神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

3ヶ月で全てが変わってしまった

2020年05月18日 18時45分24秒 |  コロナ騒動

料理屋が、すっかり仕出し屋に変わってしまった

ありがたいことに友達や長いおつきあいのお客様からのご注文が

日ごとに増えてきた、売上金額としてはまだまだ道は遠いが、

4月末には宴会や法要のキャンセルの連続で真っ白だった5月の

予約帳が、毎日1行か3行程度でも黒い文字が毎日並んで居るのは

心強い、残念なのは3~5月の売上を足しても、去年の3月の売上に

届かないという現実だ

けれども今日は地元の建設会社から6月の懇親会の問合せが来た

まだ本決まりではないが、こうした動きが出てきたことはありがたい

こちらも今までとは違う安全第一の方針のもとに、テーブルの定数

換気、テーブル配置などを考えていかなければならない

こんな嬉しさと裏腹に、妙な不安感もある、それは「こんな時に

あの店は飲酒を提供する宴会を受けるのか」という声が耳の奥で

聞こえてくるのだ

それは感染した人の家族が、心ない声に鞭打たれ

その地に住み続けることが出来なくなったという噂を少なくとも

富山県と新潟県で聞いたからだ

感染=悪=国の言うことを聞かないで世間に迷惑かけた=自分勝手

などの図式ができあがってしまったためだ

各国の首脳が相次いで感染初めの頃に「これは戦争だ」と言ったが

まさに「相互監視」「定めに従わない非国民」的な風潮がおこっている

これは困ったものだ

飲食店は相変わらず、お客様が来てくれなければ潰れてしまう

来てもらうと嬉しいけど、万一感染者が来て、他の客に感染して

店の消毒、風評被害が怖い、というジレンマを背負っている

今は良くなっても、また年末頃から第二波、第三波が来る恐れを

有識者がテレビで全国に語る、それだけで構えてしまって、もう

何を信じて、どうすれば良いのかわからなくなってしまう

この苦しい時に多額の金をかけて店舗設備を変更してみても

何事も無く収束して無駄になってしまえば、そんなバカな事は無いし

それを怠ったために後で酷い目に遭うかも知れないし

アベノマスクが暑くなってから届きそうな感じになってきたが

もうマスクの大暴落が始まって、昔あった「数の子買い占め倒産」の

ように「マスク買い占め倒産」がおこりそうな雰囲気になってきた

マスクなんかしないで人混みの中を歩けることはなくなってしまうのだろうか

マスクをしていない人を見る目はバイ菌を見る目のようだ、そんな

風潮がいつの間にか常識になっていて、「あのば~か、マスクもしないで」

という言葉をけっこう聞く、しない方が悪いけどこんな事態が起こらなければ

する必要が無いマスクだったのだ

どうして始まったのかわからないが、最初は一つの町だけの出来事だったのだ

それが50万人近い人を殺し、500万人もの人を感染させ、今も広がっている

経済損失はもう計算不能なほど大きくなり、大会社さえも倒産した

この始まりは何だったのか,今も謎のままだ。

私が留守の時に「もう緩んできたから店も景気よくなってきたでしょ」と言って

寄付を募りに来た団体がある、腹が立つより悲しくなった。

 

 

 


