【 rare metal 】

此処 【 rare metal 】の物語や私的お喋りの全部がね、作者の勝手な妄想ですよ。誤解が御座いませんように。

本当の生きかた・勝手転載。ごめんなさい。

2011年10月16日 00時53分46秒 | メタルのお話し 

日本人の肖像:大和の益荒男編その5 山口良忠Ⅱ

2007/07/14 07:00

 

 

産経新聞特集記事(山田智章記者筆)
【凛として】ヤミ米“拒否死”の裁判官
 山口良忠(1)~(5)2004年5月連載より





 
「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。
 私はよい仕事をしたい。
 判事として正しい裁判をしたいのだ。
 経済犯を裁くのにヤミはできない。
 ヤミにかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信がもてないだろう。
 これから私の食事は必ず配給米だけで賄(まかな)ってくれ。
 倒れるかもしれない。 死ぬかもしれない。
しかし、良心をごまかしていくよりはよい」 




 決死の覚悟だったにもかかわらず、そう語る山口良忠の表情からは気負ったようすはなかった。
 妻、矩(のり)子にヤミを食べないことを宣言した昭和二十一(一九四六)年十月初めの夜から一年間、山口は信念のみに生きていくことになる。

 

 ちょうどこのとき、山口は東京刑事地裁から、東京区裁への転勤辞令を受けた。
 ヤミによる食管法違反などが頻発していた時期で、経済犯専任の判事に任命されたのだ。これまで以上にヤミと向き合うことが決まり、山口にはこの選択しかなかった。 

 しかし、山口の覚悟は、ただ判事としての自分にのみ向けたものだった。矩子にはこうも語っている。

 

 「人間は孤独だ。お前がこれについて何を考えようと自由である。私は、お前や子供たちにまで絶対配給生活を強いはしない。それはお前たちの好きなようにしなさい」 



 

 二十五歳の司法官試補の山口と、女学校を出て油絵を習っていた二十歳の矩子が出会ったのは昭和十四年の晩秋だった。
 山口と同郷の法学博士、織田萬(よろず)の紹介による東京・帝国ホテルでの見合いの場だった。
 矩子の父も佐賀県の出身で、元大審院判事の神垣秀六だった。 

 縁談はトントン拍子で進み、二人は翌十五年十二月二十三日、東京で式を挙げた。
 新婚旅行は伊豆湯ケ島だった。
 結婚後、山口は
横浜地裁予備判事を経て甲府地裁の判事となった。
 土地柄とまだ時代がよかったせいか、扱う事件数も多くなく、穏やかなときが過ごせた。 

 東京に戻ってきたのは昭和十七年六月、東京民事地裁判事としてだった。
 この年には二人の間に長男が誕生するなど、まだ飢餓の恐怖はうかがい知れなかった。
 しかし、この年の七月、山口を縛ることになる食糧管理法が施行される。 

 二人が東京で居を構えたのは矩子の牛込区(現・新宿区)の実家だった。
 神垣がちょうど青森地裁所長に赴いていたため、留守宅を預かったのだ。
 約一年後、世田谷区玉川奥沢町の借家に移った。
 戦況は徐々に悪化し、食糧難の波が押し寄せ、施行一年目には順調にみえた食管法が人々を苦しめはじめた。
 十九年十一月には、山口は矩子と長男を実家の佐賀県白石町に疎開させた。
 矩子は二人目を身ごもっていた。 

 その後東京は空襲にさらされ、敗戦を迎えた。
 山口が妻と長男、そしてまだ見ぬ二男との生活を取り戻したのは二十年十月だった。東京は焼け野原だったが、山口にとっては、元気な二児と若くて気立てのよい妻に囲まれた人生至福のときだった。
 しかし、世の中は乱れ、食糧は尽きていた。
 ヤミにまつわる事件は日増しに増えていった。

 

 

 「ヤミは食べない」



と、山口から宣告された矩子は、言いようのない悲しみのなかにいた。
 しかし、自分だけは、この孤高の判事である夫についていこうと決心し、二人そろって配給だけの生活を始めた。 

