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日本の歴史 おさらい⑫

2016年11月22日 22時46分13秒 | 日本史

昭和17年はミッドウェイの大敗北があったが、フィリピンを占領するなどまだまだ互角の戦いを続けていた

南の島々を次々と占領した日本軍に対して、アメリカ軍が最初に反撃したのはガダルカナル島であった

この島を巡って、互いが何度も上陸戦を敢行してとったりとられたりを繰り返した

またこの島の周辺では、そうした上陸部隊の作戦遂行を助けるために日米の海軍の海戦もたびたび起こった

東京都の約2.5倍の島を巡って半年間の攻防が行われたが、作戦の失敗で日本軍は2万人ほどの兵を失い

多くの艦船と飛行機も失った、何よりもベテランパイロットを消耗したことで今後の航空戦の劣勢を招いた。

またガダルカナルでの兵士の死亡原因は戦闘より飢え死にとマラリアなどの病死の方が多かったと言うことだ

この島を含めたソロモン群島の周辺は、今も船(軍艦)の墓場と言うほど多くの艦船が浅い海底に沈んでいる。

日本海軍と航空隊はこの島の争奪で消耗しきったと言って良い、このあとの補充がつかない日本と、豊かな

原材料と大きな工業力を持つアメリカ、この差が戦争の行方を決定づけた。

翌18年初頭、ガダルカナルの軍は撤退してガダルカナル奪取の作戦は完敗に終わった

 

18年4月には連合艦隊司令長官の山本五十六が飛行機で戦地視察中にアメリカのP38戦闘機の編隊に

待ち伏せされて戦死した、日本の暗号がアメリカに知られていたらしい、既に諜報戦でも日本はアメリカに

負けていたのである。 山本の戦死は国家にとっても海軍にとって大損失であった。

 

ガダルカナルを日本軍があきらめると、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの連合軍は、ソロモン群島や

南洋の日本軍基地に対して次々と攻撃をかけていった、北方のアリューシャン列島でもアッツ島、キスカ島の

奪還作戦を行い取り返した、キスカ島では劣勢の日本軍が密かに脱出に成功したが、アッツ島の守備隊は玉砕

した これから終戦まで各地の戦場で日本軍の「玉砕」「万歳突撃」「神風特攻」が繰り返し行われるようになって

いく。

9月には最大の島ニューギニアにもアメリカ軍が上陸、戦闘の末日本軍は撤退する、こうして南太平洋の島々は

連合軍の占領地域が広がっていった。

これからの連合軍の侵攻作戦は台湾、フィリピン、グアム、サイパン方面となる。

アメリカ軍の主力は、屈強なベテラン航空隊が存在するラバウル島などは爆撃だけにとどめ、占領しない方針に

転換、そして次の目的地フィリピンの奪還に向けて作戦を進めた。

そのため、包囲されたラバウル航空隊は全体的な作戦から取り残され、上空にやってくる敵機を追い払うだけの

仕事になり、少しずつ消耗しながら終戦を迎えることになる。

 

18年になると国内では食糧事情も悪くなり、米や味噌などの日用品は配給制になった、また国家の非常事態であり

個人の自由は最小限に制限され、工場などは閉鎖、軍需工場の生産だけに重点が置かれ、国民は国や自治体の

命令で軍需工場の労働に配属された、国民の生活はどんどん窮屈になっていく

戦死者が増えるに従って兵の補充のため、18年秋にはとうとう、これからの日本の頭脳となるべきエリート大学生

にも徴兵が発令され(学徒出陣)優秀な頭脳の持ち主が一兵卒として銃剣を与えられて戦地に送られていった。

こうした南洋諸島の相次ぐ敗戦とは裏腹に、満州から中国、インドシナには強力な陸軍が百万以上存在していて、

連日有利に戦争を遂行していた、その鼻息は荒く、インドを襲いイギリス軍を追い払いインドを独立させようという、

インパール作戦の試案ができあがっていた。

19年の3月にはインパール作戦が開始された、これと競うように中国大陸の日本軍は、中国中南部を縦断してインド

シナに達する大作戦を決行した、このように大陸の陸軍は、太平洋の海軍や島々で苦戦する陸軍と異なり意気は揚々と

していた。

インパール作戦は補給の困難から食料弾薬が思うように調達できず夏には撤退が始まった、しかし連合軍の追撃は

激しく日本軍は退却路に5万からの兵の屍を置いていくことになる、後にこの街道の悲惨さから「白骨街道」と名が付けら

れた程だ、因みに父の従弟も、この作戦に参加して両足を砲弾の破片が貫通、手榴弾で自決を迫られたが戦友に助け

られて英軍の捕虜になった後、無事に帰国できた。

インパール作戦は大敗北で失敗に終わったが、中国大陸縦断の作戦は予想外の勝利で完遂した(大陸打通作戦)

