イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その201☆ 前略チャーリー・パーカーさま!☆

2015-02-20 09:54:08 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                          

  ----1950年の冬、私は、フィラデルフィアのショー・ボートという店で歌っていました。バディ・デフランコと小編成のグループが、私にバックをつけてくれていたのです。ある夜、セットの3曲目に入ったとき、私のうしろから、美しいアルトのソロが聞こえてきたのです。私の歌を推し進め、うたうための霊感を吹きこんでくれるようなソロでした。私は、振りかえって見たりせずに、そのまま歌いとおしていきました。誰が吹いているのかを知るのが怖く感じられたほどだったのです。やっとのことで振りかえってみますと、その人の姿はもう見えませんでした。私は、「私の空耳かしら? いま吹いていたのは誰なの?」とバディに訊いたのです。「バードだよ」と彼は答えました。「たしかに鳥にはちがいないわ」と私は言ったものです。「ぱっと飛んできて、さっと帰ったから」
                                                          (アニタ・オデイの証言「チャーリーパーカーの伝説・晶文社」より)


 Hello、1.25に受けた国歌試験の結果がなんとか合格見込ってことになって、ホッと胸をなでおろしているイーダちゃんデス。
 皆さんはお元気?
 僕は、元気---今日はひさびさの休みなんですが、窓の外はあいにくスゲー雪。
 だもんで、飲み会の予定をキャンセルして、いまさっき豆カレーをつくって、それ食って、ベランダで食後のコーヒーを飲みつつ、雪見がてらタバコ吹かしてウオークマン聴いてました。
 聴いてたのは、グールドとパーカー。
 どっちも稀有の天才なんだけど、特にパーカーにはぶっ飛びましたねえ。
 何度も何度も聴いてとうに聴きあきてるはずなのに、ホントにパーカーだきゃあ慣れるってことがない、いつ聴いても何度聴いてもぶっ飛ぶの。
 まえから彼について書こうと思ってたんだけど、あいにく僕 Jazz のイディオムにはあんま詳しくなくてね、でしゃばるのはちっと遠慮してたんですよ。
 でもね、さっきベランダで聴いたパーカーがあまりにも凄かったもんだから、今日は、彼について書いてみたいと思います。

 チャーリー・パーカー。
 通称バード。
 Jazz史上最大最強の巨人、ていうか、天才のなかの天才。
 ピアノの魔神ウラディミール・ホロヴィッツも、純潔の天才グールドも、ロシアの暴露怪物フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーも、ビートルズの吟遊詩人ジョン・レノンも、放浪のロバート・ジョンソンも、テキサスの稲妻野郎ライトニンも、世界の宮崎駿も、詩人の寺山修司も、無頼派の安吾も、露の切貼職人ユール・ノルシュタインも、伊太利のサーカスフェチの大監督フェデリコ・フェリーニも、みんなみんな凄いけど、僕は、もって生まれた才能って見地から見たら、彼・チャーリー・パーカーがいちばんじゃないかって思うんだ。

 うん、そのくらいパーカーってちがってる。
 位相がちがう、排気量とリズムがちがう、音の孕んでる質量自体がダンチでちがう。
 それにこのひと、音楽の出処がまったく見えないの---音符が、通常音の生まれる場所よりもっと最奥の場所からやってきてる気配がしてる---あえていうなら音楽の戸籍からしてすでにちがうわけ。
 インスピレーションが肉体を経過して音化する際、フツーは肉体の癖というか経験値なんかにあわせて、その音はいくらかの現世的「濁り」を帯びるはずなのに、ことパーカーに関してはそうじゃない、あの世で生まれた生のままの音楽の精髄---つまりぜんぜん苦労の跡の見えない、まぶしいくらいの、完璧無類の圧倒的な音楽---が、ほかに類を見ないイジョーな迫力でもってきらきらと降臨してくるの。
 なにからなにまで桁ちがいのアンビリーバブゥー!
 これほど俗世と「切れた」ミュージックって、僕は、寡聞にして知りません。
 僕は、出口王仁三郎の言霊録ってCDもってて、それたまに聴くんだけど、パーカーの音ってぜーんぶあれクラスですよ。
 Jazz の前身は Blues っていう泥臭い労働歌なのに、パーカーの音には、その種の四畳半的なしみったれ感がかけらもない。
 なんちゅーか振りきっちゃってるんですね---日常の苦悶の音をだしたとしても、だした瞬間に、音自体が刹那にして天界と地獄まで突きぬけちゃう、とでもいうのか…。
 ほかのミュージシャンとじゃ、もう比較自体不可能な別格の存在ですよ。
 唯一比較できるクラスの天才としちゃあ、あのモーツァルトくらいしか見つからないな---ただ、僕は、モーツァルトの同時代人じゃなく、当然のごとく彼の生音も聴いたことないわけで、今回、彼は、比較の対象からは外させていただきました。
 これは、あくまで演奏家としての天才性に光をあてる企画ですので---。
 まあ、伝説の天才モーツァルトくらいしか比較できる対象がないという、パーカーというのは、それっくらい飛びぬけた存在なんであります。
 「アルトサックスをもった無邪気で残酷な陽気顔の天使」とでも形容するしかないんじゃないのかな?