 矩子は手記にこう書いている。 

 「主人についていこうと決心しましたのも、私自身、裁判官という特別な家庭に育ったこともありましたでしょうが、主人のすることをすべて信じ切っていたからでしょうね」 

 この当時、配給だけの食卓はどうだったのか。
 矩子はそれを「まことに惨めで、身動きできない有様(ありさま)」と表現している。
 主食は缶詰のときはそれだけ、豆のときは豆だけを食べ、子供たちにその多くを与えて夫婦は残りを食べ、水を飲んで過ごしていた。 

 
「人間である以上、生きていたい。おいしいものを食べていたいと思う。しかし、正しいことはしなくてはならない」

と、迷いのない眼で語った山口に矩子は従い、ついていった。 

 そんな二人をみかねた矩子の父、神垣は「孫の顔を見せてくれ」などと自宅に山口たちを呼んで、あの手この手で食べさせようとした。
 しかし、山口は終(つい)ぞ手をつけることもなく、逆に義父らの心遣いを察して、「用事がある」といっては、義父宅に足を向けなくなっていった。
 ただ、矩子や子供たちは行かせた。 

 山口の父、良吾も上京したとき、やつれた息子夫婦を目にしている。
 心配する父に山口は、

「単独裁判の裁判長を務めておりますため、疲れ気味なだけです」

と答え、気丈な姿をみせようと、父のために風呂を薪でわかしたという。 

 しかし、父は食事のときに夫婦が子供にだけ食べさせている姿をみて、矩子を追及し、息子の覚悟を知った。 


 「命を粗末にするな」 

 そう戒(いまし)める父に、山口は逆らわず、ただ黙ってうなずいて、ほほえみだけを返した。 

 

 山口は周囲の心配通り、倒れた。そして郷里の白石に戻った。 

 昭和二十二年十月十一日、山口は最期の時を迎えた。
 矩子と二人の息子も白石に戻っていた。
 その日の午後、矩子は新聞を読みたいと手まねで語る山口のために階下に新聞を取りに降りた。
 部屋に戻り、差し出された山口の手に新聞を渡そうとしたその瞬間、手がぱたりと落ちた。あまりにあっけない臨終(りんじゅう)だった


「愚直」。悪法と認めつつも、人を裁く判事ゆえに食糧管理法を守り抜いて“餓死”した山口良忠を、こう表現してきた法曹関係者は多い。
 元同級生ですら、しばしばこの言葉を使いたがった。 

 山口の故郷・佐賀の鍋島藩に伝わる武士道論書『葉隠(はがくれ)』の中の「武士道と云は、死ぬことと見付たり」との一節を引き合いに出し、その死を「自殺」に結びつけようとした批判もあった。 

 

 

 六年の月日を取材に費やし、山口良忠の生涯を追ったドキュメント「われ判事の職にあり」(文芸春秋)を書き上げた弁護士、山形道文(七五)は、こういった山口への論評に、ある解釈を加えた。 

 「同時代に生きた人々の多くは、山口判事さんを真正面から見ることができないんですよ」 

 戦後を生き延びた人たちにとって、ヤミを拒んで餓死した山口を肯定することは、自身の存在を否定することになると考えたからかもしれない、という。
 戦後の動乱期、生き抜くことは、死ぬことよりも難しかった。 

 しかし、山形は「山口判事さんを『奇人』『変人』のように扱い、その生き方や人間性まで否定することは非礼以外の何物でもない」と強い調子でいう。 

 函館弁護士会会長も務めた山形は、法律家の手法で山口の生涯を丹念に調べた。
 

 「事実の認定はすべて証拠による」 

 あたった資料は数え切れず、得た証言も膨大だ。ときには、反対尋問のごとく厳しく“証人”に詰め寄ったこともあった。 

 青森県弘前市に生まれ、北海道で育った山形が、山口の死を知ったのは旧制高校三年のときだった。
 すでに裁判官を志し、法学部を目指して受験勉強に励んでいたころだ。
 「裁判官」という職業について、いろいろ考えさせられたことを今でも覚えている。
 山形はその後、東京大法学部に進み、裁判官ではなく、弁護士になった。 

