキーが演奏旅行中、もしくはサンクトペテルブルクに戻ってまもなく《蚤の歌》を作曲しました。初演の正確な日時は不明ですが、1880年4月、5月の演奏会で、レオノワの独唱と作曲者のピアノ伴奏で演奏されたことが記録に残っています。

歌詞は



ある時一人の王様が住んでたとさ、
蚤も一緒に住んでたとさ、
蚤、蚤!

王様は兄弟よりも蚤を可愛がった、
蚤、ハハハ! 蚤? ハハハ! 蚤!

仕立屋を呼びつけ

「よく聞け、間抜けめ!大事な友人のためにビロードのカフタンを作れ!」

(カフタンはアラブ系の民族衣装で、基本の形状は長袖・袷仕立ての長い前開きのガウン。オスマン帝国の隆盛期には毛皮で裏打ちした豪華なものも。)

蚤にカフタン? ヘヘヘ!
蚤に? ヘヘヘ、
カフタン? ハハハ!
蚤にカフタン!

蚤は黄金とビロードの着物を着て、
宮中で全く自由に振舞った
ハハ! ハハハ! 蚤?
ハハハ! ハハハ! 蚤!

王様は蚤を大臣にし、
勲章までくれてやった
仲間の蚤もみんな召し抱えられた! ハハ!

王妃も女官も蚤に手が出せず
生きた心地もない ハハ!

蚤に触れることもできず、
潰すことなどとんでもない!

でも俺たちだったらすぐに潰してやる!
ハハハハハ! ハハハハハ!



という、何ともユーモラスなものです。当初はこの歌詞の歌を女性歌手に歌わせていたのですから、ムソルグスキーのセンスもなかなかです(笑)。

この詞は、ゲーテの『ファウスト』をアレクサンドル・ストルゴフシチコフ(1808〜1878)がロシア語に訳したものが使われてます。ただし、曲の随所に挿入された「ハハハ、ヘヘヘ」というメフィストフェレスの笑い声はムソルグスキーの発案によるもので、訳詞のロシア語のイントネーションを旋律に密接に関連させるなど、小品ながら完成度の高い作品に仕上がっています。

出版は作曲者の死後、リムスキー=コルサコフの校訂によって1883年ベッセル社から行われました。同社からは1914年に、ストラヴィンスキーのオーケストレーションによる管弦楽伴奏版も出版されています。

そんなわけで、今日はムソルグスキーの歌曲《蚤の歌》をお聴きいただきたいと思います。ミハイル・スヴェトロフのバス、パヴリーナ・ドコヴスカのピアノで、ムソルグスキー晩年の名(迷?)歌曲をお楽しみください。


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今日はグローフェの誕生日〜世界遺産を巡る《組曲『グランド・キャニオン』》

2025年03月27日 17時17分17秒 | 音楽
昨日ほどではないにせよ、今日も気温の高い日となりました。厚木市ではまだソメイヨシノは咲いていませんが、連日の暖かさ…というか暑さで、確実に蕾が刺激されていると思われます。

ところで、今日3月27日はグローフェの誕生日です。



ファーディ・グローフェ(1892〜1972)は、アメリカの作曲家、ピアニスト、およびアレンジャーで、本名はファーディナンド・ルドルフ・フォン・グローフェといいます。

父エミール・フォン・グローフェはフランス・ユグノー出身のオペラ歌手で、母エリザ・ヨハンアナ・ビエリチ・グローフェはチェロ奏者で教師、母方の祖父はメトロポリタン歌劇場のチェロ奏者、母方の叔父はロサンゼルス交響楽団のコンサートマスターという音楽一家に育ったグローフェは、母からヴァイオリンとピアノと和声を、祖父からヴィオラ習いました。1899年の父の死後、母に連れられドイツ、ライプツィヒに留学して作曲法、編曲法の基礎を勉強しながらピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、バリトンホルン、アルトホルン、コルネット奏法を学びました。