 実際、南米の俊英作家フリオ・コルターサルは、パーカーをモデルにして「追い求める男」なんて短編を書いてます。
 これ、とってもよく分かる。てゆうか、パーカー聴いて、創作欲を刺激されない芸術家なんかいないってば。
 もっとも、その「追い求める男」自体の出来は、僕は、対象であるパーカーより、むしろコルターサル内面のしみったれた思索のほうが前面にでちゃった失敗作だと思うけど、でも、ああやってこっち側のしみったれ臭でいちいち隈取りしなくちゃ、パーカーのあの光は表現できないっていう戦略というか間合いはよく分かります。
 Jazz界イチの切れ者、あのマイルス・デイヴィスにしても、パーカーのまえじゃ謙虚もいいとこでした。

----いつも私はパーカーのリードにくっついて演奏していた。バードがメロディを吹いているときには、私は、ただバードについて演奏するだけで、バードが、どのノートをも、ひとりでスウィングさせていた。私がそこに加えられるものといえば、パーカーよりも大きな音の演奏だけだった。パーカーと演奏した夜には、きまって、私は途中でやめてしまっていた。「なぜ私などが必要なんですか?」と、よく私は彼にいったものだ…。(チャーリー・パーカーの伝説<晶文社>マイルス・デイヴィスの証言より)

 僕はね、突きつめていうなら、マイルスの音楽ってニヒリストの音楽だと思うのよ。
 いわば、川端康成やカフカなんかの系統---このひとら、基本的に希求はしないの、己の収監された枠組のなかで感性の秤をゆらし、いかに美しく諦めと無常とを歌いきるかが彼等にとっての勝負なわけ。
 つまりは抒情詩人っていうの? 抒情詩人は繊細極まる感性のひだでもって、絶妙な美を歌いはするけど、だけど、現実的行為の領分では、彼等の仕事はそこどまり、彼等の根本の性質として前進はしない。
 感性と行為は、ある意味反比例しますから。
 行動的前進は、いわば彼等の辞書にない単語なわけ。
 叙情派の仕事はあくまで詠嘆---詠嘆するためには、まず立ちどまらなきゃ---だって、走りながら詠嘆はやれないでしょ?
 運命のドラマチックな岐路ごとにしばし立ちどまって、この世の表舞台からいちど降り、それから自らの手順でそれぞれに詠嘆して、己のその詠嘆とともに美しい塵となって世界に霧散してゆくのが彼等の仕事なの。

 僕は、彼等、叙情派族の仕事も大好き---だって、世の詩人の9割はこっちのタイプだもん。
 でもね、パーカーはちがってた---彼は、圧倒的に叙事詩人のほうのひとでした。
 叙事詩人はね、野太い声で朗々と歌うのよ---ホメロスやイーリアス、あるいは、万葉の時代のあの柿本人麿のように。
 歌っていうのは、僕は、彼等のように、青空にむかって投げつけるように歌うのが、正式の作法だと思う。
 綺麗にまとめた、よくできた小奇麗な詠嘆を紙の上にちまちまと紡いでいくのが近代の歌の作法みたいにいわれてずいぶん久しいけど、僕は、それ、ちがうと思うんだ。
 こういうのはあくまで近代限定の狭い時期のみの一時的流行でしかなくて、万葉の時代から脈々とつづいてきた本来の歌の伝統っていうのは、絶対にパーカーの系譜上にあったんじゃないかなあ。
 そいうってみるなら、ビートルズのジョン・レノンなんかも、やっぱ、こっちの系列ですよね?
 紙の上に詠嘆をしこしこ書き綴るんじゃない、青空に向かって声高に It's been a HardDay's Night! なんつって…。
 そのような本来筋の生まれながらの叙事詩人であったパーカーの凄かったところは、もって生まれたその天然の詩心にくわえて、空前絶後の音楽性をもちあわせていたところにありました。
 音楽っていうのは、もともと即興性の高い藝術なんですけど、パーカーの凄さは、この即興演奏---一般的にいうならアドリブっちゅうやつです---これが、空前の高みにあったことでせう。
 僕は、空前絶後っていいきっちゃってもいいと思う。
 マイルスにしても、モンクにしても、それから、あの気ち○いピアニストのバド・パウエルにしても、ある「一線」を超えた音楽家ならば、みんなこのへんの事情はよく飲みこめてました。