 

 

 裁判官としての山口の死を、どこかに感じながら法曹の世界に入った人間も少なくない。 

 ダグラス・グラマン事件やリクルート事件などを手がけ、東京地検特捜部長や高松高検検事長、名古屋高検検事長を歴任した宗像(むなかた)紀夫(六二)も、そんな一人だ。
 戦後、宗像の父もまた、ヤミを食べることを拒んだという。 

 「オヤジは食卓をみて、『ヤミなんか並べてないだろうな』

と、いつもお袋にきつく問いただしていた。
 オヤジは孤高の人だったから、お袋が『配給だけですよ』といわないとだれも食事に手を出せなかった」 

 宗像の父は中学校の英語教師と獣医を兼ねていた。
 当時、一家は東京から父の郷里の福島県三春町に疎開していたが、母が嫁入り道具の着物を売って米を買い、子供四人に食べさせた。
 配給しか口にしようとしない父は、山口と同じように栄養失調から
結核を患い、宗像が十五歳のときに亡くなった。 

 宗像の記憶に残る父の姿は、善悪に対する厳格さで、

「どんなに困っていても、間違ったことをしてはいけない(法を犯してはならない)」

といわれたことだ。 

 宗像は母の口から、父が、配給のみの生活で餓死した山口の生き方に感服していたことを聞いている。
 検察官を目指したとき、自らを厳しく律することが求められる職業だと認識させられたのは、父の存在とともに、山口のことが意識のなかにあったからだ。 

 現在、司法改革の一環で司法試験は門戸が広げられ、簡単になったといわれる。
 中央大法科大学院の教授でもある宗像は「試験突破が簡単になったからといって、持つべき倫理観まで簡単になるわけではない。
 倫理観は人間性に基づく。
 山口判事が貫いたものは現代でも色あせることはない」と語った。 

 

 

 山口は確かに孤高の人だった。
 しかし、家族への思いは深かった。
 弟の良和(八五)は、東京の国学院大で学んでいたころ、佐賀へ帰省するときには必ず京都で途中下車し、兄の下宿を訪ねていた。 

 佐賀高を卒業後、京都大法学部へと進んだ山口は京都市内で一人暮らしをしていたが、当時を知る人のほとんどが、「下宿と大学を往復するだけの生活」だったとその印象を語っていた。
 ここでも“ガリ勉”のイメージがつきまとうが、それもまた真実ではなかった。
 

 「一緒に神社やお寺を回りましたよ。金閣寺も一緒に行きました。楽しかった。勉強一辺倒の兄じゃなかったんです」 


 弟に観光案内ができるほど、山口はちゃんと京都の街を歩いていた。
 良和は当時の様子を今でも目を潤ませて語る。 

 二十代の山口は恋愛も一途(いちず)だった。婚約中だった矩子には精いっぱいの愛情を、自筆のスケッチに込めて贈ったこともあった。 
 そして、だれよりも矩子が山口の生き方を称(たた)えている。
 矩子は夫に一通の手紙をしたため、棺にそっと忍ばせた。

 

 「あなたの一生は本当に清らかでした。私は生涯ひとりで生きます。いずれお会いできる日まで、さようなら」 



 矩子はのちに、夫の死について、「ただ人間には、笑って死んでいかなければならない時もあることを主人から厳しく教え込まれた気がしているのですよ」と山形に語っている。 

 亡き夫への誓いどおり、矩子はその後の生涯を独身で通し、六十三歳だった昭和五十七年四月、一人で暮らしていた東京・世田谷のアパートで、ひっそりと山口の元へと旅立った。脳出血だった。 

 山口は死の直前、一つの歌を詠んだ。 


 「帰り来て ふるさとの空 かくばかり 青かりしとは しらざりしかな」 


 これまで背筋をピンと伸ばし、ひたすら真っすぐ前だけをみてきた青年にとっての空は、地平線に向かう一筋の道だった。
 病の床で初めて故郷の空を見上げ、その青さと無限の広がりを見た。 