営業が変わる 生き方が変わる

2020年05月17日 19時23分13秒 |  コロナ騒動

思った通り、暖かくなるにつれて感染者数は減っていき

退院された人も日増しに多くなってきた

やはり流行性感冒、インフルエンザの類いなのであろう

緊急事態宣言中の徹底した自粛も功を奏したが、気候も大いに

関係あるような気がする

外国のウィルスと東アジアのウィルスは似て異なるらしいとも

言われている、風土に合った形に変異しているのかも知れない

ともかく、これで夏に向けて鎮まって行ったとしよう

今日は自粛以来、始めて地元食堂に行ってきた、いつもの友達の

ラーメン屋だ、彼も5月6日迄休業していたそうだ、その前後は

中髙年女性ばかりの店員さん達が異常に感染を怖がって叱咤

しながらの営業だったそうだ

「ここは岩手県と同じで感染者が居ないんだから怖がるな!」と

背中を押していたようだ

県が解除したので、我が町もスローで動き出した、一番最初は

寿司や、喫茶店、鮮魚センター、食堂、一部のスナックなどだ

私と同じ規模の料理店は、団体客が皆無なので未だ動きようがない

我が店の数倍の規模を誇った料亭はコロナの影響もあって営業を

断念した、有名な老舗で私も何度も宴会やイベントでお邪魔したことがある

まことに残念としか言いようがない

さて収まったとして、そのあとの営業方法がまったくわからなくなった

コロナ前と同じにならないのは確かだと思う、政府が繰り返し言うのは

今後も三密は避けるように、大勢の中には出ていかないように・・・

ということで50人、100人の宴会は確実になくなるだろう、役所が率先して

政府に従うだろうし、労災事故が多い大工場や運輸会社なども従うだろう

もはや宴会に期待する時代は終わるかも知れない

外国のツアーも今年いっぱいは日本へはやってこないだろう、伸び始めた

台湾ツアーも今年はダメだ

葬儀や法要は自宅葬が暫く続きそうだ、人々の間には密になったら感染という

恐怖心が潜在意識として根付いたようだ

そうなれば今後私が進む道は自ずと決まってきた、それは苦しみでもあるが

チャレンジでもある、働き方改革の究極でもあるし、起死回生の勝負かも

しれない

これからの生き方は大きく変わるし、店の営業スタイルも変わらざるを得ない

そうしないと生きてはいけない

面白いことに、私は2年前から営業改革を始めていた,それまでは「2億円の

売上を10億円にする方法」なんていう類いのビジネス書ばかり読んでいたのだが

なぜかひらめいて読み出したのが「シンプル経営」と「売上を減らす」という二冊

それに従って営業スタイルを変え始めた矢先、今度の騒動が始まったのだ

おかげで直撃弾を食らうことだけは逃れた、それは売上と経費を意識的に

減らすことで奇跡的にフットワークが軽くなっていたからである

3年前にこのコロナを受けていたら、ひとたまりも無かっただろう

私にはそんな運の良さがついている、決して楽はさせてくれない神様だが

きわどいところでベルトを掴んで落下をとめてくれる

そんな神様と50年付き合ってきた、いよいよ70歳になった、でも神様は

まだ解放してくれない・・「もう10年働け~~~」と言っている

 

 


去って行く者

2020年05月17日 00時13分21秒 | 心 思い

次から次へと何もかも奪っていく

何が残る?

考えるのも嫌な夜

酒の力も今夜は負に流れる

悲しみだけの今日を消すには

酔って寝るだけ

けれども、いくら飲んでも酔わない夜

灯りをつけたままベッドに横たわる

明るい朝を待って


貧乏暇無し

2020年05月16日 08時53分23秒 |  コロナ騒動

仕事がないから、閑が多くて体が退屈しているかと思えば

そうでもない

そもそも「仕事がない」という言い方は間違っている

「仕事はある」自分が動いているのは何かしらの仕事があるからだ

肉体労働だけが仕事というわけではない、頭脳労働もあれば

勉強することも、知人のところを訪ねておしゃべりするのも立場上

仕事といえる

そんなわけでなかなか忙しい身なのである

こんな時だからこそ家の中の片付けや、障子張りの続きなど

したいのだけれど仕事にかまけてなかなかできない

それに、これからの営業方針を決めて社員に発表するのも重要な

仕事なのだが、予約のお弁当や宅配料理を作るのも私がメイン

なので仕入れに下ごしらえ、料理作りと僅かな数でも半日かかる

料理作りというのは1人前だけ作るのが一番たいへんだ、茶碗蒸し

1ヶ作るにも、卵を溶き、カツヲ出汁をとり、蒸し器で蒸し、具だって

5~7種は入れるから,ロスが大きい

結局、茶碗蒸し1つでも5つでも手間は同じで、ロスを考えれば

5つ作る方が遥かに効率的なのだ

しかも後片付けは1ヶでも5ヶでもほぼ同じ量、同じ時間だ

仕事数は少なくてもかかる時間は同じだから、本当はこの程度なら

やらない方が(利益につながる)

