イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その242☆ ドストエフスキーの「悪霊」について ☆

2017-02-13 20:30:32 | ☆文学? はあ、何だって?☆


 音楽狂であるイーダちゃんが心底畏怖してるミュージシャンは、ウラディミール・ホロヴィッツとチャーリー・パーカーとジョン・レノンのたった3人きりなんですが、
 文学の世界においても、やはり、この種の僕内「別格ベストスリー」というのはありまして、
 その面子はね、ドストエフスキー、A・ランボー、柿本人麿の3人なんです----。

 なかでもドストエフスキーには、したたかブチのめされたもんです。
 ただ、ドストエフスキーに出会ったのは、僕、ずいぶん遅かったんですよ。
 大学在学中、露文の有名なY先生の授業とかも受けてたんですが、その当時、僕、あんまり文学に興味もてなくってね…。
 卒業後1年してから先輩の勧めで、はじめてあのぶ厚い本のページを、嫌々めくりはじめたって感じだったんです。
 ロシア文学は、ドストエフスキーにかぎったことじゃないけど、とにかく登場人物の名前が覚えにくい。
 ただでさえ記憶力の性能の欠けている僕にとっては、小説の背景である登場人物のロシアンネームとそれぞれの関係を飲みこめるまでに、
 だいたい百ページあまりが要り用になります。
 それって僕的にいうと、とっても面倒くさい作業なんですよ。
 でも、150ページあまり読み進むにしたがって、先輩の強引な勧めがやがて感謝の念に変わりだし、
 200ページこえるころには、その感謝の念さえ脳裏から綺麗さっぱり消失し、
 怒涛の如く展開する白日夢のようなドストエフスキー・ワールドのなかで、僕、完全な茫然自失状態でした----。

 いまでも僕、世界文学の最高峰なんて話題があがると、迷わず「カラマーゾフの兄弟」と「白痴(イジオート)」とをあげるもん。
 むろん、我が国の最大叙事詩である「万葉集」、さらには印度・中国圏の古典である多くの仏典「観無量寿経」とか、プラトンの「ソクラテスの弁明」……
 あるいは、20世紀文学の最大の成果と目されているジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」、プルーストの「失われた時を求めて」なんて巨峰もあるにはあるんですが、
 やはり……やはり、最強横綱の称号は、フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーのものでせう。
 これは、ちょっと譲れない。
 「ユリシーズ」、「失われた時を求めて」、あるいはセリーヌの絶望文学の極右「夜の果ての旅」----
 ジャン・ジュネの「泥棒日記」、神々の末裔みたいなランボーも忘れちゃいけない、あと、チリのガルシア・マルケスの「百年の孤独」なんかも、凄い…。
 みな、後世の作品だけあって、モダニズムや心理描写の巧みさなどにおいては、たしかにドストエフスキーも及ばない妙技というか巧みさを有しているかも、とは思います。
 けど、「巧みさ」は、しょせん「巧みさ」でしかないんだよね。
 ボクシングにおいてもそうだけど、テクニックがそのまま強さに結びつくとは、かぎらない。
 たとえば、いまから200年くらいたったのちの世に、なんにも作品当時の世相を知らない未来人がたまたまこれらの本を読んだとします。
 そしたらね----僕、ジョイスよりプルーストより、絶対にドストエフスキーのほうを面白がる、と思うんだ。
 ジョイスもプルーストも、近代人特有の悪徳「分析信仰」ってのに犯されすぎてるっていうのが、僕の私見。
 両人とも高踏派で、非凡極まる博識で、おっかなくなるほど繊細で……。
 でもね、そのぶん古代人のもってた「野蛮さ」というものからあんまり遠去かってしまってる、と僕的には感じます。
 あのね、「物語」っていうのはね、基本「野蛮」なんですよ。
 あかずきんは「残酷」、マッチ売りの少女は「酷薄」、いなばの白ウサギは「皮剥ぎ拷問」。
 三者に共通するのは、「嗚呼、無情」----!
 似非ヒューマニズムが入りこむ隙も、フォローできうるとっかかり自体も、どこにもなくて。
 残酷で救いのない、無情極まりない、乱暴狼藉な「おはなし」----それが、物語ってもののそもそもの骨子だ、と僕は思うわけ。