※本文は、すべて以下の産経新聞特集記事(山田智章記者筆)からの引用です。

【凛として】
(32)ヤミ米“拒否死”の裁判官 山口良忠<4>決死の覚悟 [2004年05月20日 東京朝刊]

【凛として】
(33)ヤミ米“拒否死”の裁判官 山口良忠<5>貫いたもの [2004年05月21日 東京朝刊]


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大和国奇譚(やまとのくにきたん)

 

勝手に転載いたしました。ホンマニぃごめんなさい。

 

    

 

 


勝手に転載しました。ごめんなさい。

2011年10月16日 00時30分42秒 | メタルのお話し 

日本人の肖像:大和の益荒男編その5 山口良忠Ⅰ

2007/07/12 18:00

 

 

 産経新聞特集記事(山田智章記者筆)
【凛として】ヤミ米“拒否死”の裁判官
 山口良忠(1)~(5)2004年5月連載より


「飽食の時代」と呼ばれる現在の日本では、餓死という言葉は、それが殺人や虐待の手段として用いられる以外は耳にすることはない。 

 しかし、終戦直後、食糧難にあえいでいた日本では、飢えて死ぬ人が少なくなかった。
 貧しさゆえの犯罪も後を絶たず、裁判にかけられる事件も米泥棒やヤミ米にまつわるものが多かった。
 たった数十年前のことである。 


 昭和二十二年の秋、一人の判事が“餓死”した。 

 「食糧統制法(食糧管理法)は悪法だ、しかし法律としてある以上国民は絶対にこれに服従せねばならない…自分は平常ソクラテスが悪法だと知りつつもその法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している、自分はソクラテスならねど食糧統制法のもと、喜んで餓死するつもりだ、敢然ヤミと闘つて餓死するのだ」 


 死の床にあったとされる日記の内容が新聞で報道されると、大きな反響を呼んだ。
 悪法といわれながらも当時の食糧管理法をかたくなに守り、ヤミ米を食べることを拒んで配給食糧のみでの生活を強行した悲劇であることがわかったからだ。 



 「人を裁く者が法を犯して生きていけるのか」 


 不滅のテーマに身をささげた判事の短い生涯を追った。 




                  ◇ 

 昭和二十二年八月二十七日、東京は連日の猛暑で、この日の最高気温は三四・八度を記録していた。 

 「被告人を懲役十月および罰金三百円に処す。ただし懲役刑については三年間、執行を猶予する」 

 三十三歳の判事・山口良忠(よしただ)は、東京地裁で被告人の四十四歳の大工に判決を言い渡した。
 案件は、無許可でたばこを製造・所持したという物価統制令違反、煙草専売法違反事件だった。 

 厳かに判決公判を終え、判事室に戻ろうとした山口の意識が、ふいに遠のいた。
 その瞬間、階段にかけた足が行き場を失い、山口は崩れるように倒れた。 

 急病ではなかった。倒れるべくして倒れたのだった。 

                  ◇ 

 時計の針を戦時中に戻す。国は昭和十七年、国民が平等に食糧を得られるよう食糧管理法を施行し、各家庭に食糧を配る配給制度を始めた。 

 日本は前年、太平洋戦争に突入していた。緒戦こそ華々しい戦果を挙げたものの、この年、ミッドウェー海戦で連合艦隊が大敗を喫し、南太平洋の要衝・ガダルカナル島を失った。
 戦局は次第に悪化し、国民の生活にも暗い影が忍び寄っていた。
 食糧の配給制はその象徴である。
 味噌も醤油も、そして衣服も点数切符制になった。
 開戦一周年を記念して募集した「国民決意の標語」の当選作品は、「欲しがりません 勝つまでは」だった。 

