松倉の城が陥落して、宇佐美駿河守の軍はここに入って暫しの休憩を取る。
長尾為景は、更に放生津の城を乗っ取ろうと大軍を率いて攻め寄せた
当時、京の都は戦乱に明け暮れていて、公家たちは戦乱を避けるために、それぞれの地方の領地に避難していた。
この放生津(ほうしょうづ)の城にも、徳大寺大納言は畠山尚慶の娘の子で畠山尾張守種長の甥であったので、畠山の分国である越中へ一門の公卿と共に乱を避けて来ていたのである。
ところが、その城に長尾為景の大軍が越後から攻め寄せて来た
越後勢は恐ろしい程の鬨の声を高々と上げて、怒涛の如く乱入してきて、おびただしい数の鉄砲を撃ち込んできた。
城内は戦を知らぬ堂上人(公家=貴族)と僅かな国侍ばかりで、とても防ぎきれず途方に暮れていた
為景は城方の手ごたえ無いことを感じて、ますます勇気まして柵を打ち破り、城壁をよじ登る
城方は長刀などで防ごうとすれども、敵の勢いを防ぎきれず越後勢は次々と城内に切り込んできて溢れた
間もなく陣屋に放火すれば、たちまち炎は盛りとなって越後の者どもは煙火の下を自在に暴れまくって城方を討ち取る
城中はうろたえ防ぐ者も無く、公家の女房上臈(奥、側室、女中)らは泣き叫び逃げ惑い、火に入って死ぬ者あれば、生きて雑兵に奪い去られる者もあり、目も当てられぬ始末となった。
ついには徳大寺大納言ら九人の公家は自害して泉下の鬼となる。
越中の諸将は放生津の城が囲まれたと聞いて、これを救おうと神保左京進良衛、江波五郎、松岡長門守らが八千騎を率いて揉みに揉んで駆け付けたが、すでに落城と知り、ここで陣を張って越後勢を待ち受けた。
既に勇み立つ長尾勢は、越中の八千騎など物の数ではないと勇気百倍にて攻め寄せる兆しを見せる
越中の三将は軍議を開き「いかにも越後勢は勝利に沸き立って、その勢いは恐ろしい、しかも我らに倍する大軍であればなおさら我らが勝利すること得難し
ここは策を講じて待ち受けるのが上策である」
そして一帯の原野に数十丈の落とし穴を数十か所掘って、その上に芝をかぶせて穴を塞ぎ、平地の如くに見せかけた
そして越中の諸軍は落とし穴を前に見て、その後方に陣取って越後勢の来るのを待ち構えている。