14歳で家を離れたグローフェは、牛乳配達・トラック運転手・新聞配達・エレベーター係・製本助手・鉄工所助手・バーのピアニストをしながらヴァイオリンとピアノの勉強を続けました。そして15歳でダンスバンドに入ってアルトホルン奏者となり、1909~19年の間ロサンゼルス交響楽団のヴィオラ奏者を務めました。

1917年にジャズバンドマスターで作曲家、ヴァイオリニストでもあったポール・ホワイトマン(1890〜1967)と知り会ったグローフェは、1920年ポール・ホワイトマン楽団のピアニスト・チーフ編曲者として、人気曲やブロードウェイミュージックを楽団用に編曲しました。中でもガーシュウインの《ラプソディ・イン・ブルー》のオーケストラ編曲は、ジャズミュージシャンの間でも高い評価を確立しました。

そんなグローフェの誕生日である今日は、彼の代表作である《組曲『グランド・キャニオン』》をご紹介しようと思います。

言うまでもなくこの組曲は、







現在では世界遺産にもなっているグランド・キャニオンの情景を音楽で表現した作品です。日本では第3曲の「山道を行く」が小学校の音楽の時間の鑑賞教材にもなっているのでそこだけでも聴いたことがあるかも知れませんが、敢えて今回は全曲ご紹介します。

《組曲『グランド・キャニオン』》は1931年にポール・ホワイトマンの勧めで作曲され、シカゴで初演されました。当時からこの組曲は大人気となり、グローフェの代表作となりました。

今でこそグランド・キャニオンは国立公園ですが、実は1919年に指定されるまではあまり人が行くこともない土地だったようです。グローフェは少年時代にグランド・キャニオンに行き、約350km(日本でいえば東京―名古屋間に匹敵する距離)の峡谷の雄大な光景に感動し、いつかこれを音楽にしようと決めたといいます。

《組曲『グランド・キャニオン』》はグローフェの多くの楽曲と同様、非常にわかりやすい描写で構成されています。全体は30分程の曲で、「日の出」「赤い砂漠」「山道を行く」「日没」「豪雨」の5曲からなっています。

「日の出」「日没」はそれぞれ直訳なのですが、「赤い砂漠」「山道を行く」「豪雨」の3つの邦訳副題については少し注意が必要です。この3曲は英語の原題では

“The Painted Desert”
“On The Trail”
“Cloudburst”

となっていて、特に第2曲の「赤い砂漠」については、原題ではどこにも『赤』という色は表されていません。

第1曲「日の出」は、冒頭がこの曲の最高の聴きどころと言っても過言ではないほど「日の出」の表現の美しさが傑出しています。雄大な峡谷に徐々に光が差し始め、小鳥がさえずり、暗闇からグランド・キャニオンの全景が徐々に明らかになる様子を音楽で巧妙に描いていて、正に新しい一日の始まりを告げる音楽となっています。

第2曲「赤い砂漠」では、荒涼たる砂漠の様子を描き出しています。静かで神秘的な乾燥した大地に日差しが強く照りつけ、照らされた砂の大地は様々な色に輝いて、大地のキャンバスを美しく彩っていきます。

第3曲「山道を行く」は峡谷の道(Trail)を下っている様子を描いていて、ラバに乗ってトコトコと下る音が聴こえるこの楽章は、小学校の音楽の教科書でも扱われる最も有名な曲です。旅行者とラバが峡谷の下に流れるコロラド川の流れまでたどり着くと、川の畔の小屋の中から聴こえてくるオルゴールの音楽がチェレスタで奏でられ、そんな音に耳を傾けているうちに気がつくと旅行者とラバの姿は遠くに行ってしまいます。

第4曲「日没」はグランド・キャニオンに日が沈む夕景を表現していて、2本のホルンがオープンとミュートでこだまする演出は素晴らしいものです。優しい旋律が一日の終わりを告げて次第に夜へ近づく様子は見事ですが、徐々に不穏な雰囲気を漂わせながら次の「豪雨」に続きます。