 食糧管理法は戦後も続いた。
 敗戦の後の食糧事情はさらにひどかった。配給されるのはわずかばかりで、遅れるどころか配給のない日も珍しくはなかった。 

 人々は自分の腹を満たすため、あるいは大切な家族を飢えから守るため、「ヤミ」と呼ばれる法律で禁じられた食糧を求めて走った。
 当然、これら違法行為は厳しく取り締まられた。
 山口は東京地裁判事として、ヤミで摘発された被告人を法廷で目の当たりにし、そして裁いていた。 

 そんな山口が、

「人を裁く身で、どうしてヤミを食べることができようか」


と、配給のみの生活を自らに強制したとしても倫理上はなにも不思議なことではなかった。 

 だが、この時代、山口の選択は死を覚悟しなければならなかった。
 山口の身体は日に日にやせ衰え、ついには栄養失調から肺浸潤(しんじゅん)に侵された。 





                  ◇
 



 「恐れていたことがついに…」 


 東京地裁から山口が倒れたとの連絡を受けた二十八歳の妻、矩(のり)子は、自身の身体も弱っていくことを自覚していただけに、配給だけの生活を続ける夫、山口の身を案じてきた。 

 矩子はすぐに佐賀県白石町の山口の実家に電話を入れた。 


 「主人を迎えにきてください」 


 連絡を受けた白石の実家では、地元の農学校で国語教師をしていた山口の六歳下の弟、良和が


「一大事じゃ、一大事じゃ」


と、すぐに汽車に飛び乗った。
 

 「兄は立派な人間だった。長男でもあったし、(知らせを聞いた)両親の心配は相当なもので、これは一大事、すぐに連れて戻らなければと思った」 

 現在、八十五歳の良和は、こう振り返る。
 

 当時、佐賀から東京までは汽車で二十-三十時間の長旅だった。
 混雑した汽車のなかで、ずっと立ったままだったことを良和は覚えている。 

 久しぶりに会った兄、良忠のほおはこけ、髪も一気に後退しており、かつての面影はなかった。
 しゃべることもおぼつかない兄を無事に佐賀まで連れて帰ることができるのか、不安がよぎった。 

 しかし、一刻の猶予も許されないと感じた良和は、兄を抱きかかえて再び汽車に乗った。
 東京を発つ前、矩子には白石の実家に出発を知らせる電報を打たせた。
 心配している両親を少しでも安心させるために。 

 案の定、佐賀へ帰る汽車も混雑を極めた。 


 「こんな病人を立たせたままで佐賀まで行けるのか…」 


 空席などなく、兄の身体をかばうように立っていた良和に乗客の一人が声をかけてくれた。 

 「ここにその人を寝かせてあげなさい」 


 乗客が車両の隅に人一人が寝られるスペースを空けてくれた。
 兄をそこへ寝かせて休ませながら、ほぼ丸一日、汽車に揺られて佐賀に向かった。 

 そのころ、山口の実家がある白石町の八坂神社の境内には、本殿の前にひざまずき、ひたすら祈願する老女の姿があった。
 山口の母、クマだった。 



 「重い病を患った体で、混雑した東京からの汽車の長旅、どうか無事持ちこたえることができますように。どうか息子を…」 


 母が必死で祈った、この願いだけはかなえられた。 
 山口良忠の故郷、佐賀県白石町は、佐賀市内から車で西へ三十分ほど、広大な白石平野の中心にある。 

 古代は海の底だった。
 長い年月を経て遠浅の海となったこの地は、先人の手で干拓され、沃(よく)土になった。
 白石町は有明干拓という壮大なロマンの末にできあがった。
 自然であって自然でない。
 秋には東の有明海まで豊穣(ほうじょう)な稲穂の波がそよぐ。
 米の一粒一粒は、人々が干拓事業に注いだ情熱の結晶なのだ。 

 教育者であり、白石の八坂神社の宮司でもあった山口の父、良吾は、佐賀の干拓の歴史が千三百ページにわたってつづられた「佐賀干拓史」(昭和十六年出版)の主任編集者も務めた。
 郷里を愛してやまない父子は、有明干拓地民の末裔(まつえい)だった。
 山口は死を間近にして、生まれ育ったこの地に戻ってくる。




