産経新聞特集記事(山田智章記者筆)
【凛として】ヤミ米“拒否死”の裁判官
山口良忠(1)~(5)2004年5月連載より
「飽食の時代」と呼ばれる現在の日本では、餓死という言葉は、それが殺人や虐待の手段として用いられる以外は耳にすることはない。
しかし、終戦直後、食糧難にあえいでいた日本では、飢えて死ぬ人が少なくなかった。
貧しさゆえの犯罪も後を絶たず、裁判にかけられる事件も米泥棒やヤミ米にまつわるものが多かった。
たった数十年前のことである。
昭和二十二年の秋、一人の判事が“餓死”した。
「食糧統制法(食糧管理法)は悪法だ、しかし法律としてある以上国民は絶対にこれに服従せねばならない…自分は平常ソクラテスが悪法だと知りつつもその法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している、自分はソクラテスならねど食糧統制法のもと、喜んで餓死するつもりだ、敢然ヤミと闘つて餓死するのだ」
死の床にあったとされる日記の内容が新聞で報道されると、大きな反響を呼んだ。
悪法といわれながらも当時の食糧管理法をかたくなに守り、ヤミ米を食べることを拒んで配給食糧のみでの生活を強行した悲劇であることがわかったからだ。
「人を裁く者が法を犯して生きていけるのか」
不滅のテーマに身をささげた判事の短い生涯を追った。
◇
昭和二十二年八月二十七日、東京は連日の猛暑で、この日の最高気温は三四・八度を記録していた。
「被告人を懲役十月および罰金三百円に処す。ただし懲役刑については三年間、執行を猶予する」
三十三歳の判事・山口良忠(よしただ)は、東京地裁で被告人の四十四歳の大工に判決を言い渡した。
案件は、無許可でたばこを製造・所持したという物価統制令違反、煙草専売法違反事件だった。
厳かに判決公判を終え、判事室に戻ろうとした山口の意識が、ふいに遠のいた。
その瞬間、階段にかけた足が行き場を失い、山口は崩れるように倒れた。
急病ではなかった。倒れるべくして倒れたのだった。
◇
時計の針を戦時中に戻す。国は昭和十七年、国民が平等に食糧を得られるよう食糧管理法を施行し、各家庭に食糧を配る配給制度を始めた。
日本は前年、太平洋戦争に突入していた。緒戦こそ華々しい戦果を挙げたものの、この年、ミッドウェー海戦で連合艦隊が大敗を喫し、南太平洋の要衝・ガダルカナル島を失った。
戦局は次第に悪化し、国民の生活にも暗い影が忍び寄っていた。
食糧の配給制はその象徴である。
味噌も醤油も、そして衣服も点数切符制になった。
開戦一周年を記念して募集した「国民決意の標語」の当選作品は、「欲しがりません 勝つまでは」だった。
食糧管理法は戦後も続いた。
敗戦の後の食糧事情はさらにひどかった。配給されるのはわずかばかりで、遅れるどころか配給のない日も珍しくはなかった。
人々は自分の腹を満たすため、あるいは大切な家族を飢えから守るため、「ヤミ」と呼ばれる法律で禁じられた食糧を求めて走った。
当然、これら違法行為は厳しく取り締まられた。
山口は東京地裁判事として、ヤミで摘発された被告人を法廷で目の当たりにし、そして裁いていた。
そんな山口が、
「人を裁く身で、どうしてヤミを食べることができようか」
と、配給のみの生活を自らに強制したとしても倫理上はなにも不思議なことではなかった。
だが、この時代、山口の選択は死を覚悟しなければならなかった。
山口の身体は日に日にやせ衰え、ついには栄養失調から肺浸潤(しんじゅん)に侵された。
◇
「恐れていたことがついに…」
東京地裁から山口が倒れたとの連絡を受けた二十八歳の妻、矩(のり)子は、自身の身体も弱っていくことを自覚していただけに、配給だけの生活を続ける夫、山口の身を案じてきた。
矩子はすぐに佐賀県白石町の山口の実家に電話を入れた。
「主人を迎えにきてください」
連絡を受けた白石の実家では、地元の農学校で国語教師をしていた山口の六歳下の弟、良和が
「一大事じゃ、一大事じゃ」
と、すぐに汽車に飛び乗った。
「兄は立派な人間だった。長男でもあったし、(知らせを聞いた)両親の心配は相当なもので、これは一大事、すぐに連れて戻らなければと思った」
現在、八十五歳の良和は、こう振り返る。
当時、佐賀から東京までは汽車で二十-三十時間の長旅だった。