ところが損得だけで計れないのが商売だ、仕事量をゼロにすると

社員がいらなくなる、解雇しないにしても会社に来る必要がなくなる

この2ヶ月はまさにそのような状況だが、社員には交代で1ヶ月7日ほど

出社させている、部屋が多いのでその掃除やトイレ掃除、雑草取り

などしなければ来客がなくても汚れが浮き出してくる

それに私の仕事の手伝いやご飯炊き、後片付けなどそれなりに

仕事はある、因みに1日6時間の仕事だ

これだけの出勤だが給料は基本給100%補償している、だから経営は

日々苦しくなってくる、収入ほぼゼロで経費はいつもと同じだからたまらない

でもここは踏ん張りどころだし、自分が神様や亡くなった親父殿に試されて

居るのだと思って励みになっている

日頃からの人脈が、こんなときにはありがたく感じる、随分と助けてもらった

これからはコロナ騒動でご無沙汰していたコンサルタントの先生にも

アドバイスをいただいたりして、まったく新しい営業方針を作っていく

 

今までの常識は通じない世の中になる可能性はある、とくに飲食業は

それが顕著になる、食事を楽しみながら感染ではシャレにもならないし

食事ならともかくコミュニケーション重視の会席が、離れて横並び

無言で手酌でやりなさい」では何の為の会席かわからない

こんなやり方が定着するのだろうか、そうなれば宴会と言う言葉も席も

忘年会、新年会、歓送迎会、お楽しみ会、懇親会、親睦会などとともに

消え去ることになる

クリスマスパーティも運動会も文化祭も同じ事だ、毎年感染が起これば

伝統のお祭りもイベントも消え去る

だが政府だって専門家だって、そこまで悲観的ではないだろう

しかし「まさか」は起こりうる、でもおこらないかも知れない、これは

感染者は隣に居ないだろう、我が町には居ないだろう

しかし「いるかも知れない」と同じで、そんな疑心暗鬼の世界が続く、

続かないかも知れない

??? いやな世の中になった

そんなに深刻に考えないで今まで通り突き進める人間が生き残る気がする

いろいろ制限はされるけれど守らないでやれる奴が強い、強制力がない

というのはそういうことなのだ

こんなブログを書いている私は弱い人間なのだ、「他にやることあるだろ」って

叱られそうだ、突き進む奴は笑っているだろう

 

ここを乗り切れば、何度か書いたが70歳頃の危難を乗り越えれば平穏な

人生を送られる」という手相見の言葉が現実におこっている

「乗り越えれば」であって、「乗り越えられない」もありえる

ここで負けるわけにはいかないのだ

 

 

 


これからの生き方

2020年05月15日 23時42分15秒 | ライフスタイル

解除されたが、今まで通りにはいかないようだ

宴会のレイアウトも今までに無い方法でやらなければならない

今考えているのは収容人数を三分の一にすること

最大120人を40人程度にする

30人の部屋は10人 そんな使い方

売上ももう戻らないかも、半分になったら良い方かも

これからは大きな夢より小さな現実で丁寧なサービス

このスタイルだな

 


信州の山を見に行く

2020年05月14日 18時22分45秒 | ドライブ

お弁当を持って女房殿とドライブピクニック

今日は国道148号を白馬村まで行った

天気は超快晴、最高の日です

お弁当は私の特製で、あまりの量に女房殿も苦笑

大粒ほたるいか 白魚 地物わらび 錦糸  炙りサーモン  ブロッコリー

いちご  たくわん  柴漬け  焼き豚  甘辛昆布  

野菜炒め(玉ねぎ キャベツ しめじ Pマン)  コシヒカリ

誰も来ない山奥の峠で、お弁当を開いて食べました

女房殿と外で食べた前回は、もう記憶にないほど遠い昔です

これからは時々あってもいいなあ」って思いました

少しだけ家庭人に近づいているんだろうか?