 

                ◇ 



  

 昭和二十二年九月七日は、昼前にすでに三〇度を超す残暑厳しい日だった。 


 「イマカラツレテカエル」 


 倒れた山口を連れ戻しに東京へ行った弟、良和からの電報は、前日の夜、八坂神社に届いていた。 

 知らせを聞いた母、クマは、早朝から本殿前にうずくまるように長男の無事を祈り続けていた。
 良和の妻、エイ子はまだ夜が明け切らぬうちに起き出した。
 落ち着かない気持ちを鎮めようと、山口の療養所となる社務所の別棟二階の八畳間を丁寧にぞうきんがけをし、


「暑さが義兄の体に障っては」と、境内に何度も打ち水をした。 

 昼を過ぎ、きつい日差しが樹齢三百年以上の楠(くすのき)の巨木に照りつけていた。
 クマは境内に生い茂るヤツデの茂みの陰にたたずみ、息子たちの帰りをひたすら待った。 

 午後二時近く、境内のすぐ前を流れる小川にかかった短い石橋の上に、つえをつき、良和にわきを支えられた山口の姿が現れた。 


 「良忠!」 


 クマはヤツデをかきわけ、駆け出した。
 

 「お母さん」 


 声を絞り出した山口の手をクマが握り締めた。山口は泣きじゃくった。 

 自らが選んだ生き方に間違いなどあるはずがなかった。
 しかし、比類ない孝行息子にとって親に心配をかけることは、理屈ではなく、悪でしかなかった。
 

 「お母さん、すみません、すみません…」 


 口をついて出たのは、親不孝をわびる言葉だった。 

 意志の固さがうかがえる引き締まった顔つきに違いはなかったが、肉がそげたほお、後退してしまった髪、似合わない無精ひげ、やせ細ってサイズがまったく合っていない洋服…。変わり果てた山口のもとに父、良吾も駆け寄り、親子はただ手を取り合いながら無言で互いを確かめあった。
 

 「兄はただただ泣いてわびていました。自分には厳しい男だったが、わたしら家族には優しかった。
 親が身を切られるような思いで心配している姿を目の当たりにして、判事としてではなく、一人の子供に戻ったんでしょうね」 


 良和にとって、兄は常に背筋を伸ばしていた男だった。
 その兄が泣き崩れてわびる姿を見せたのはこれが最初で最後だった。 

 白石に戻ってから、山口はほとんど動くことができす寝込んだままだった。
 残暑が過ぎて秋の気配が漂い、風が冷たく感じられるにつれ、病状は回復するどころか次第に悪化する。
肺結核も併発していた。 

 しかし、親が子を思う姿が、山口の堅い信念を揺れ動かしたのだろうか。東京ではだれが何といおうと、配給以外の食糧には手を出さなかった山口だが、白石で出されたものは口にした。 

 すでに一年以上もごくわずかな配給と水だけで過ごしてきた体は、そう簡単には食物を受け付けてはくれなかった。
 それでも、故郷の米や卵、八坂神社の境内になる柿を少しずつではあったが、口に入れていた。   

                ◇  

 山口が抱き続けた孝心は、生涯変わることはなかった。
 昭和二十年一月、白石の実家に疎開させていた妻、矩子にあてた手紙からその一端が読み取れる。
 このとき矩子はまだ幼い長男を伴い、おなかには二男を抱えていた。 


 「お父さんの病気は心痛に堪へぬ。
 そなたと坊やが白石に行つたが為(ため)に今迄(まで)病気一つなさらなかつた父上に若(も)しものことでもありましたら僕はそなたを怨(うら)みます。
 どうか、僕に代り父上母上をしたふ僕の心を心としてぜひ父上を元気にさしてあげて下さい。
           (略)