混雑した汽車のなかで、ずっと立ったままだったことを良和は覚えている。
久しぶりに会った兄、良忠のほおはこけ、髪も一気に後退しており、かつての面影はなかった。
しゃべることもおぼつかない兄を無事に佐賀まで連れて帰ることができるのか、不安がよぎった。
しかし、一刻の猶予も許されないと感じた良和は、兄を抱きかかえて再び汽車に乗った。
東京を発つ前、矩子には白石の実家に出発を知らせる電報を打たせた。
心配している両親を少しでも安心させるために。
案の定、佐賀へ帰る汽車も混雑を極めた。
「こんな病人を立たせたままで佐賀まで行けるのか…」
空席などなく、兄の身体をかばうように立っていた良和に乗客の一人が声をかけてくれた。
「ここにその人を寝かせてあげなさい」
乗客が車両の隅に人一人が寝られるスペースを空けてくれた。
兄をそこへ寝かせて休ませながら、ほぼ丸一日、汽車に揺られて佐賀に向かった。
そのころ、山口の実家がある白石町の八坂神社の境内には、本殿の前にひざまずき、ひたすら祈願する老女の姿があった。
山口の母、クマだった。
「重い病を患った体で、混雑した東京からの汽車の長旅、どうか無事持ちこたえることができますように。どうか息子を…」
母が必死で祈った、この願いだけはかなえられた。
山口良忠の故郷、佐賀県白石町は、佐賀市内から車で西へ三十分ほど、広大な白石平野の中心にある。
古代は海の底だった。
長い年月を経て遠浅の海となったこの地は、先人の手で干拓され、沃(よく)土になった。
白石町は有明干拓という壮大なロマンの末にできあがった。
自然であって自然でない。
秋には東の有明海まで豊穣(ほうじょう)な稲穂の波がそよぐ。
米の一粒一粒は、人々が干拓事業に注いだ情熱の結晶なのだ。
教育者であり、白石の八坂神社の宮司でもあった山口の父、良吾は、佐賀の干拓の歴史が千三百ページにわたってつづられた「佐賀干拓史」(昭和十六年出版)の主任編集者も務めた。
郷里を愛してやまない父子は、有明干拓地民の末裔(まつえい)だった。
山口は死を間近にして、生まれ育ったこの地に戻ってくる。
◇
昭和二十二年九月七日は、昼前にすでに三〇度を超す残暑厳しい日だった。
「イマカラツレテカエル」
倒れた山口を連れ戻しに東京へ行った弟、良和からの電報は、前日の夜、八坂神社に届いていた。
知らせを聞いた母、クマは、早朝から本殿前にうずくまるように長男の無事を祈り続けていた。
良和の妻、エイ子はまだ夜が明け切らぬうちに起き出した。
落ち着かない気持ちを鎮めようと、山口の療養所となる社務所の別棟二階の八畳間を丁寧にぞうきんがけをし、
「暑さが義兄の体に障っては」と、境内に何度も打ち水をした。
昼を過ぎ、きつい日差しが樹齢三百年以上の楠(くすのき)の巨木に照りつけていた。
クマは境内に生い茂るヤツデの茂みの陰にたたずみ、息子たちの帰りをひたすら待った。
午後二時近く、境内のすぐ前を流れる小川にかかった短い石橋の上に、つえをつき、良和にわきを支えられた山口の姿が現れた。
「良忠!」
クマはヤツデをかきわけ、駆け出した。
「お母さん」
声を絞り出した山口の手をクマが握り締めた。山口は泣きじゃくった。
自らが選んだ生き方に間違いなどあるはずがなかった。
しかし、比類ない孝行息子にとって親に心配をかけることは、理屈ではなく、悪でしかなかった。
「お母さん、すみません、すみません…」
口をついて出たのは、親不孝をわびる言葉だった。
意志の固さがうかがえる引き締まった顔つきに違いはなかったが、肉がそげたほお、後退してしまった髪、似合わない無精ひげ、やせ細ってサイズがまったく合っていない洋服…。変わり果てた山口のもとに父、良吾も駆け寄り、親子はただ手を取り合いながら無言で互いを確かめあった。
「兄はただただ泣いてわびていました。自分には厳しい男だったが、わたしら家族には優しかった。
親が身を切られるような思いで心配している姿を目の当たりにして、判事としてではなく、一人の子供に戻ったんでしょうね」
良和にとって、兄は常に背筋を伸ばしていた男だった。
その兄が泣き崩れてわびる姿を見せたのはこれが最初で最後だった。
白石に戻ってから、山口はほとんど動くことができす寝込んだままだった。
残暑が過ぎて秋の気配が漂い、風が冷たく感じられるにつれ、病状は回復するどころか次第に悪化する。肺結核も併発していた。
