いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

枝野氏の立憲民主党によって政治の流れがまた変わりました・・・55年体制からここまでの政治の動きをまとめておきます。

2017年10月03日 00時42分21秒 | 日記

 戦後の日本は、保守勢力として、日本民主党と自由党の2党がり
ました。一方の革新勢力は、右派社会党と左派社会党の2党があり
ました。
 1955年に、右派社会党と左派社会党が合併して日本社会党が
誕生しました。
 それを見て、日本民主党と自由党も、同じ55年に合併し、自由
民主党となりました。
 これで、日本の政治は、保守の自由民主党(自民党)と、革新の
日本社会党(社会党)の保革の2党が対立する構図となりました。
 これを、55年体制と呼びます。
 この55年体制、すなわち、自民党と社会党が保革対立するとい
う体制は、90年代まで、長く続きました。
 一見、2大政党のシステムのように見えますが、衆議院で自民党
がいつも230-260議席を持っていたのに対し、社会党は、せ
いぜい140議席、ひどいときには90議席ということがありまし
た。
 選挙のたびに、いつも、自民党が社会党の2倍の議席を獲得して
いました。
 そのため、社会党が政権を取ることはなく、政権交代が可能とい
う本来の2大政党ではなかったのです。
 海外諸国とくに中国や韓国は「日本は自民党の独裁だった」と言
う言い方をすることがありますが、しかし、それは、違います。中
国と違って、日本ではちゃんと選挙が行われ、選挙の結果として、
自民党が政権与党であり続けたのです。
 
 ただ、自社対立という状況で、国政の構図は極めて分かりやすく、
総選挙も、自民党がどれだけ議席を減らし、社会党がどれだけ議席
を増やすかということだけが焦点で、これまた分かりやすかったの
です。

 選挙は、経済情勢がモノをいいます。
 経済が良ければ、時の政権党が勝ちます。
 日本は、戦後一貫して、右肩上がりの経済でした。だから、政権
党である自民党が、いつも、選挙で勝ってきたのです。
 社会党が何を言っても、経済がよく、景気がよければ、国民は政
権党である自民党を支持してきたのです。
大変分かりやすい構図でした。

 この構図が崩れたのは、バブル崩壊によってもたらされた「失わ
れた20年」です。
 失われた20年は、おおざっぱにいって、1990年から201
0年の20年間を指します。
 なぜ1990年から始まったかというと、90年という年に、日
本のバブルが崩壊したからです。
 バブルが崩壊し、日本は、20年という長い間、デフレ不況に苦
しみました。
 これだけ長い間、不況が続くと、さすがに国民も、自民党に見切
りをつけます。
 そして、2009年8月、暑い夏の総選挙で、自民党は大敗し、
民主党が初めて政権を取りました。
 歴史的な政権交代でした。
 このとき、鳩山由紀夫首相が誕生するわけです。

 いま、民主党が政権を取ったと書きましたが、社会党は、どこへ
行ってしまったのでしょう。
 実は、1990年代半ば、バブルが崩壊して不況が始まったころ、
自民党と社会党、それにさきがけが、連立政権を組んだことがあり
ます。いわゆる「自社さ」連立政権です。このとき、社会党の村山
富市委員長が、首相になりました。
しかし、村山委員長は、首相になったものの、国のトップとして
の行政能力は、はっきりいって、芳しくありませんでした。村山首
相のときに阪神淡路大震災が起き、神戸市が壊滅するのですが、こ
のとき、村山首相が呆然とした表情でテレビニュースを見ている様
子が放送され、国民はがっかりしてしまいます。
 この「自社さ」連立政権が終わったとき、社会党はすっかり信用
をなくし、骨抜きのような状態になってしまいました。
 まさしく、いまの民進党のような感じだったといえます。
 そのころ、鳩山由紀夫氏らの鳩山新党ができ、骨抜きとなった社
会党の議員が大挙して移籍を図りました。しかし、鳩山由紀夫氏は、
社会党の全員が移籍されても困るとして選別を図り、これが「排除
の論理」と言われました。
 これは、いまの希望の党と民進党の関係にそっくりです。
 社会党は、長い歴史を自ら捨てて、鳩山新党に移籍しようとした
ため、事実上、消滅します。これが1996年のことです。

 ただ、一部の議員は、移籍をよしとせず、社会党に留まります。
それが、いまの社民党ということになっています。
 このときの社会党は、ちょうど、今回の枝野議員の新党・立憲民
主党のようなものです。

