一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

「週刊文春」のクズ記事

2018-01-24 01:10:50 | プライベート
18日(木)発売「週刊文春」の目玉は、小室哲哉の不倫の記事。これに対し19日、小室哲哉に釈明会見があるとかで注目されたが、その席上で小室哲哉は、この騒動のけじめをつける意味で、音楽プロデュース業の引退を発表してしまった。
私は小室哲哉の積極的なファンではないが、彼プロデュースのヒット曲は数多く聴いている。さすがに寝耳に水の衝撃だった。
しかも休業ではなく引退とは穏やかでなく、私は、こんな事態に小室哲哉を追い込んだ、週刊文春が腹立たしくなった。
そもそも私は不倫に寛容で、こんなものは当事者間の問題だから、外野がハタからガタガタ抜かすな、というスタンスである。
今回の会見で小室哲哉は看護師との性行為を否定していたが、仮に認めたとしても、私にはどっちでもいい話だった。
それよりも小室哲哉が現在置かれている状況、介護の大変さ、音楽制作の苦悩、満身創痍の状態が伝わってきて、私はいたたまれなくなった。たとえば耳鳴り(難聴)ひとつとっても、私自身が12年間患っているから分かるのだが、これは本当に辛いのだ。
音楽制作を考えてみる。これ、将棋に譬えれば、対局をすることだろう。むろん小室哲哉も、楽曲を創るだけなら、すぐ創れるのだろう。しかしそれは将棋でいうところの凡局であって、ファンが求めるのはつねに「名局(曲)」なのだ。これが厳しい。
小室哲哉がすべてを投げ出したくなった気持ち、私には分かるのである。

今回の引退宣言を、不倫の記事とは別に考えるべき、と言う人はいる。しかし記事が引退の後押しをしたことは確かだろう。
仮に小室哲哉がかねてから引退を考えていたとしても、月日が経って状況が変わり、周りから説得されたら、引退を(宣言せずに)撤回していたかもしれない。
しかし一度宣言してしまったら、復帰するのは難しい。ビートたけしではないが、引退後の復帰は、とんでもなくマヌケな話だからである。だから、絶対に引退宣言してはいけなかったのだ。
さらに、何で今回は週刊文春に批判が起こったのか、と訝る人もいる。
これは日本国民の堪忍袋の緒が切れた、と私は解釈する。国民は週刊文春のやりすぎの報道に、不満を持っていたのだろう。どこかで批判したかったのだろう。
そのタイミングを測っていたところに、今回小室哲哉の介護話と引退宣言で、一気に爆発してしまった、と考える。
むろん私も同じ立場で、こうも下世話な話を連発されては、さすがに嫌悪感をもよおしてきた。そこでどうなんだろう。今や三流クズゴシップ誌に転落した週刊文春には、もはや存在価値はないと思う。廃刊がふさわしいと思う。
しかしその、廃刊に持って行く方法が分からない。
たとえば不買運動をしたところで、週刊文春を買う人は買う。文春砲のツイッターには、該当記事に4,300以上のツイートが来ていたが、仮に彼らが全員週刊文春の読者であり、これから買わなくなったところで、4,300部しか減らないのだ。
しかもこういうクズ媒体は、テレビやSNSで話題になることで発行部数が伸びる、というゾンビ性がある。世間の週刊文春への批判なんて、編集部はちっとも堪えちゃいない。小室哲哉の引退も何とも思っちゃいない。むしろ大きく話題になって、次号が売れる、と高笑いしているのである。私の今回の記事も、「宣伝してくれてありがとう」にすぎないのだ。
あ~不愉快だ。どうしようもなく不愉快だ!

私は還暦を過ぎた小室哲哉がどんな曲を創るのか、聴いてみたかった。それは羽生善治竜王が還暦を過ぎてどんな将棋を指すのか、という興味に似ている。
しかし引退したらもうダメだ。私の希望が叶わなくなったのが、悔しい。
コメント
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