第5曲「豪雨」は、スコールのような突然の嵐のようなにわか雨です。弦楽器とウインドマシーン(風の音を表現する楽器)が徐々に吹き荒れていく風を表現する中、金管楽器とシンバル、ピアノによる雷鳴が鳴り渡り、弦楽器のピチカートによって地面に叩きつける雨粒の音が描写される場面は実に面白いものです。

やがて嵐が過ぎ去ると「山道を行く」で出てきたメロディが金管セクションによって高らかに鳴らされ、さながらハリウッド・ボウルのような華やかなフィナーレとなります。こうした音楽表現は間違いなく、後のハリウッド映画やジョン・ウィリアムズの音楽へと受け継がれていくものとなっています。

そんなわけで、今日はグローフェの《組曲『グランド・キャニオン』》をお聴きいただきたいと思います。作曲家本人の指揮、ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による1960年の録音で、壮大な峡谷を音楽で旅するグローフェの代表作をお楽しみください。


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今日はテレマンの誕生日〜《フルート、オーボエ・ダモーレ、ヴィオラ・ダモーレのための協奏曲 ホ長調》

2025年03月24日 17時00分17秒 | 音楽
昨日の暑さから一転して、今日は曇天模様の一日となりました。日差しがない分気温もあまり上がらず、20℃前後あったものの前日比から肌寒く感じる陽気でした。

ところで、もう何度もやっていますが、今日3月24日はテレマンの誕生日です。



ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)は、後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家で、18世紀前半のドイツにおいて高い人気と名声を誇り、フランスでの人気も高かった人物です。クラシック音楽史上もっとも多くの曲を作った作曲家として知られていて、その記録はギネスブックにも登録されてします。

作曲たけでなく、テレマン自身もヴァイオリン、オルガン、チェンバロ、リコーダー、リュートなど多くの楽器を演奏することができました。特にヴァイオリンとリコーダーについては高い技術を有する名人であったことが、同時代の人々によって語られています。

同時代の作曲家であった



ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685〜1759)とはライプツィヒ大学時代からの友人で、頻繁に手紙のやり取りをしていました。また



ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685〜1750)とも親密な交友関係にあったテレマンはバッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなり、1750年にバッハが死去した時には、バッハの業績を最大限に称える追悼の言葉を送っています。

テレマンの音楽様式には、20歳代~30歳代に触れたフランス・イタリア・ポーランドの民族音楽、特に舞曲からの影響があり、ドイツの様式も含めてそれらを使いこなし、ロココ趣味の作風も示しました。テレマンは86歳と長生きだったため晩年はハイドンの青年時代などと重なっていましたが高齢でも創作意欲が衰えず、トリオソナタの編成で『ディヴェルティメント』と書かれた晩年の作品もあり、常に新しい音楽傾向の先頭に立ち続けていました。

そんなテレマンの誕生日である今日は、《フルート、オーボエ・ダモーレ、ヴィオラ・ダモーレのための協奏曲 ホ長調》をご紹介しようと思います。

この曲に使われるオーボエ・ダモーレは中音域のオーボエで、


(左からオーボエ、オーボエ・ダモーレ、コーラングレ)

オーボエ(左)とコーラングレ(右)の中間の楽器です。オーボエよりも丸みのある音色は何とも愛らしく、バッハやテレマンが好んで使用しました。

ヴィオラ・ダモーレはヴィオル族の弦楽器で、



7本の弦と



7本の共鳴弦をもっています。共鳴弦はアフガニスタンのラバーブやインドのシタールなどにあるものですが、一説にはかつてインドを支配下に治めていたイギリス経由で発祥したものともいわれています。

この曲がどのような機会に作曲されたのかは定かではありませんが、作品全体にテレマンらしい明るい雰囲気が漂っています。さざ波のようなオーケストラのにのってロングトーンのソロが交錯する第1楽章、いかにもギャラントな雰囲気の華やかな第2楽章、メランコリックなシチリアーノのメロディに三連符の装飾音が美しく絡む第3楽章、ロンド形式で各楽器のソロが楽しめる第4楽章と、いずれもテレマンの面目躍如たる音楽が連なります。

そんなわけで、今日はテレマンの《フルート、オーボエ・ダモーレ、ヴィオラ・ダモーレのための協奏曲 ホ長調》をお聴きいただきたいと思います。アンドルー・マンゼ率いるラ・ストラヴァガンツァ・ケルンの演奏で、多作家にして駄作無しのテレマンの協奏曲をお楽しみください。


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映画『ピアノ・レッスン』の名曲《楽しみを希う心》〜今日はマイケル・ナイマンの誕生日!