 僕から、父上と母上とがなければ希望は一切僕から消えてなくなると思つて下さい」 



 今の時代にこんな手紙を妻に書く男はまずいない。
 山口は両親に対する愛情の深さをストレートに表現することに何のてらいもなかった。
 そして、この手紙ではさらに「今日牛込のお父さんお母さんにもお会ひしました。お二人共お元気安心あれ、(略)坊やを抱へ、お腹を抱へ、そなたも大変だらう、健康を祈つてる」と、妻や妻の父母らに対しても同様の気遣いをみせている。 

 矩子はこの手紙を生涯、大切に保管し続けた。そして訪れた客に

「主人はこんな手紙を寄越したんですよ」

と、にこやかに語ったという。
 他人がみれば、妻に厳しく感じられる手紙も、矩子にとっては、山口の律義さと一途(いちず)な愛情が感じ取れる手紙だったのだ。 

 今となっては、白石で配給以外のものを食べ始めた山口の心境の変化を知る術(すべ)はない。 

 老いた母の涙が、孝行息子の生への執着を再び呼び戻したのだろうか。
 あるいは、すでに死を覚悟した山口が最後にできる親孝行として、食べてみせたのか。 

 もう二度と法服をまとうことはないと悟り、この時点で自身を判事の職から解放していたのかもしれない。 


「よく神童とか、神様の申し子とか申しますが、山口君のようなお子様のことでしょうか」 

 山口良忠の小学校時代について、当時の担任だった岸川タケは、山口の生涯と実像を描いた「われ判事の職にあり」(文芸春秋)の著者で弁護士の山形道文に、こう語っている。 

 岸川は、佐賀県佐留志(さるし)村(現・江北町)の佐留志小学校で、山口を一年生から三年生まで受け持った。
 当時、山口の父、良吾は別の尋常小学校の校長で、山口は父の転勤に伴って佐賀県内を三度、転校した。
 小学生時代の山口の評価は、どこも寸分たりとも違わなかった。 

 学業は常にトップだった。
 そして、山口を語るときに代名詞のようにいわれるのが「背筋がピンと伸びた正しい姿勢。めったに笑わない真面目で利発そうな表情」という表現だった。最初の三年間を過ごした佐留志小以外の二校(橘小、須古(すこ)小)では父が校長を務めていた。 


 「学業はずば抜けて、さすがは校長先生の子」 

 教師や机を並べた同級生からこう評され、小学生にしてだれからも慕われた。 

 岸川は山口について、こうも語っている。 

 
「ほかの児童と違って、お話をしているとき、私から眼を離さないで、じっと、それはそれは清らかな眼で見つめているお子でした」 




                 ■□■ 



 まさに模範生の山口に多大な影響を及ぼしたのは、父、良吾だった。
 良吾もまた、教育熱心な佐賀県の教育界で、だれからも尊敬のまなざしを注がれる人物だった。 

 良吾は赴任した小学校でドラスティックなほど、新しい試みに挑戦した。
 橘小の校長に就いた大正十一(一九二二)年には、米国で開発された新教育法をいち早く取り入れた。
 教師からの一方通行的な授業を廃止し、児童の自主的な活動と協同作業を通して能力を磨き、自己規制をしつけるというシステムだった。 

 そして何よりも重視したのが「郷土教育」だった。
 教育の原点を郷土愛とし、郷土と先人を知ることで人材育成を図った。
 良吾が主任編集者としてまとめた「佐賀干拓史」も、この延長線上にあった。 

 山口は、父であり師であった良吾が始めた新しい郷土教育の、文字通りの申し子だった。 

 県立鹿島中学(現・鹿島高校)に入学したのは大正十五年四月だった。
 当時住んでいた須古から鹿島町へは鉄道が敷かれていなかったため、鹿島町内で下宿した。
 弟、良和によれば、山口は「両親が心配だから」といっては毎週末、実家に戻ってきたという。
 中学二年のときに実家が白石町の八坂神社に移ってからは下宿生活をやめ、実家から自転車で通った。 