しかし19年の戦局に於いて諸手を挙げて喜べる勝利はこの一戦くらいで、他は負け戦の連続、しかも玉砕が相次いだ

6月にはマリアナ沖海戦で日本海軍は虎の子の航空母艦3隻を失う敗北を喫した、ミッドウェイ海戦同様艦載機も

大被害を被った、続いて7月8月にはグアム、サイパン、テニアンの3島が相次いで玉砕、アメリカ軍が占領した、ここを

占領した意味は大きい、B-29が東京や名古屋などの都市を燃料補給なしで、ぎりぎり爆撃できる距離だからだ。

だがアメリカ軍は本土爆撃は急がず、次の拠点確保のためフィリピン、台湾、沖縄をターゲットに爆撃を開始した。

どこに上陸するか予測がつかず、日本軍は各島に兵力を分散配属するしか無かった、そのため集中的に攻撃できる

米軍より常に兵力的不利が続いた。

豊臣秀吉が小田原北条攻めの時、関東一帯に散らばる北条の支城を一つずつ落城させていった状況と同じである。

10月になって米軍の次の攻撃目標がフィリピンであることが明らかになった、フィリピンは日本と同じ島国でそれぞれの

島に米軍は上陸作戦を開始した。

レイテが占領されると日本海軍は残った戦艦などを動員して、レイテ湾に攻撃を仕掛けた、その中には世界最大の

巨艦大和型二番艦「戦艦武蔵」も参加していた、しかし不沈戦艦と言われた武蔵も魚雷と爆弾を雨あられのごとく

艦に受けて轟沈した。

またしても日本海軍の大敗北、レイテ突入戦は失敗に終わった、それは日本海軍の制海権を失ったことでもあった、

これ以後、太平洋はアメリカ軍の制海権、制空権下におかれて日本の艦船は相次いで攻撃され沈められた。

特に悲惨なのは台湾や沖縄に向けて、兵員や物資を積んだ輸送船団が潜水艦に襲われて沈むことである、船団は

集団で行くが、目的地に到達できる船は半分にも満たず、敵と戦う前に海の藻屑と消えた兵士の数の方が、戦闘の

戦死者より多くなった。 私の身の回りでもこうした輸送船乗りが2人いるが、いずれも運良く生き延びたのだが同僚の

艦船が撃沈されるのを嫌と言うほど見てきたと言っていた。

日本軍は艦船不足、飛行機不足、燃料弾薬不足、兵員不足、熟練兵不足となり、いよいよ正攻法では米軍に勝てなく

なった,そこで考え出したのは精神力と愛国心だけが武器の「神風特攻隊」、飛行機に片道燃料と爆弾を積んで敵艦に

体当たりする戦法である、誰が考えたのか、もはややけっぱちのヒステリック戦法である、人命第一の米軍では思いも

つかない人命軽視の作戦、人間消耗品作戦だ、これを断れば「腰抜け、非国民」の罵声と鉄拳が飛んできそうだ。

全ての特攻隊員が、御国に命を捧げられて喜んで体当たりしていたとは思えない、修羅場をくぐった兵隊体験者でも、

特攻はやるべきではないと語る、こうした攻撃はただ若者を殺すだけでこの時点ではもはや、敵艦の1隻や2隻沈めても

戦局に何ら影響ないところまで来ていたのだから。

どこでこの戦争をやめるのか、不思議なことに戦争をやめようと言うべき人が誰だったのか、未だにわからない、誰も

それを言い出すことができない雰囲気があり、国民にも軍隊にも政治家にもマスコミにもやめる勇気をもつ指導者が存在

しないのが当時の日本だったのだ、そのため死なずとも良かった人たちが、このあと終戦までの1年足らずで100万人

以上死ぬことになる。

                              つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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