2025年03月23日 16時30分30秒 | 音楽
今日はいきなり夏日に迫る暑さとなりました。まだ桜も咲いていないのにこんなに暑くなってしまい、桜も人もビックリです。

そんな中、今日は用事があって相模大野まで出かけていました。すると、駅のコンコースに



電子ピアノが置かれていました。

今回は事前予約無しで、並べば誰でも10分前後演奏できるとのことでした。いろいろな人が入れ替わり立ち替わり演奏していたのですが、その中のひとりが



1993年公開の映画『ピアノ・レッスン』の《楽しみを希(こいねが)う心》を演奏していました。

この曲は



イギリスの作曲家マイケル・ナイマン(1944〜)が『ピアノ・レッスン』のために作曲したもので、今ではマイケル・ナイマンの代表作と呼ばれる作品です。

映画『ピアノ・レッスン(邦題)』は、19世紀のニュージーランドを舞台に、言葉を話せずにピアノの音色を言葉代わりにする女性と、原住民マオリ族に同化した一人の男性との激しい愛を描いた恋愛映画です。この映画は第66回アカデミー賞において作品賞を初めとした8部門にノミネートされ、脚本賞、主演女優賞、助演女優賞の3部門で受賞を果たしました。

マイケル・ナイマンによるサウンドトラックは注目を集め、全世界で300万枚以上の売り上げを誇りました。特にメインテーマとも言うべきピアノソロ曲《楽しみを希う心》は印象的で、劇中では主人公エイダ・マクグラス役をつとめたホリー・ハンターが自身で演奏を行っています。

そんなわけで、今日はマイケル・ナイマンの《楽しみを希う心》をお聴きいただきたいと思います。因みに調べてみたところ、今日はマイケル・ナイマンの81歳の誕生日でした、おめでとうございます🎉。


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オール・バッハ・プログラム・コンサート〜カンタータ第51番《全地よ、神に向かいて歓呼せよ》

2025年03月22日 18時18分18秒 | 音楽
今日はオール・バッハ・プログラムのコンサートがあったので、東神奈川にある『かなっくホール』に行きました。こちらのホールでは2011年5月にフルートとピアノと私でリサイタルをしたことがあるのですが、それから実に14年ぶりの来訪となりました。

コンサートの内容は



●ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調

●カンタータ第209番《悲しみの如何なるかを知らず》よりシンフォニアとアリア

●ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調

●カンタータ第51番《全地よ、神に向かいて歓呼せよ》

と、バッハの作品の中でも名曲中の名曲揃いという、素晴らしく贅沢な内容でした。チケットは完売で当日販売は無しということでしたので、事前予約しておいて本当に良かったです。

今回、特に個人的に楽しみにしていたのがカンタータ第51番《全地よ、神に向かいて歓呼せよ》でした。この曲は、バッハのカンタータの中でもとりわけ華やかな作品として知られています。

バッハのカンタータといえば冒頭の合唱に始まり、そこにソリストのレチタティーヴォやアリアがつながってコラールで締めくくられるという定型がありますが、このカンタータ第51番はそうした定型とは全く異なった構成になっています。さらに言えば合唱は一切使わずに最初から最後までソプラノのが全てを歌いきるため、教会カンタータと言うよりは、まるでオーケストラ伴奏付きのソプラノ歌曲のようにも聴こえてきます。

1930年の9月17日にライプツィヒで初演されたこのカンタータは、バッハがライプツィヒ時代に全てをやりきった後に生み出された作品に分類されます。バッハはこのカンタータの自筆の楽譜に