 その見地からいうと、物語中にやたら精緻な分析がはめこまれているおふたりの作品は、物語の流れをずいぶん滞らせてるようにも感じます。
 というより、そうやって物語の流れを粗相させるほうが、むしろ20世紀的には、お洒落な語り口として受け入れられたのでせう。

----あんな残酷な物語をなんの衒いもなく享受するなんて慎みがなさすぎる。卑しくも文明人なら、思想や分析のオブラートでもって、物語そのものがもつ呪力を一端和らげてから服用すべきだ…。

 なあんて流行が上流階層のうちにあったんじゃないのかなあ? と、思わず疑いたくなるくらい。
 20世紀は、ひたすらの分析を重んじる「客観信仰」の時代でした。
 主体からとにかく距離を置き、客観のルーペで覗いてはじめて「藝術」も「音楽」も「科学」も世にでることができる----そんな風潮がずーっと蔓延してました。
 クラッシック音楽において、この流行は特に顕著に表れていたように思います。
 たとえば20世紀前半に活躍した主観的詩人の代表的ピアニストであった、フランスのアルフレッド・コルトー!
 彼のあのロマンの残り香にむせぶようなルバート満載のピアニズムを破壊すべく現れたのが、あの精密機械のようなイタリーのマウリツッオ・ポリーニだったとは、僕はこれ、非常に象徴的な権力移譲劇として受けとめています。
 抒情の巨匠フルトヴェングラーからアルトゥール・トスカニーニ&カラヤン連合への権力移譲に関しても、ほぼ同様のことがいえるでせう。
 そう、20世紀の中盤において、「藝術」の中核に一種の革命がもたらされた、というのが僕の意見です。
 ここで権力の座を奪還したのが、いわゆる「客観派藝術家」の連合だったのです。
 アメリカの新星トルマン・カポーティー、映画でいうならヌーベルヴァーグのジャン・リュック・ゴダール、日本の文学界なら三島由紀夫----彼等、キラ星のような新しい「分析派」たちが台頭してくる下地は、そこにありました。
 いずれにしても、かつての「抒情」と「ロマン」とを重用する、藝術の伝統はここでいちど途絶えたのです…。

 と僕がこのあたりまで語ると、

----おい、ちょっと待てよ。君はどうやら分析的な芸術が気に喰わないらしいが、君が一押しするドストエフスキーはどうなんだ? 彼の芸術こそ、まさに異様な分析の極地、つまりは彼こそが、抒情殺しの先駆的作家なんじゃないのかい?

 そういわれると反論はとっても難しい。
 たしかにドストエフスキーの小説には、薄気味わるいほど鋭い分析が、物語自体がパンクしかねない質量でもって、圧縮され、ギガ盛りにされています。
 「分析は藝術を破壊する」という古典派藝術のテーぜからいうなら、これほど異端な作家はない。
 そう、ドストエフスキーの場合、あらゆることに度がすぎていました。
 小林秀雄流にいうなら「限度をこえていた」ですか?
 分析も、ほかの作家なら藝術上の流行のモードとして、あるいは自身の感受性の保護壁として外世界の脅威を無力化するために使用するのが常なのに、彼の場合は、なんのための分析か見分けることははなはだ困難です。
 普通なら、分析は、作家の手下であり下僕であるべきです。
 ところがドストエフスキーの小説内では、分析は誰にも仕えていない。
 むしろ分析は、猛り狂って、小説という自らを閉じこめる枠組を破壊して、指揮者である作家自体にまでその凶刃で貫き通そうとしているかのようにも見えてきます。
 神の破壊、観念の破壊、思想の破壊、日常的なあらゆる自己弁護への徹底的な侮蔑と憎悪…。
 最初に彼の小説を体験して僕がまず戦慄したのは、その点です。