食べ終えて林道を少し散歩したら、土手の上にワラビが6本生えていました

 

これからは山だらけのドライブになります

明星山(新潟) 南壁 1089m

雨飾山(新潟/長野)1963m

焼山(新潟)2400m

白馬村も快晴で素晴らしい北アルプスが見えた

八方尾根と後立山連峰 2800m級

高校生の時には主峰白馬岳2933m大雪渓を日帰りする元気があった(猿倉までは自家用車)

今、信州は菜の花がきれいだ

近くの大出公園へ  公園も数人の人が1人、2人でバラバラにくつろいでいるだけ

まったく接触もありません 気持ち良い風がさらさらと

ここからもまだ雪深いアルプスが見えた

とにかく走りずくめの半日でした

感染者数が減ってきたとはいえ実態はまだぜんぜんわかっていません

急ぎすぎる理由もわからない、市民の声を繁栄してほしいと思いますが

経営危機の人の声も繁栄してほしいし

韓国の轍だけは踏まないようにしたいものです

どれだけ第二波が広がるのか・・・・目を離せません

 


今日の夕日 能登と茜空 そして思い出

2020年05月13日 19時39分08秒 | ドライブ

ずっとずっと長いこと夕日から離れていた

20年くらい前には空が茜色になるたびにカメラを持って

車を走らせてあちこちの浜辺に行ったものだったのに

あの時のときめきは、すっかり身を潜めていた

あのときめきを取り戻したいなあ

 

久しぶりの能登が見える

彩雲のように能登半島が水平線の上に浮かんでいた

あんなに近くに見えても船で行けば2時間はかかるという

その昔、直江津の港から出陣した上杉謙信は、この湾を横切って

越中国に侵攻したのだろう

高校時代へたくそなバンドを組んでいたけど、加山雄三さんの「夕日は赤く」を

リードギターのNくん宅で聞いてコピー演奏していたんだよなー

でも下手だった、とても下手だった、そもそもリードギターが音楽になっていなかった

それは「ダイヤモンドヘッド」に挑戦したとき「絶対無理だ」と悟ったんだ

結局、ベンチャーズは「パイプライン」一曲しか演奏出来なかった

もともとマスターした曲は6曲しかなかったんだ、それで同級生にチケット売って

コンサートをやったんだから良い度胸だったね、リーダーは

もっとも一枚500円だったのに3~4枚しか売れず、後は100円で数枚

最後は無料で配って歩いた

曲は「ブルーシャトウ」「パイプライン」「星に祈りを」、黛ジュンの曲を2曲

「霧の彼方に」それと「恋のハレルヤ」だったかな? しょうもない曲ばっかり

やっていた、私的には勿論ビートルズをやりたかったんだ、でも『英語ぉ~~!』

っていう校風だから無理だった、そして「思い出の渚」

見に来ていた奴が「俺に弾かせろ」とか言って乗り込んでくるし、メチャクチャ

だった、そもそも地区の小っちゃな公民館が会場で、見に来たのは10数名

ほとんど無料の客だから何してたんだかわからない

それでもあのあとの秋に2000人の前で2曲演奏したんだ

それは運動会のクラス対抗仮装大会だった、エレキギター禁止の学校で

堂々と校則に触れずに、体育館から100mコードを引いてアンプ演奏した

仮装大会の出し物「サーカス団」、その楽団と言うことだから、さすがの

カチカチ頭の校長も「ウンともスンとも」言えなかった

一度、学園祭での演奏を校長に潰されたから、まさにリベンジなったのだった

あれは「青春デンデケデン」そのものだった、田舎の坊主頭バンドだったから

 