「三位一体節後第15日曜日」

と記したあとに

「及びあらゆる全ての機会に」

と記しているので、ある特定の日曜日だけでなく他の目的で演奏することも想定していたようです。

第1曲は



トランペットをはじめとした全楽器によるハ長調の分散和音的なパッセージで力強く始まり、ソプラノが

「全地よ、神に向かって歓呼せよ。天と地の中にある被造物は、全て神の誉れを讃えよ。」

と歌うアリアが続きます。ここではオーケストラをバックにソプラノ・トランペット・ヴァイオリンソロが三重協奏曲のように有機的に絡み合い、聴く者を魅了します。

第2曲のレチタティーヴォでは

「私たちは神殿に向かって祈ります。神の栄光がそこに宿っています。」

と歌われます。この曲ではともするとトランペットの入る華やかな第1曲と終曲に注目が集まりますが、神への思いを吐露するこのレチタティーヴォも感動的な音楽です。

第3曲は

「至高者よ、あなたの恵みを朝ごとに常に新しくして下さい」

という、深い祈りに満ちたソプラノのアリアが配されています。

続く第4曲では、2台のヴァイオリンソロがオブリガートを奏でる上にソプラノが

「賛美と誉れと栄光が、父なる神と御子と聖霊と共にありますように。」

というコラールを展開していきます。そして、最後にソプラノがフィナーレとして「アレルヤ」を何度も繰り返し、トランペットも加わったフーガで華々しく曲を締めくくります。

そんなわけで、今日はバッハのカンタータ第51番《全地よ、神に向かいて歓呼せよ》をお聴きいただきたいと思います。マリア・ケオハネの独唱によるネザーランド・バッハ・ソサエティの演奏で、一段と華やかなバッハの名カンタータをお楽しみください。


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巣立つ卒業生に幸多かれ!〜いきものがかり《Yell》

2025年03月21日 17時00分17秒 | 音楽
今日は勤務先の小学校の卒業式でした。

晴れ渡った空の下に、小学校を巣立っていく6年生たちが集いました。晴れやかな姿の彼らを見ていると、いろいろなことを思い出しました。

彼らは、コロナ禍前の放課後子ども教室の1年生だった子たちでした。しかし3月にパンデミックが発生して打ち切りになってしまい、きちんとしたお別れができないままになってしまっていたのです。

そこから御縁があって再び放課後子ども教室が始まったのですが、3年生になっていた彼らは私のことを覚えていてくれていました。そして、放課後子ども教室をやっている部屋の前に来ては

「先生!」

と言って明るい笑顔を見せてくれていた子たちでした。

そんな子たちが立派に成長し、一人ずつ卒業証書を受け取る姿をを見ていたら、胸に迫るものがありました。卒業生が壇上に上がっての『呼びかけ』の時には、やはりコロナ禍に翻弄された戸惑いと苦悩が吐露されていました。

そして卒業生たちが歌を披露する場面になり、私はてっきり《旅立ちの日に》がくると思っていたのですが、彼らが歌い始めたのは



いきものがかりの《Yell》でした。ここまで本格的な合唱ではありませんでしたが、それでも涙を堪えながら一生懸命に歌う彼らの姿に、会場にいた大人たちは感動に打ち震えていました。

万雷の拍手に送られて卒業生たちが会場を去ると、我々個別支援員も一足先に会場を出ました。教職員でもない我々は、そんなにいつまでもウロチョロしているわけにはいかないのです。

自分の荷物を持ってそっと退勤しようとしたら、ちょうど卒業生たちが集合写真を撮るために教室から体育館に移動してきたところでした。その時、かつて放課後子ども教室に来ていた子たちが

「先生!」
「先生!」

と次々と声をかけてくれて、教職員たちが驚いていました。

私も驚きましたが、彼らに

「おめでとうございます。これから沢山楽しんでくださいね。」

と、自分なりのエールを贈りました。こういう場面でよく

「頑張ってね!」

と言ってしまいがちですが、彼らは普段から十分に頑張っているので、私はできるだけその言葉を避けて

「楽しんで!」

と言うようにしています。

相変わらず晴れ渡った空の下を小田原駅までそぞろ歩いていたら、



道すがらのお寺のコブシの花が満開になっていました。桜はまだ咲いていませんでしたが、時折吹く風に真っ白な花弁を一片一片散らせていくコブシの花を見ていたら、卒業生の前で堪えていた涙が溢れてきてしまいました。