しかし、親が子を思う姿が、山口の堅い信念を揺れ動かしたのだろうか。東京ではだれが何といおうと、配給以外の食糧には手を出さなかった山口だが、白石で出されたものは口にした。
すでに一年以上もごくわずかな配給と水だけで過ごしてきた体は、そう簡単には食物を受け付けてはくれなかった。
それでも、故郷の米や卵、八坂神社の境内になる柿を少しずつではあったが、口に入れていた。
◇
山口が抱き続けた孝心は、生涯変わることはなかった。
昭和二十年一月、白石の実家に疎開させていた妻、矩子にあてた手紙からその一端が読み取れる。
このとき矩子はまだ幼い長男を伴い、おなかには二男を抱えていた。
「お父さんの病気は心痛に堪へぬ。
そなたと坊やが白石に行つたが為(ため)に今迄(まで)病気一つなさらなかつた父上に若(も)しものことでもありましたら僕はそなたを怨(うら)みます。
どうか、僕に代り父上母上をしたふ僕の心を心としてぜひ父上を元気にさしてあげて下さい。
(略)
僕から、父上と母上とがなければ希望は一切僕から消えてなくなると思つて下さい」
今の時代にこんな手紙を妻に書く男はまずいない。
山口は両親に対する愛情の深さをストレートに表現することに何のてらいもなかった。
そして、この手紙ではさらに「今日牛込のお父さんお母さんにもお会ひしました。お二人共お元気安心あれ、(略)坊やを抱へ、お腹を抱へ、そなたも大変だらう、健康を祈つてる」と、妻や妻の父母らに対しても同様の気遣いをみせている。
矩子はこの手紙を生涯、大切に保管し続けた。そして訪れた客に
「主人はこんな手紙を寄越したんですよ」
と、にこやかに語ったという。
他人がみれば、妻に厳しく感じられる手紙も、矩子にとっては、山口の律義さと一途(いちず)な愛情が感じ取れる手紙だったのだ。
今となっては、白石で配給以外のものを食べ始めた山口の心境の変化を知る術(すべ)はない。
老いた母の涙が、孝行息子の生への執着を再び呼び戻したのだろうか。
あるいは、すでに死を覚悟した山口が最後にできる親孝行として、食べてみせたのか。
もう二度と法服をまとうことはないと悟り、この時点で自身を判事の職から解放していたのかもしれない。
「よく神童とか、神様の申し子とか申しますが、山口君のようなお子様のことでしょうか」
山口良忠の小学校時代について、当時の担任だった岸川タケは、山口の生涯と実像を描いた「われ判事の職にあり」(文芸春秋)の著者で弁護士の山形道文に、こう語っている。
岸川は、佐賀県佐留志(さるし)村(現・江北町)の佐留志小学校で、山口を一年生から三年生まで受け持った。
当時、山口の父、良吾は別の尋常小学校の校長で、山口は父の転勤に伴って佐賀県内を三度、転校した。
小学生時代の山口の評価は、どこも寸分たりとも違わなかった。
学業は常にトップだった。
そして、山口を語るときに代名詞のようにいわれるのが「背筋がピンと伸びた正しい姿勢。めったに笑わない真面目で利発そうな表情」という表現だった。最初の三年間を過ごした佐留志小以外の二校(橘小、須古(すこ)小)では父が校長を務めていた。
「学業はずば抜けて、さすがは校長先生の子」
教師や机を並べた同級生からこう評され、小学生にしてだれからも慕われた。
岸川は山口について、こうも語っている。
「ほかの児童と違って、お話をしているとき、私から眼を離さないで、じっと、それはそれは清らかな眼で見つめているお子でした」
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まさに模範生の山口に多大な影響を及ぼしたのは、父、良吾だった。
良吾もまた、教育熱心な佐賀県の教育界で、だれからも尊敬のまなざしを注がれる人物だった。
良吾は赴任した小学校でドラスティックなほど、新しい試みに挑戦した。
橘小の校長に就いた大正十一(一九二二)年には、米国で開発された新教育法をいち早く取り入れた。
教師からの一方通行的な授業を廃止し、児童の自主的な活動と協同作業を通して能力を磨き、自己規制をしつけるというシステムだった。
そして何よりも重視したのが「郷土教育」だった。
教育の原点を郷土愛とし、郷土と先人を知ることで人材育成を図った。
良吾が主任編集者としてまとめた「佐賀干拓史」も、この延長線上にあった。