 自民・社会の2大政党が対立するという保革対立の図式は、こう
して、社会党が消滅することによって、なくなってしまいました。
 自民党は、したたかに生き残るわけです。

 鳩山新党は、その後、小沢一郎氏の率いる新進党、新生党との合
併、統合を繰り返し、民主党となります。
 その民主党が、2009年に自民党に勝ち、政権を取ったわけで
す。

 しかし、民主党政権は、鳩山首相、菅首相、野田首相と3代の首
相を出したものの、東日本大震災に見舞われ、その一方で、なお続
く日本の不況に何の経済政策も打ち出すことが出来ませんでした。
 とくに、このころ進んだ円高に、民主党政権は完全に手をこまね
いてしまい、2011年ごろには、1ドル=75円前後というとん
でもない円高を招いてしまいました。
 この円高で、日本企業は、とても輸出が出来ないとして、工場を
どんどん海外に移転してしまいました。
 生産拠点を失った日本経済は弱くなるばかりで、不況はどんどん
ひどくなります。

 民主党政権が国民から見放されたのは、やはり、経済でした。
 円高がひどくなり、企業が悲鳴を上げているのに、民主党政府は
何もしない。これだけ日本経済が悪くなると、国民は、時の政権党
に見切りをつけます。
 そして、2012年12月、暮れの総選挙で、民主党は大敗し、
自民党が政権に返り咲きます。
 このとき、自民党は安倍晋三総裁だったので、安倍首相が誕生し
たというわけです。

 2009年8月  自民党が大敗し、民主党政権が誕生。
 2012年12月 民主党が大敗し、自民党政権が誕生。

 これだけ見ると、2大政党制が成功したように見えます。
 しかし、民主党が政権についたのは、一回きりです。
 実際には、下野した民主党があまりにもひどいので、自民党だけ
が強い「一強体制」になってしまいました。
 民主党は名前を民進党に変えました。
 民進党は、安部自民の一強体制を批判してきましたが、その体制
を作り出したのは、ほかならぬ民進党のだらしなさです。
安倍首相の独走を批判するのなら、その前に、民進党のだらしな
さを猛烈に反省しなくてはいけないでしょう。

 そして、結局、安倍自民への対抗勢力は、民進党ではなく、思わ
ぬ場所から出てきました。
 もちろん、小池新党です。希望の党です。

 どうしようもなくなった民進党が、全員、希望の党に移る子とを
考えたのは、いま述べたように1996年に、社会党が鳩山新党に
移ろうとしたのと、まったく同じです。
 そして、同じように、「全員はだめです」と拒否されたのも、同
じです。それを「排除の論理」といって泣き言をいうのも、まった
く同じです。

 当時と大きく違う点があります。
 希望の党は、自民党と、基本政策が一致しているということです。
 希望の党は、安保法制を支持し、憲法改正を支持します。
 自ら「寛容な保守」を掲げます。
 そう。
 2017年10月という時点において、日本の二大政党、すなわ
ち、自民党と希望の党は、いずれも保守なのです。
 1955年体制が始まるまで、日本は、日本民主党と自由党とい
う2つの保守政党がありました。しかし、そのとき、革新政党も、
左派社会党、右派社会党と、強力な党があったのです。
 今回のように、自民党、希望の党と、ふたつの強力な保守政党だ
けが存在するというのは、日本では初めての政治状況でした。
 そのままでは、投票する政党がないという有権者もいたでしょう。
 そこへ、枝野氏が、革新勢力の結集を図って立憲民主党を作った
のは、日本の政治状況にとって、救いのような動きでした。
 憲法改正には反対という人は、自民党にも投票できない、希望の
党にも投票できない。どこへ投票すればいいんだという切羽詰まっ
た状況になって、初めて、枝野氏の立憲民主党が登場したわけです。
 
 立憲民主党がなければ、今回の選挙は、
 自民党 対 希望の党 
 でした。保守2党の対立という初めての構図でした。
 
 立憲民主党が出来て、
 自民党 対 希望の党 という保守対立の構図に、
 立憲民主党という革新政党が加わったことになりました。
 そうすると、保守対立ではなく、
 保守 対 保守 対 革新
 という構図になり、また意味あいが違ってきます。
ひとつ言えるのは、有権者にとって、有力な選択肢が生まれたと
いうことです。
 
 駆け足になりましたが、日本の政治の流れをまとめておきました。