ナンカの間違いかも
今じゃぁ、一昔前と言われる様に為った、昭和の時代。
当時は、普段の生活の中にですよ、なんだか心を騒がせて、
いつも何かに追われているような、そんな心を苛立たせるものがございました。
我と己の家族の暮らしを豊かにしたいが為にと、勤め人は脇目も振らずに働きます。
当時、随分とお偉い政治家だと言われるお方がおっしゃりました。
「もはや戦後は終わった」 っと
あの時代の働き人さんは、その言葉を真に受けた訳じゃぁないのやろぅけど、
此の国は、お国を挙げて、経済発展をやり遂げようとしておりまして、
みんなが高度成長を成し遂げることに没頭し、日毎励んでいましたよ。
人々は只タダ、今よりも豊かな生活をと、将来に向けて働くことが自分の勤めだと。
だから、やり直しが利かず、後戻りなんかできない、一方通行な未来にと人生を賭け、
キッと今よりモットいいものがあるかもと、見えぬ何かを追い求め続けていました。
家族のためにと働く勤め人は、豊かな未来へ必ず辿り着けると勝手に想い込み、
物欲が満たされるまでと、飽くなき飢餓感で震える心を宥め静める為めに、
今の時代には、自家用車や電化製品がないと困り、あれば便利なんだからと買い求めます。
「仕方がないよね、今生きている此の時代が求めるんだから 」 っと。
誰もがそれを何処までも追い求め続けるのは美徳なんだと、当たり前なことだと。
だけどそれは自分でも気づかぬうちに、自分に都合よくそぅ想い込もうと。
そんなこと、本当は誰もが気づいていても、ハナから知らないフリ、
仕方がないからと、己で勝手に納得していた時代でした。
ご都合主義で盲いてしまった人の心は、物に対して執着する我の飢餓感を、
己の物欲を満足させる為じゃぁないのだと、マッタク違う愚かな勘違いで満たさせ続けます。
何時かはそれを続けさせれば、心が平穏になりえると勘違い。
その時、我の心が自分でも知らぬうちに騒ぎだすのは、
好くも我はそんな時代に生まれてきたものだと、心の中は喜びでイッパイに満ち溢れ、
歓喜で心が早鐘のごとく打ち震えているのだと。
だけど心が震える事は、我の心が意識の底の方で気づいて、騒いで震えているんだと、
物欲に盲いられた善き人さんたち、そんなことだとは何方もお気づきも為さりませんでした。
今から当時を偲べば、人情なんかアクマデモ軽くと為ってゆき、
人は、持てる物が多ければ多いほど幸せで、豊かな生活なんだと。
質素倹約は持てない者の、諦めな言い草なんだよと。
持てないほど溢れかえって有り余るほどの物で囲まれた生き方、
其れは、豊かさの意味を履き違えたことで、心は勘違いだらけでした。
豊かさだと想う上辺の華やかさが、軽薄なんだと感じずに、
享受する物欲な華やかさは、昔より過ごし来た良き伝統を蔑ろにといたします。
気がつけば人の世は、人を思い遣る、重きはずの人情心は甚だ軽んじられ、
聞きたくもない、身勝手な理不尽が堂々とまかり通るが如くな、
観たくもない、醜き世相に相成りました。
愚痴にて候ぉ ゴメンヨ