----なんだ、こいつ? 悪魔みたいにアタマの切れるオトコだな…。こんな、薄気味わるいくらいアタマの切れるオトコがいるなんて、さっすが露西亜は広大だわ……。

 はじめてポーを読んだときも戦慄したけど、ドストエフスキーとの邂逅はそれ以上のものがありました。
 人知の極限地帯で、ほとんど気化した人間たちが、生命を削りながらバトルしている……。
 ギリシア神話やシェークスピアにも匹敵する、血みどろのドラマツルギーが凶悪な分析と両立しているのです。
 わが国の国民的作家であったあの川端康成、フランスの絶望詩人セリーヌ、僕の大好きな坂口安吾までが彼を別格視するのも当然せう。
 近代作家は、あの「ボヴァリー夫人は私だ!」のフローベルに見られるように、古典ではなしようもなかった繊細さを「分析」という手法で身につけることができましたが、そのかわりに太古の物語にぎっしり詰まっていた、あの「物語」だけがもっていた野蛮かつパワフルな躍動美を失ったのです。
 近代の通弊であるこの「病」からの稀有の例外者として、19世紀帝政ロシアのツンドラの荒野にすっくと屹立したのが、かの天才ドストエフスキーなのでありました……。




 このドストエフスキーがその晩年、「悪霊」って作品を書いてるんですね----。
 僕的にいうなら、こちらの作、「カラマーゾフの兄弟」や「白痴(イジオート)」なんかから比べるとやや落ちると思っているのですが、物語自体にいくらかの破綻は見られるものの、こと現代への予言性という見地に立って眺めるなら、この「悪霊」、ひょっとして前2作より上かもしれません。
 「悪霊」は、ロシア革命前夜の、過激派のセクト闘争の物語です----。
 いまだマルクス主義やコミュニズムの思想がポピュラーになるまえのロシアに、これだけ濃密な「打倒帝政ロシア」や「革命思想」の空気が行きわたっていたという事実に、まずはびっくりさせられます。
 なんちゅうか、もう読んでるだけで、僕等が学んできたうすっぺらな「教科書の歴史」ってなんだったのよ、と呻ること必然。
 箇条書きの歴史知識なら1917年、ボルシェビキにおいてロシア革命勃発という一言でしかないんですが、そんなのはただの紙の上だけの知識。
 それが実現するまで、庶民のリアルな暮らしむきはどうだったのか? 
 当時の庶民は「それ」に対して、いかなる思いをもっていたのか?
 「それ」が待望される世相の空気(ニューマ)に対して、ロシア正教はどんなまなざしを注いでいたのか?
 そのような当時のロシアのインテリゲンチャたちの生きたつぶやきが、ページを繰るごとに次々と読み手に襲いかかってくるのです。
 尋常な小説じゃないですよ、これ----!

 § 革命のために冷血なマキャベリズムを弄する俗物、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキー。

 § 特異な人神論をぶち、その思想のために自殺に至る、革命家崩れアレクセイ・ニールイチ・キリーロフ。

 § そして、なんといっても、世界文学史上最大のアンチヒーローともいうべき、人称化した虚無の国の王子ことニコライ・スタヴローギン----!

