イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

納期の話

2006年05月20日 22時03分37秒 | Weblog
5年前に上京し、翻訳会社に就職したとき、初めて「納期」なるものに直面した。
翻訳という仕事は、なにはなくても、納品を行わなくてはならない「納期」
という存在抜きには成立し得ないものなのだ。
たとえ西からお日様が昇ろうが、柳の下に猫がいようが、なにはなくてても、
納期を決めて作業が行われ、そして納期がやってくる。

そんなこと、どんな仕事でも当たり前じゃない?と思われたかもしれないが、
大学を出て、京都にあった、とあるミニシアターで数年間働いていたときには、
「納期」なんて言葉はほとんど使ったことはなかったし、
意識することもなかったのだ。
(「あった」と書いたのは、今はもうその劇場はなくなってしまったから。
大学生のとき、映画にどっぷりと浸かっていた僕は、
ろくな就職活動もしないまま、そのままバイトをしていたこの映画館に就職し、
酒と映画と仕事におぼれる日々に突入したのだった。)

代わりに、「初日」や、「最終日」のあわただしさはあったように思うが、
そもそも、映画館の仕事には、仕事を受注して、品物を作って、客先に収める、
という概念がない。上映作品を決定して、宣伝して、お客様が気持ちよく映画を
鑑賞してもらうためのサービスをする、というような流れで仕事が進んでいく。

だから、翻訳会社に入って、「見積もり」だの、「納期」だの、「物件」だの
なんとも味気ない言葉の嵐にさらされたとき、妙な気持ちになった。

そして、それ以来、悲しいことに、というか宿命的に、
抱えている納期がない日を過ごしたことがない。

僕は一生翻訳の仕事をしていきたいと思っているが、
ふと、このまま死ぬまで「納期」と一緒に過ごしていかなくてはならないのか、
と考えるとちょっと憂鬱になることもある。
でも、仕事があるということは本当に幸せなことだし、
こんな贅沢は言っていられない、という気がする。
調子がいいときは、納期のおかげで前向きに、気持ちにハリを持って
仕事ができるし、なんといっても納品した瞬間には言いようのない喜びを
(不安の方が大きい場合も多いが)感じることができるのだから。

納期についてはいろいろと思うところがあるのだが、
なんのまとまりもないところで、この続きはまたにすることにします。