



満福寺は、讒言を受けた源義経が兄の頼朝との和解のため、鎌倉に入るべく一時宿所とし兄への手紙を書いた寺として知られる。
満福寺が相模国腰越にあったので、その手紙を「腰越状」と呼ばれる。
弁慶が下書きしたと伝わる次の「腰越状」が寺に残る。

「不顧為敵亡命」(敵のために命を落とすことも顧みず)という6文字の脱字があり、これを弁慶が加筆したとされ、同寺に残るものは下書きになる。
文末(写真)に「元暦二年五月日 源義経 進上 因幡前司殿」とあり、義経が頼朝側近の大江広元(因幡前司)宛に書状を差し出している。



弁慶の立ち往生 天井は龍
開山は行基(668~749)で、寺紋が笹竜胆なのは満福寺が源氏ゆかりの寺であるということを示している。
本堂内襖絵に安宅関


弁慶の腰掛石、弁慶の手玉石があり、また「腰越状」を書く時に墨を摺る水を汲んだ硯の池、弁慶手沢の椀、錫杖等々がある……。




【 2015年02月10日を加筆 】

この後、本格的に源平合戦が繰り広げられますが、この時からわずか1年ほどで平家を滅亡させるのですよね。
ドラマでも間もなく腰越状のシーンが出てくるでしょうね。
楽しみにしています。
頼朝は、義経に源氏の立場を噛んで含めることをしていないのは、歴史を知る後世の者からすると残念なことです。
頼朝に武力は皆無で、身一つの源氏という旗印しかないのを自覚してますから、後白河法皇に牛耳られては敵いません。
戦術家義経は政治的能力はなかったのでしょう。
平家討伐の最大の功労者・義経を追討して鎌倉幕府での源氏は3代で滅んでしまいました。
「鴛鴦の契り(おしどり夫婦)」は、哀しいお話しですが、教訓めいてもいます。
ひとの心は、他人が強制して動かすことなどできません。
肝心な「オシドリ(鴛鴦)」は、毎年冬にパートナーを替えていたなんて( ^ω^)・・・。
義経の首は、首実検後に捨てられ藤沢にたどり着き、その地に頼朝が白旗神社を建てたそうです。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/5853e2553f04df00655594edb2fa6f21
司馬遼太郎が次のように解説しています。
革命軍の野戦司令官が、古い律令体制から官職によって取り込まれては、鎌倉幕府に対する決定的な裏切りになる。しかし、義経はそれが裏切りとはつゆ思わなかった。以後、義経の転落がはじまっていく。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/07135b8e131dc58c392bcd950b3c2d30
雪の鞍馬寺は好いですねぇ~♪
その末路は哀しいです。
* suzuran527さんのブログアドレスをコメント上に置きました。
玄関の彫刻、面白いです。
近いので、出かけたついでに立ち寄って、腰掛石、硯の池、弁慶の錫杖等も見てみようと思います。
踏破祝いに、旅の疲れをいやそうとしたのに、満席で日帰りになってしまったとは、残念でした。
それでも、「かめや」の「上段の間」で前庭を眺めながら、コーヒーを飲めてなによりでした。
「腰越状」下書きの残る満福寺は、江ノ電「腰越駅」下車です。江の島も近くて歩いて渡れます。
江ノ電「鎌倉高校前駅」から少し江の島に戻ると『腰越状』を義経が描いた満福寺がありますょ。
高校前駅近くの踏切から
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/ca64e0ed6fa708aa8c8899fef25eea35