今日は、早くに休もうと思います。

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今年度最後の放課後子ども教室〜桜の記念樹と《ゆりかごの歌》

2025年03月18日 17時00分17秒 | 音楽
今日は勤務先の小学校の最後の放課後子ども教室の日でした。今まで私がほとんど関われていなかった分、今日は私が個別支援員の休みを取って主導して進めていくことにしました。

先ず始めに



ピンク色の折り紙を貼り付けて作った桜の木に、桜の花の形に切った桜色の折り紙にメッセージを書いて



放課後子ども教室の記念樹を作りました。下地のピンク色の部分は全て桜の花の形に切った折り紙を60枚以上貼り重ねたもので、そこに淡い桜色の花を貼ったことで綺麗に子どもたちの文字が浮かび上がりました。

その後で、小田原市の夕方の放送で流されている《ゆりかごの歌》について話をすることにしました。本来ならば放課後子ども教室の初回に紹介している話なのですが、学校側に開催時間を著しく短縮されてしまったため話せずにいたのです。

全国的には《夕焼け小焼け》が流されている夕方の時報ですが、小田原市では《赤とんぼ》が流されていました。それが2016年から《ゆりかごの歌》に変わったのですが、これには



大正期の詩人北原白秋(1885〜1942)と小田原市との関わりが起因しています。

白秋が、上京するまでの19年間暮らした故郷柳川(福岡県)に次いで長く居住し、初めて自宅を持った土地が小田原でした。白秋が生涯に作った1,200編におよぶ童謡作品のうち、約半数の作品を小田原時代に創作しています。

大正7(1918)年3月、33歳の時に小田原に転居した白秋は、その後大正15(1926)年5月まで8年2ヶ月にわたり居住しました。そして

「雨ふり」
〽雨雨ふれふれ母さんが〜♪

「赤い鳥小鳥」
〽あ〜かい鳥ことり、なぜなぜ赤い♪

「ペチカ」
〽雪の降る夜は、楽しいペィチカ〜♪

「待ちぼうけ」
〽待ちぼうけ〜待ちぼうけ〜♪

「この道」
〽この道は〜いつかきた道〜♪

「ゆりかごの歌」
〽ゆ〜りかごの歌を〜♪

など、今日知られている多くの作品を小田原時代に創作しました。

小田原での生活は快適で、白秋は終生小田原で暮らすことを考えていたといわれます。しかし、大正12(1923)年に発生した関東大震災で住居が半壊し、やむなく東京へ移ることになってしまいました。

こうした北原白秋と小田原との関わり合いの中で、夕方の時報に《ゆりかごの歌》が流されることになりました。対象が低学年の子どもたちなので彼らはこうした経緯があったことを知らなかったようでしたが最後には全員で《ゆりかごの歌》を4番までフルコーラス歌って終わりました。

子どもたちは口々に

「楽しかった!」
「また来たい!」

と言ってくれました。それでも、学校側との折衝に負けて十分な時間をとってあげられなかった敗北感は、最後まで大人たちの中にくすぶっていました。

今日は、最後に子どもたちと歌った《ゆりかごの歌》をお聴きいただきたいと思います。小田原ゆかりの名童謡を、ハープ伴奏による優しい歌声でお楽しみください。


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今日はショパン《ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調》初演の日〜ルービンシュタイン&プレヴィン&LSOによる演奏で

2025年03月17日 17時00分17秒 | 音楽
今日は朝から空一面に雲の広がる、日差しの乏しい一日となりました。気温も予報ほどには上がらず、肌寒さを感じる陽気となりました。

