神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

続「PERFECT DAYS」

2024年05月03日 20時19分24秒 | 映画/ドラマ/アニメ
 もう一度見たいと思った「PERFECT DAYS」がGWに再上映されることになり是が非でも見ようと思っていた。
一週間足らずの上映日数であったが、私は29日からおばさんの法事、漁師の手伝い、闘病の先輩との再会、そして長野ドライブ、昨日は半日浜辺で息子にお付き合いとずっと日程が埋まっていて、とうとう今日3日を残すだけとなった。

それで行く気満々だったのだが、三か月前から慢性的に消化器系に不調が続いていて今日は行く自信が無い
それにずっと出ずっぱりの日が続いたので、気持ちを休めるためにも今日は休養が必要だった。
温かい日が続き、どうせ家にいるなら予定より三日早いが野菜の苗の植え付けをすることにした
また樹木の葉が茂りすぎているので、それらの剪定もすることにした。

 

そんなわけで気持ちだけ「PERFECT DAYS」に持って行き、考えながら作業をしたら、前回とは違う視点で見えて来た。
前回は彼の規則的な生活に目が行っていたが、今日思ったのはこうだ

彼の暮らしは実にシンプルで家財道具がほとんどなく、令和の暮らしとは思えないほどだ。
テレビ、ラジオが無い、新聞も取っていないし読まない、車に乗ってもラジオは聴かずカセットテープで60年代のポップス系を聴いているだけ。
すなわち、彼は世間のニュース、芸能、スポーツ、経済、戦争、財テクなどには全く関心を持っていないように思える。
また炊事もしない、朝は自販機のドリンクを1本、昼はコンビニ食、夕食は毎日の行きつけの食堂で一杯流し込んでから食べる。
家に帰ってからは趣味の写真の整理、仕分け、そして寝るまで本を読む
彼のウィークディの生活はこんな風にシンプルで、人との関りも仕事上で最小限にとどまっている。
休日の日曜だけが唯一、人と関わり、酒を飲んで人間的な感情を現す。


彼の生活を見て思ったのは、「貧しい」とか「倹約、質素、無関心」に見えてそうではない、あの生活は記憶がある
私が幼児だった昭和25年から32年頃までの我が家の暮らしに似ている
朝ドラで戦前の昭和から戦後33年頃までの家庭の様子が『虎に翼』『らんまん』でも描かれたが、わが家とは比べ物にならない良い暮らしぶりだ
わが町でも駅周辺の商店街の人たちの暮らしは上記の家庭に似ている

彼、平山の暮らしは一人暮らしだから、昭和20年代のわが家よりももっとシンプルだが、当時の我が家には父の手作りのラジオがあるだけで、新聞も取っていなかったし、雑誌の類もなかった
父の趣味と言えば平山同様に写真を撮ることだった、二眼レフのカメラで人ばかり撮っていた。

家財道具は母が嫁入りの時に持って来たタンスだけで、最初は仏壇も神棚もない家だった
ほんとうにそれ以外、何もない家だったのだ、『かまど』と『いろり』はあったが、水道もなく、家の外の『ポンプ井戸』で水を上げて使っていた。
乗り物は父の仕事用の自転車だけで

そこで肝心なのは、ではその生活がみじめで辛かったかと言えば、それは違う
貧しいかと問われれば、それも違う、我が家の近所の家もたいがい似たり寄ったりだったから少しも貧しいとは思わなかった
何よりも食べ物に不自由をしていなかったから、美味しいい魚を食べて、配給で不足する米も父が闇商売で魚と物々交換してきて、米だけは売るほどあったのだった。

平山の暮らしと同じく、家の中はラジオのドラマ以外聴くこともなく静かに暮らしていた
親父夫婦の他は幼児と赤子だけだから、特に話すこともなくゆったりした時間が流れていた
海辺の我が家は夏には北向きの窓から浜風がそよそよと入って来て、静かな中でいったいどれだけ昼寝をしたのだろう
あの頃の我が家の暮らしも、平山の暮らしも静けさの中にあって、静けさという幸福感が満ち溢れていた

不必要な情報、心を揺るがす情報、憎しみや優越感を得る情報、情報社会と呼ばれる現代は小学生までもがスマホやIT機器で情報を得ている
正しいことも誤ったことも、それが真実かどうかもわからず騒ぎ立てる

何もしらない世界、知ろうとしない世界で暮らすのは、ある意味、幸せなのだ
人の生活レベルと比べることもなく、自分の生活に満足できれば、こんな幸せはない
われわれは南の孤島で暮らす人たちを文明から離れた不幸な人々と思うかもしれない、だが彼らに静かな生活がある限り、我々せせこましい、あるいは常に不満と戦争を背負っている我らよりずっと幸せかもしれない。

知らない幸せ、持たない幸せ、この映画は人間として本当の幸せは何かを描きたかったのかもしれない。





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(88) 長尾家 1

2024年05月03日 10時38分08秒 | 甲越軍記
 ここ越後の国に一人の英雄が生まれた
軍法を内外に余さず行き渡らせ、数百年の今に至っても、その英名を残す。
名を上杉弾正大弼(だんじょうのだいひつ)輝虎入道謙信と云う。
その先祖は桓武天皇より出でて、村岡五郎良兼の末葉なり
良兼より六世の孫を太郎景明と云う、景明の二男次郎景弘、初めて長尾と改称する。
代々、上杉家の老臣なり、そもそも上杉家と言うの足利鹿苑院殿義満公の時代、上杉民部太夫憲顕の末子、左近将監(さこんしょうげん)憲栄に越後国を賜る
しかし憲栄には出家遁世の志があって伊豆国大石の郷、如意輪寺に閑居した。

これによって越後国内は国中の諸士が蜂起して上杉家を争って奪おうとした。
上杉家の老臣、長尾筑前守高景は大いに驚き、鎌倉の古主上杉左近将監憲栄の兄、上杉安房守憲方の子、龍命丸を越後府内の城に迎えて、上杉民部大夫房方と号して長尾筑前守高景が馳せまわって忠義の士を集めて、逆臣を討ち滅ぼして越後を安定させた。
後に法体して、長尾高景入道魯山と号す。
魯山に二子あって、嫡男を長尾上野介邦景と云い、これは越後三条の領主の祖となり、二男を長尾左衛門佐頼景と云い、これ越後府中長尾謙信の祖である。
頼景の子、信濃守重景は父に先立って死んだ、重景の子、信濃守能景(よしかげ)が祖父の家を継いで武略を天下に振るう。
その子、長尾為景が家を継ぐ、これが謙信の父である。

長尾家は代々、越後守護上杉家の老臣忠功の家であるが、六郎為景の代になって父祖の忠義にいささかも似ず、性質は欲心深く、我意をもっぱら通して上杉家の老臣、石川、千坂、斉藤、中条、加地、柿崎、本庄らを見下して政治を思い通りにしていたが、為景は大身(=勢力が大きい)の上に猛威を振るっていたので誰も是を制することができないでいた。