山口は、父であり師であった良吾が始めた新しい郷土教育の、文字通りの申し子だった。
県立鹿島中学(現・鹿島高校)に入学したのは大正十五年四月だった。
当時住んでいた須古から鹿島町へは鉄道が敷かれていなかったため、鹿島町内で下宿した。
弟、良和によれば、山口は「両親が心配だから」といっては毎週末、実家に戻ってきたという。
中学二年のときに実家が白石町の八坂神社に移ってからは下宿生活をやめ、実家から自転車で通った。
中学時代も変わらず成績優秀で、学籍簿には「態度端正」「忍耐強し」、さらには「級ノ模範タリ、同級友人間ノ信用厚シ」と書かれていた。
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優等生は昭和六年四月、県内随一の名門、官立佐賀高校へ進んだ。
ここでも申し分のない成績を修めた。
印象もやはりこうだった。「背筋をピンと伸ばし、頭の先からつま先まで一直線」「極端に寡黙」
さらに級友たちは異口同音に「授業が終わるとわき目も振らずに下校していた」と語る。当時流行していた哲学書をさかなに語り合うことも、喫茶店でレコードを聴くこともなかった。
つまり、青春を謳歌(おうか)することなどまったくなかった、ように見えた。
山口は急いで帰らなければならなかった。山口を待っている人々がいたのだ。
山口が佐賀高に入学したのと同時に、八坂神社の宮司に就任していた父、良吾は教職時代の退職金全額を投じて神社境内に私塾と幼稚園を建設した。
私塾は「弥栄(やさか)義塾」と名づけられ、昼間は農作業を続ける百人近くの農村青年たちが夜、足を運んで学んでいた。
授業が終了するや一目散に教室をあとにしていた山口は、自分の勉強のためではなく、父を手伝って、塾生に勉強を教えるために家路を急いでいたのだ。
「若先生」と塾生に慕われ、畳敷きの部屋に座卓を並べた“学び舎”で、漢文、国文、古典、公民をひざを突き合わせて教えていた。
弟の良和は「そりゃ、兄は親切極まりない男でしたから、しょっちゅう夜通し塾生に付き合って教えていましたよ。
よく塾で寝てましたから。
自分の勉強なんかする時間はなかったはずです。
でも、一生懸命で充実した日々だったと思います」と語る。
■□■
そして山口はただの堅物(かたぶつ)でもなかった。
高校の記念祭でのことだった。仮装で演じた童謡「雨降りお月さん」で、山口は赤ちゃんの涎(よだれ)掛けをして赤い鼻緒のげた履(ば)きで踊った。
何事にも一生懸命な山口はそれこそ無我夢中で踊り続け、皆を笑わせた。
多くの同級生の記憶から消えていた、この記念祭での“晴れ姿”が再び姿をみせた。
山口の生涯を追っていた山形に山口の同級生から連絡が入った。
「ある同級生の未亡人が夫の遺品を整理していたら、たまたま記念祭の写真が出てきた」
写真は二枚あった。級友たちと肩を並べ、笑っている山口と、面をかぶった山口が、そこにちゃんといた。
面をかぶっている山口を判別したのは、妻の矩子と弟の良和だった。
「この親指がそうです」
二人の指摘は同じだった。山口は中学時代、桜の木に登っていたときに何かに刺され、親指が曲がってしまっていたのだ。これが原因で戦時中に軍隊への召集がなかったという。
確かに山口にも青春があった。
夜間の私塾で若い塾生たちと夜通し語り合った青春も、仮装して懸命に踊った青春もあった。
ただ、級友たちの多くは知らなかった。
山口の死後、何十年とたってそれを知った級友の一人は、こういって涙を流した。
「ぼくらは何も知らなかった。ぼくたちの青春の中に山口はちゃんといたんだ」
日本人の肖像:大和の益荒男編 その5 山口良忠Ⅱ に続く
※本文は、すべて以下の産経新聞特集記事(山田智章記者筆) からの引用です。
【凛として】
(29)ヤミ米“拒否死”の裁判官 山口良忠(1)配給だけの生活 [2004年05月17日 東京朝刊]
【凛として】
(30)ヤミ米“拒否死”の裁判官 山口良忠(2)生への執着 [2004年05月18日 東京朝刊]
【凛として】
(31)ヤミ米“拒否死”の裁判官 山口良忠(3)神様の申し子 [2004年05月19日 東京朝刊]
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上記記事を勝手に転載しました。ごめんなさい。