ところで、今日3月17日は



ショパンの《ピアノ協奏曲第2番ヘ短調》作品21が初演された日です。

《ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調》は、ポーランドの作曲家であり音楽教育家でもあったユゼフ・エルスネル(1769〜1854)の元で《ピアノソナタ ハ短調》や《ピアノ三重奏曲》を書いて経験を積んだショパンが、ピアニストとして名を挙げるために満を持して作曲した作品です。第2番とありますが、実際には第1番よりも先に書かれたショパン初のピアノ協奏曲です。

初めての大作ということもあって曲は第1番よりも自由な構成を持つ一方で、随所に様々な創意がこらされています。現在では《夜想曲第20番(遺作)》として有名な作品《レント・コン・グラン・エスプレッシォーネ》にはこの協奏曲の第1楽章や第3楽章からの断片的なモチーフが引用されていますが、《ピアノ協奏曲第1番 ホ短調》に比べて演奏回数はやや少ないのが現状です。

ショパンのピアノ協奏曲では、第1番同様にオーケストレーションの貧弱さがよく指摘されています。この点についてはショパンのオリジナルではなく、管弦楽法に長じた他者により新たにオーケストレーションが施されたためだ…という主張があります。

その証拠としては、現存する自筆スコアの管弦楽部分が他人の筆跡で書かれていてショパンの直筆はピアノパートのみである点が挙げられていますが、ショパンが友人らと一緒に写譜したものである可能性もあるので断言はしにくいものとなっています。しかし、第3楽章の弦楽パートにコル・レーニョという特殊奏法を取り入れていることなど、ショパンがオーケストレーションにあたって自分なりに創意工夫を凝らしたことは明らかです。

《ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調》は1830年に完成され、同年の3月17日にワルシャワで作曲者のピアノ独奏により初演されました。作品は、パリで親交を結んだデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人に献呈されています。

第1楽章はマエストーソ、ヘ短調 4/4拍子の協奏風ソナタ形式。

オーケストラによる提示部は、問いと答えのような第1主題、オーボエによって提示される変イ長調の第2主題からなっています。ピアノソロがドラマティックに登場すると、熱い音楽が繰り広げられていきます。

第2楽章はラルゲット、変イ長調 4/4拍子
の三部形式。

この楽章は、当時ショパンが恋心を抱いていた、コンスタンツィヤ・グワトコフスカへの想いを表現したと友人ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛ての手紙で述べています。中間部は変イ短調に転じ、弦の刻みの上にユニゾンで激しいレチタティーヴォ風の音楽が展開されていきます。

第3楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェ、 ヘ短調~ヘ長調 3/4拍子のコーダを持つロンド形式。

ポーランドの代表的な民族舞踊であるマズルカが基になっていて、中間部は弦楽器に弓の木の部分で弦を叩くコル・レーニョ奏法が指示され、ピアノもユニゾンとなります。コーダはヘ長調に転じ、ホルンのファンファーレによって明るく華やかに終結します。

そんなわけで、今日はショパンの《ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調》をお聴きいただきたいと思います。アルトゥール・ルービンシュタインのピアノ、アンドレ・プレヴィン指揮によるロンドン交響楽団の演奏で、第1番と並ぶショパンの名作協奏曲をお楽しみください。


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『軍隊』や『ロンドン』にも引けを取らない傑作〜ハイドン《交響曲第103番 変ホ長調》『太鼓連打』

2025年03月16日 17時00分00秒 | 音楽
今日は朝から冷たい雨がふり、久しぶりに寒くなりました。ここ数日の暖かさに慣れた身には堪える寒さで、暖房必須の一日でした。

そんな中、今日私のところに仕事で使う譜面が届いたのですが、その中にものすごく久しぶりに演奏する曲がありました。それが



フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)の《交響曲第103番 変ホ長調》通称『太鼓連打』です。

『傑作の森』と言っても良いハイドンの12曲の『ザロモン交響曲』の中でも、特にきっちりとした形式的な完成度の高さを持っているのがこの作品です。何と言っても『太鼓連打(The drum roll(Mit dem Paukenwirbel)』という独特のニックネームが目を引きますが、これは



