イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

スティービー・ワンダーのように

2006年05月06日 21時33分46秒 | 翻訳について
GWももうすぐ終わる。
予定外のイベントがいくつも発生してしまったこともあり
目論見どおりとはならなかったのだが、
かなりの時間をPCの前に座り翻訳作業をすることができた。

いつもは会社でまわりがバタバタとしている
中で作業をしているのだが、
家にこもっていると勝手が違う。
誰の目があるわけでもなく、ひたすらに言葉をこねくりまわす。

世の中の翻訳者というものは、
ずっとこうやって毎日家で机に向かっているのだなあと、
しみじみ思った。

気分が乗れば、訳文を作り出す作業に熱中できる。
でも、漫然とディスプレイを見つめ、キーボードを叩いているだけでは、
味気なく、平坦な時間が孤独とともに流れていくだけだった。

そうではないはずだ。
翻訳者にとって、目の前にある原書、ディスプレイ、キーボードを叩く音、
そして脳の中を駆け巡る無数の言葉たち、
そんな渾然一体とした世界こそが、
きっと料理人にとっての厨房であったり、
音楽家にとってのスタジオのような、
神聖な空間であるに違いない。
その空間を、怠惰な日常の延長線上に置いてはならないはずなのだ。

たとえば、スティービー・ワンダーがピアノの前に座るときのことを考える。
彼が楽器と向き合った瞬間から、特別な何かが生まれ、音楽が始まる。
そこには、疑いもないし、迷いもない。ただ、音楽を前にして、
真摯な気持ちの彼が、必死に音楽を人に届けようとしている。

スティービーワンダーの仕事と自分のそれとを比較すること自体、
死に値するほとどの罰当たりなことのように思えるが、
それでも、彼が楽器に向かうときのように、
愛に溢れ、落ち着き、満ち足りた気持ちで、
自分もPCに向かい、仕事に取り掛かれたいいのに、とふと思った。
(おこがましいにもほどがありますが。。)
そして、彼が歌いはじめるときのように、
翻訳という素晴らしき宇宙にすっと入って
いくことができればどんなにか素晴らしいことか。

しかし、私には、まだまだ愛が足りない。翻訳LOVEが、全面的に不足!
本当に本当に修行が足りないと感じる今日この頃。