 中学時代も変わらず成績優秀で、学籍簿には「態度端正」「忍耐強し」、さらには「級ノ模範タリ、同級友人間ノ信用厚シ」と書かれていた。 



                 ■□■ 




 優等生は昭和六年四月、県内随一の名門、官立佐賀高校へ進んだ。
 ここでも申し分のない成績を修めた。
 印象もやはりこうだった。「背筋をピンと伸ばし、頭の先からつま先まで一直線」「極端に寡黙」 

 さらに級友たちは異口同音に「授業が終わるとわき目も振らずに下校していた」と語る。当時流行していた哲学書をさかなに語り合うことも、喫茶店でレコードを聴くこともなかった。
 つまり、青春を謳歌(おうか)することなどまったくなかった、ように見えた。 

 山口は急いで帰らなければならなかった。山口を待っている人々がいたのだ。 

 山口が佐賀高に入学したのと同時に、八坂神社の宮司に就任していた父、良吾は教職時代の退職金全額を投じて神社境内に私塾と幼稚園を建設した。
 私塾は「弥栄(やさか)義塾」と名づけられ、昼間は農作業を続ける百人近くの農村青年たちが夜、足を運んで学んでいた。 

 授業が終了するや一目散に教室をあとにしていた山口は、自分の勉強のためではなく、父を手伝って、塾生に勉強を教えるために家路を急いでいたのだ。 

 「若先生」と塾生に慕われ、畳敷きの部屋に座卓を並べた“学び舎”で、漢文、国文、古典、公民をひざを突き合わせて教えていた。
  弟の良和は「そりゃ、兄は親切極まりない男でしたから、しょっちゅう夜通し塾生に付き合って教えていましたよ。
 よく塾で寝てましたから。
 自分の勉強なんかする時間はなかったはずです。
 でも、一生懸命で充実した日々だったと思います」と語る。 





                 ■□■ 





 そして山口はただの堅物(かたぶつ)でもなかった。
 高校の記念祭でのことだった。仮装で演じた童謡「雨降りお月さん」で、山口は赤ちゃんの涎(よだれ)掛けをして赤い鼻緒のげた履(ば)きで踊った。
 何事にも一生懸命な山口はそれこそ無我夢中で踊り続け、皆を笑わせた。 

 多くの同級生の記憶から消えていた、この記念祭での“晴れ姿”が再び姿をみせた。
 山口の生涯を追っていた山形に山口の同級生から連絡が入った。 

 「ある同級生の未亡人が夫の遺品を整理していたら、たまたま記念祭の写真が出てきた」 

 写真は二枚あった。級友たちと肩を並べ、笑っている山口と、面をかぶった山口が、そこにちゃんといた。
 面をかぶっている山口を判別したのは、妻の矩子と弟の良和だった。 

 「この親指がそうです」 

 二人の指摘は同じだった。山口は中学時代、桜の木に登っていたときに何かに刺され、親指が曲がってしまっていたのだ。これが原因で戦時中に軍隊への召集がなかったという。 

 確かに山口にも青春があった。
 夜間の私塾で若い塾生たちと夜通し語り合った青春も、仮装して懸命に踊った青春もあった。
 ただ、級友たちの多くは知らなかった。
 山口の死後、何十年とたってそれを知った級友の一人は、こういって涙を
した。 

 「ぼくらは何も知らなかった。ぼくたちの青春の中に山口はちゃんといたんだ」 







日本人の肖像:大和の益荒男編 その5  山口良忠Ⅱ  に続く



※本文は、すべて以下の産経新聞特集記事(山田智章記者筆) からの引用です。

【凛として】
(29)ヤミ米“拒否死”の裁判官 山口良忠(1)配給だけの生活 [2004年05月17日 東京朝刊]

【凛として】
(30)ヤミ米“拒否死”の裁判官 山口良忠(2)生への執着 [2004年05月18日 東京朝刊]

【凛として】
(31)ヤミ米“拒否死”の裁判官 山口良忠(3)神様の申し子 [2004年05月19日 東京朝刊]

http://yfm24651.iza.ne.jp/blog/14/

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上記記事を勝手に転載しました。ごめんなさい。