Hello、皆さん、お達者かえ?
今回は、喰いものの話であります。
僕は裕福じゃないんで、食通を気取るわけにはいきませんが、いわゆる美味いモノには目がありません。
やうやう考えると、これは、いままでつきあってきた女性らのもたらしてくれた、啓蒙であり好影響なんじゃないのかな?
感謝してますね、ええ…。
彼女らがいなければ、僕は恐らく、いまだ似非坊主地獄をさすらう、物知らずでありつづけたことでせう。
高校生時の僕は、インスタントでもなんでも辛いカレーさえあれば満足で、むしろ「食の如き下賤なものに興味を持つほど落ちぶれちゃいねえ!」的な啖呵が売り物の偏屈小僧でしたから。
可愛くないったら、ねえ!
で、まあ、五十路の今日に至るまで、いろんなものを食してきたわけでありますが……
本当の意味で、心の底からの美味絶景に驚愕した経験は、そう多くありません。
その数少ない幸運な出逢いのひとつとして、印度カリーの体系がまず挙げられますね。
ありったけの豊穣なスパイスを仏典に見られるあの無限の想像力でもって調合して仕上げた、南風のにおいの香る、あの珠玉の珍味たち---!
マハラジャのもてなしのための、重厚な王道・スパイスのシンフォニーたる北印度カリー----
ベジタリアンが多いため、野菜と豆----ツール豆、ムング豆、ロビア豆----なんぞをたんと使う、ややあっさりめの印象のある西印度カリー----
カルカッタに象徴される、マスタードシードとフェネグリーク(メティ)を多用して、わけても川魚なんかに絶妙な仕上げを見せる、東印度のカリー----
どこのカリーも素晴らしく、食べるたびにため息がもれるばかりです。
ただ、僕がいちばん心魅かれるのは、やはり、マドラスに象徴される、「ナン」でなく「ライス」を食すひとたちの住む(南印度の人たち多数は北とはちょい民族もちがうようです)、あのとびきり辛くてフルーティーな、個性豊かな南印度のカリーたちですね。
嗚呼、ぺしゃぺしゃと水っぽく、しかし、妥協なき激辛の、南の国の裸女のような、あの愛しの米喰いの南印度カリーたち----!
これは単純な自慢に相当するんでせうが、僕・イーダちゃんは印度料理に関してはそこそこいけるコックでもありまして、
特にオクラ、キャベツ、カリフラワー等のサブジ類、ラッサム、ムング豆、マスール豆、海老に渡り蟹のカリーなんかやらせたら結構うまいんスよ。
うん、フルコースの南印度カリーを知己のために調理してる時間ほど、充実した時間ってそう持てないですね。
いつかパスタ屋をやってる役者の知人に喰わせたら、大変仰天され、さっそく青空食堂の開店話をもちかけられたことなんかもありましたっけねえ…。
いかん、自慢話にスペース割きすぎた----そうじゃない、語りたい道筋はちがうんです。
印度カリーも浅草の「駒形どぜう」もいいけれど、今回僕が語りたいのは、
あの近江伝統の発酵食品「鮒鮨(ふなずし)」!
についてなんですわ……。
あの国民的漫画「美味しんぼ」でも紹介されたことのあるこの鮒鮨は、滋賀・琵琶湖にのみ生息するニゴロ鮒を何年も漬け樽に漬けこんでなれずしにしたものでして、
なんちゅうか、一言でいって、とても「臭い」食品なのであります。
その臭みはあの有名な臭ウマ食品であるクサヤほどではないものの、あれとはまた別種の一種異様な凄味を帯びたものでありまして、
これに比べたら水戸納豆なんて可愛いもの、滋賀県人のなかでも苦手にしてるひとはいまだ数多く存在しているくらいです。
現に大垣駅前のスーパーで僕に「鮒鮨」を紹介してくれたレジのお兄さんなんかも(徒然その150☆イーダちゃん、加賀温泉に夢破れ、近江で鮒寿司を喰らい、その仇討ちとす!☆参照)、
----いや~ 他県のひとがうちらの伝統食品に興味を示してくれるのは、本当、嬉しいです…。ただ、お客さん、勧めといてなんですが、わたし、鮒鮨ダメなんですわ。もう、受けつけないっちゅうか…。特に発酵した漬け米のあのツーンとしたにおい、あれが苦手ってひとは鮒鮨党のひとにも案外多くってね……。ですから、鮒鮨の美味しい食べかたとしてお茶漬けにしてっていうのはたしかにアリなんですが、あれ、かえって匂いが際立ちますから、慣れるまではやめたほうがいいですよ……。
ただ、3年前の温泉旅行の際、僕、この鮒鮨はじめて喰べて、即、ハマリました……。
正直いうと、この鮒鮨、世界一ウマイ喰いものだと思ってます。
特に、伝統のニゴロ鮒(ほかの鮒で鮒鮨にしちゃう例なんかも残念ながら多いんですわ)で漬けこんだ鮒鮨は、これ、もうホロヴィッツ級の絶品!