 

 

 

 

 

 


まだ終わってないのに~日本海夕暮れ

2020年05月13日 13時30分15秒 | 地理

コロナ感染で若いお相撲さんが亡くなったのにはびっくりした

指定都府県以外を一斉に緊急事態解除というのもびっくりした

下火の傾向はあるけど「まだ終わってない」

なんで突発的とも思える措置に踏み切ったのだろうか(まだ実行は

されてないけど)、休業補償金が賠償金みたいにこれ以上出ては

たまらん、休まなくても良いからあとは自己責任で稼ぎなさい」

ということなのか?

指定県でも茨城県なども解除対象だとかで、逆に茨城県知事、群馬

県知事などが解除しないでほしいと言ったとか

未解除の地域からパチンコや買い物や観光にどっと入り込まれれば

感染ゼロに到達したのに再び増加する懸念があるからだ

段階的に解除されても食堂とは違い、大人数を集める飲食業の解除は

当分先になるし、そうなっても役所や大企業にその気が出るまでは

開店休業が続くだろう、道は遠く、そのまま道は途切れるかもしれない

とほほ・・・・・・・・

そんな時、届いたのは厚生年金の「被保険者資格喪失届け

70歳到達届け」だった

国民年金10年以外の41年間払い続けた厚生年金もいよいよ

おしまい「あとは余生をおくりなさい」ということだ

いよいよ大台に乗った、急に先が見えてきた

ようするにゴールテープが長い人生ではじめて見えたのだ

(あそこがゴールなのか)   夕暮れ時の寂しさ・・・・・

 

夕べは期待した赤い夕日は見えなかったが、黄金色の夕暮れ

波のざわめきや黄金の鱗が見えた

 


終わった 終わった

2020年05月12日 09時40分21秒 |  コロナ騒動

今日は暑くなりそう

終わった終わった もうおしまい

私の中で、もうコロナ騒動は収束

小学生 中学生の登校風景 交通安全のボランティアさんごくろうさん

天気も良いし 昨日の芝桜も良かったし

この町にいる限り もうおしまいにします

相変わらず仕事はないけど、そんなのは「神様の言うとおり」

なるようにしかならないんだから 慌てません

それより大好きな5月の太陽と風を楽しみます

今日は港周辺を少し ほん5分だけ散歩

やっぱり海は気持ちいいなあ

 


陽気に誘われて気分転換

2020年05月11日 18時10分44秒 | 地理

ところによっては30度超えという予報の今日、我が町も朝から

強い日差しだが、やや強めの風が吹いていて意外と涼しい

新潟県上越市板倉の「『えしんの里』の芝桜がきれいだから見に行ったら

良いよ」と飲食業仲間から教えてもらって、昼の仕事を終わらせてから

女房殿と高速を飛ばして行ってきた

その飲食業仲間は家族三人で食堂を経営していて今日から営業を

再開した

私は相変わらずだから、天気も良いし閑もあるしということで出かけたのだ

少し山に入ったところに温泉があって、そこは今も休業しているが

その周囲には芝桜が植えられていて目を楽しませてくれている

見に来ていた人たちは、私たちの他には5組10人ほどで、ほぼ接近も

接触もせずに30分ほど見て帰宅した

「えしん」とは親鸞聖人の妻、恵信尼のことである、ガイドブックによると

恵心は越後の生まれで、親鸞が越後に流罪となった時に身の回りを世話

するうちに夫婦となったらしい

晩年はこの板倉に住んで、ここで87年の生涯を閉じたと言うことである

因みに親鸞聖人は90歳の長い生涯だったという、鎌倉時代である

箕冠城

戦国時代の越後板倉の豪族、大熊朝秀の居城

長尾景虎(上杉謙信)に従い各地で戦った有力豪族だったが、豪族同士の争いから

越後を裏切って甲州武田晴信(武田信玄)に寝返った、以後武田家に使えて、共に滅んだ