第1楽章の序奏の最初に出てくるティンパニのドロドロドロ…という連打に基づくものです。

第1楽章は序奏とソナタ形式の主部からなっています。

序奏はアダージョ、変ホ長調の4分の3拍子。

『太鼓連打』というニックネームの由来となった、印象的なティンパニのドロドロドロ…というロールで始まり、その後に低弦部とファゴットによる聖歌を思わせるような落ち着いたメロディが続きます。この動機は展開部でも登場しますが、こうした形はハイドンとしては珍しいものです。

主部はアレグロ・コン・スピリート、変ホ長調の8分の6拍子。

第1主題は序奏から一転して軽やかなもので、小躍りするように進む魅力的なものです。その後フォルテの部分になった後にオーボエが主題を変形し、経過部になります。

第2主題は属調の変ロ長調になりますが、第1主題同様に軽快で親しみやすいものです。この第2主題部は短く切り上げられ、小結尾になります。

展開部では第1主題の展開が行われますが、その後雰囲気が変わって序奏部で出てきた動機が短調で出てきます。その後第1主題・第2主題の動機がさらに展開された後、再現部となります。

再現部では第1主題・第2主題が共に変ホ長調で再現された後、突然変イ長調のフォルテ部とななります。さらに序奏部が再現され、最後は簡潔なコーダで締めくくられます。

なお、この『太鼓連打』の部分ですが、ハイドン自身による音量や強弱の指示が最低限しかないこともあり、指揮者によっていろいろな解釈がある部分です。20世紀の録音では楽譜通りに演奏しているものがほとんどですが、近年ではティンパニの乱れ打ちソロになっていたりと、なかなかアグレッシブな演奏もあります。

第2楽章はアンダンテ・ピウ・トスト・アレグレット、ハ短調の4分の2拍子。

この楽章はハイドンお得意の変奏曲ですが、ハ短調の第1主題とそれと同じ楽想をハ長調にしただけの第2主題が交互に登場し、それぞれが変奏されていく二重変奏曲となっています。落ち着いた歩みを感じさせる素朴なメロディは、いかにもハイドンらしいものです。

各主題は2部形式で前半・後半から成っていて、2回変奏されます。第2主題の第1変奏では、独奏ヴァイオリンが3連音で華麗にオブリガートを付ける部分が特徴的です。

第1主題の第2変奏では金管楽器やティンパニが加わり、ダイナミックな盛り上がりを見せ、その後、第1ヴァイオリンに細かい音の動きが絡み合ってきます。続く第2主題の第2変奏はオーボエなどによってほとんど変奏されることなく歌われ、終結部となります。

第3楽章はメヌエット、アレグロ、変ホ長調の4分の3拍子。

メヌエット部は素朴な感じで堂々と始まった後にホルンなどが合いの手を入れる形で進んでいき、後半は対位法的に展開されます。同じく変ホ長調のトリオではクラリネットが第1ヴァイオリンに重ねてレントラー風のメロディを歌った後、いろいろな楽器が受け継いでいきます。

第4楽章は2つの主題によるロンド・ソナタ形式のフィナーレ、アレグロ・コン・スピリート、変ホ長調の2分の2拍子。

ホルンによる4小節の導入部の後で一旦休符が入り、その後、仕切り直しのような感じで第1主題が軽快に始まります。この主題のリズム動機は、その後繰り返し繰り返し楽章を通じて出てきて、ダイナミックに盛り上がりながら経過部に入っていきます。

第2主題は第1主題が少し発展したもので、その後も基本リズムを中心に、主題が対位法的に絡んだり、新しい動機を加えたり、様々なアクセントや和声を加えたり…と次々と登場する感じで曲は進んで行きます。その中で曲はいつの間にか巨大に成長していき、堂々と全曲が締められます。

そんなわけで、今日はハイドンの《交響曲第103番 変ホ長調》通称『太鼓連打』をお聴きいただきたいと思います。ハリー・クリストファー指揮によるヘンデル&ハイドン・ソサエティ・オーケストラの演奏で、『軍隊』や『ロンドン』と並ぶハイドンの名作交響曲をお楽しみください。


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