けれども、関東じゃ、このクラスの鮒鮨って、やっぱ手に入りにくいんです。
だもんで滋賀方面に行く際には、必ず食すようにしてたんですが、つい先週、横浜の高島屋で開催された「味百選」という催しで、なんとこの鮒鮨、扱われてたんですわ。
メジャーな食種とまじって、こんなクセの強い食品が扱われるなんてね。
もち、即、入手----で、さきほど食したばかりなんですが、なんでせうかねえ、この極楽美味は(悶えて)……!
冒頭UPの写真によく目を据えられてください。
この鮒さん、子持ちなんですよ。いわゆる上等品ってやつ。
で、骨まで発酵してなれずし状になってるの----噛むとやや硬なんだけど、噛みきれぬほどの硬さじゃなくって、
しかも、噛みきるとき、鮒鮨ならではの玄妙な、えもいわれぬつーんとした奥深な芳香が口腔内にめいっぱい散りひろがって……
入れたてのお茶の香とともに、それを噛んで飲みくだすときの悦びときたら、もう、これは表現する術がありません。
遠いむかしの過去生で、ひょっとして僕は近江人であったことがあるのかなあ、と疑いたくなるほどのこの懐かしい滋味深き味わいときたら……。
あれから4時間たったいまでも、ボディーの各部がまだ「美味しい、美味しい」と悦びつづけてるのが分かるもん、マジ。
食通のフランス人に喰わしたら、上等なチーズと同クラスの味わいだと絶賛されたって逸話にもなるほどの納得印です。
そう、超上等のブルーチーズなんかにも匹敵する、一種別格の、幽玄なまでの繊細さを宿した味わいなんですよ。
ええ、近江の鮒鮨の名をどうかご記憶ください----僕はこれ、世界に誇れる味だと思ってます。
✖ ✖ ✖
ここで話はぜんぜん飛んで、なぜか稲垣足穂の話----。
超・傑作「一千一秒物語」と「弥勒」の作者である天才・稲垣足穂氏のことは、ご存知でせうか?
このひと、川端と同時代人のくせに、まったくそういった感じが香らない、なんというか、金属でできた巨峰のようなイメージさえ浮かぶ、
時代臭から屹立した、というより時代性というものにまったく無関係な時空の軸に、哲学的かつメルヘンチックな独自すぎる形而上学的文学世界を構築したという----あまりにも孤立した、印度の聖者のような、あるいは夢見るスードラのような、特異極まる天才でありました。
この稲垣足穂氏が有名になったのは、彼を尊敬し、かつキャリアのあいだずっと崇めつづけていた故・三島由紀夫の後押しが大きかったんです。
機会があるごと、三島さんは、この先輩であるマイナーな足穂を誉めつづけてましたから。
ただ、足穂は、三島さんの文学をまったくといっていいほど認めてなかったんですね。
徹頭徹尾、認めてない。
僕も三島さんは嫌いですから、そのへん共鳴できる点は多かった。
あと、足穂はね、やっぱり批評のコトバの切れが通常人とまるきりちがう。
----あなた、いったいどこの宇宙に居住してんのよ? と、ついつい茶々を入れたくなってしまうほど。
その足穂の、三島自決後の文章をちょっと抜き書きしてみませう。
§ 三島星堕つ 「とこしえのしじまをを出でて/とこしえのしじまに消えし みしま星/いずこに行きし?」
§ 三島の文章は「男系的硬質に貫かれ」てはいるものの、やはり一種の「花飾り屋」にとどまった。
§ ナルシズムは藝術の母胎だが、三島はナルシズムを内面化することができず、外形的に伸び放題にし、三島流ナルシズムは放任に任されて、ついに御本人を滅ぼしてしまった。
§ 彼の書くものには郷愁が欠けている。なつかしいものが少しもない。書けば書くほど作り物になり、こうして特に「金閣寺」以後、彼の作品は荒涼無残な仇花に成り果ててしまった。
§ 三島文学は、初めから見当外れの文学、「空回りの文学」である。こんなニセ物ではどの片隅においてもわれわれを解放してくれることがない。
§ 三島の目は、物に怯えている目である。どうあっても「悪人の目」である。悪人の特徴は、何よりも死を厭うことにある。死などは初めから相手にしなければよいのに、彼らにはそれが出来なくて、いつも死に追い付こうと焦っている。三島由紀夫の場合は、怖さの余りに我から死に飛び付いたようなものだ……。
恐ろしいですねえ…。
このひとのコトバ聴いてると、僕、どうしたわけかいつでもあの一休禅師の有名な肖像が脳裏に浮かんでくるのよ。
女のあそこは水仙のかほりがする、なんて詩を書いてた、あの破戒僧の一休禅師のね。
とかくこの世はうそだらけ。
うそと騙しに疲れた心に、前述した「鮒鮨」といま語った「稲垣足穂」などはまたとない清涼たる御馳走ではないかな、と思って、こんな記事を長々と綴ってみた次第であります。
おお、あと最近知りあいから教わったテナー奏者のハンク・モブレーってジャズマンもよいよ。
窓の外で春の夜風がごうごう吠えてます----それでは皆さん、お休みなさい……。