 このような暗い、陰謀まみれの物語を編みながら、なかんずくドストエフスキーが凄いのは、登場人物の誰ひとりとして理想化して見ていない点でせう。
 登場人物と同様、ドストエフスキーは、若き革命家らが夢に描く「革命」というものに対しても、いささかなりとも幻想をもっていません。
 すべてを酷いくらいに突き放して、もの凄く無慈悲なタッチで綴ってる。
 似たようなテーマを扱った作家に、SFの平井和正氏なんかがいますが----「アダルトウルフガイシリーズ」の後期とか、あの全20巻の「幻魔大戦」とか----彼の場合は、なんちゅーか救いがあるんですよ。
 果てしなくつづく宗教論争と裏切りと寝返りの連続と。
 ですが、彼の場合、小説内世界は、比較的単純な<神vs悪魔>の二元論に還元できるんです。
 だから、陰惨な裏切り合戦も、ゲームみたいなスリラー感覚でもって読みとばせもするの。
 けれども、ドストエフスキーに関して、それはやれません。
 彼の生みだしたキャラクターは、あまりにも造形の深度が深く、ひとりひとりがあるタイプの権化・精髄といっていいほど完成されているからです。
 ゲーム感覚で好きなように操るだなんて、とんでもない。
 作者が気まぐれに、思いつきの恣意でキャラクターのふるまいを変えようとしたら、作品全体が瞬時に瓦解するでせう。
 それに、ドストエフスキーは、人知が編みあげる「政治的な革命」といったものをまるきり信じていません。
 が、だからといって、彼等、革命家予備軍を軽蔑するじゃなく、特に否定しようという腹づもりでもない、
 あげつらったり戯画化してからかったりしてもいいのに、それすらやらない----ただ黙って、無心に、彼等の動向をじーっと見てる。
 その不気味な目線が、物語の後半に入ると、物語の前面にだんだんと表れてきて、それがこの物語のアンチヒーローであるニコライ・スタヴローギンをいよいよ語りはじめるときの不気味さときたら、ちょっと形容する言葉が見当たりません。
 革命の鋳型にあわせてさまざまな自己正当化をはめこんでいく、未熟でわがままな、たとえようがないほど権力志向でエゴイスティックな若者たちと、彼等の織りなす幻想革命劇の勃興と挫折とを、ドストエフスキーは隣人の葬儀でも見ているような、一種独特な陰りをおびたまなざしで、いつまでももの静かに見つづけていきます…。
 物語の終焉まで、このまなざしの質は、なんら変わらない。
 おかげで僕等・読者は、ドストエスキーの目線の高さにあわせて、なんら理想化をほどこされていない、陰惨で残虐な革命ごっこと殺人とに立ちあわされるはめになる。 
 背景は、荒涼とした冬のロシアの片田舎の一角----。
 革命のための殺人も、美しい幻想も、彼等が夢見た幻想の共和国もすべてが潰えて、その上に無情の雪つぶてが平等に降りしきるという恐るべきエンディング……。
 なにより恐ろしいのは、物語が終わっても、作品中に降りしきっていたこのボタ雪が、読後も読者である僕等の胸中に長いこと降りつづくという一事です。
 こーんな後味のわるい小説ってないよ----たぶん、空前絶後じゃないのかな?
 仕上げに、出版の際に道義的見地から切除された「スタヴローギンの告白」の1章を読みあげれば、あなたの「悪霊」旅はそれでようやく完了です。

 川端さんの「散りぬるを」なんかも僕は恐ろしいと思うけど、ロシアの片田舎でおきたネチャーエフ事件をとりあげたドストエフスキーのこの「悪霊」なんぞは、それを超えるくらいの、超・破格の物語として成立しているんじゃないでせうか。
 語られた事件や殺人が陰惨なんじゃなくて、それを見て書いている著者の残酷目線がそれ以上の「地獄」なの。
 ああ、世界は広い、こんな川端級の異常な「眼」をもってるニンゲンが世界にはごろごろいるのか! と体感するためには、ドストエフスキーの「悪霊」、またとない稀有の教材でありませう。
 もっとも、フツーの幸せな暮らしに安住したい方々には、こちら、危険な麻薬みたいな書物かもしれませんが。
 ですから、僕としては、この「悪霊」を無作為に皆さまに薦めるわけにはいきません
 おっとろしい本ですもの!
 ニンゲン間の約束事を嘲笑うために書かれたようなこのアクマの書物を、うし、がっぷり四つに組んでやろうじゃんか! という蛮勇に満ちた方にのみ、お勧めしちゃおうかなあ、と、ほくそ笑みながら思う、相模の国・横浜の冬のきざはしに佇む、如月中旬のやや眠イーダちゃんなのでありました……(-o-)zzz。



                             上図:スタヴローギンが「黄金時代」と呼んだ絵。C・ロラン「アキスとガラティア」