 Jazz の最高峰は、パーカー---
 これに追随する者は世界中のどこにもいないし、今後もたぶん現れない…。
 これは、数学の定理に近い、すでに厳正な「事実」なんです---。

 こんな風に書くと、独断だ、とか、いいすぎだ、とか反発される方は、当然いるでせう。
 でもね、いっぺん褌締めなおして、本気になってパーカーの音楽、聴いてみそ!---絶対、あなた、僕の意見になびくと思うから。
 あえて格闘技流にいうなら、パーカーっていうのは、王向斉と植芝盛平と塩田剛三と花形とテーズとホッジとを総計して120を掛けたような存在なわけ。
 ありえないしょ?
 そう、フツーこういうのってありえない。 
 でもさ、そのありえないことが実現しちゃったのが、いわゆるチャーリー・パーカーという奇跡の現象なんでありました。
 世界には、この種の奇跡が人称化しちゃうことが、ごく稀にあるんっスよ。
 僕は、この「チャーリー・パーカー現象」っていうのは、あのジャンヌ・ダルクやモーゼの紅海割れに比すべき、とんでもないレベルの奇跡だったと思ってる。
 音楽やってるひとなら、絶対、このパーカーの凄さは分かるはず。
 ていうか、分かんなきゃうそだって。
 おんなじブルーズの12小節のコードをアドリブで3度吹いて、どのテイクも水々しく、ワイルドで、完璧無比の極上の「音楽」に仕上がってしまう---あのロシアの業師のショスタコーヴィッチにしても、こんな真似は決してやれなかったろう、と僕は思いますね。
 マジ、こーゆーのってありえないことなんです---なのに、人間業を超えたそのようなことが、いとも易々と実現してしまった。
 それがパーカー---だからこそ、周りのみんなも自然に「バード」と呼んだのよ。
 誰が聴いてもすぐ分かる、なにもかも踏みこえて飛翔しちゃうあっち戸籍のひとだから。
 僕的視点からいえば、パーカーだけはいつも別格なの。
 人間業を易々と超えて翔びすぎちゃってるから、そうした破格の突破者の常として、バードの音楽には、当然「魔界」の風がごおごおと吹き荒れています。

----素晴らしい、感動的だ、それにしても、なんちゅーアンビリーバルな悪魔的ノリだろう!

 あまりにも尖りすぎてて、ときとして人間の美醜の秤の限界すら踏みこえちゃうような特殊すぎる音楽だから、この種の異常な刺激臭を受けつけないひとは、パーカーはたぶん聴けないでせう。
 実際、僕のまわりにも、ロリンズやオーネットやハードパップはいいんだけど、パーカーだきゃあどうもダメなんだよなあ、という寺島泰邦タイプは結構いますねえ。
 世間的安寧なんて、かけらもない音楽だもん。
 聡明なマイルスはそのあたりの機微をよく分かってました--- Charlie Parker On Daial の収録曲 Yardbird Suite では、パーカーのあまりに美しいソロに聴き惚れて、若いマイルスは自分のプレイの出だしを失敗してます。
 Klact-Oveeseds-Teen の Take1 でも、パーカーのソロのあまりの凄まじさに茫然として、オー、若きマイルス、またしてもエンドテーマの吹きしなをミスってる!
 でも、パーカーを聴いてそうなるのは、至極まっとうな反応なんでありまして。

----このような音楽のリハーサルの現場の雰囲気を理解しようとして、顔をしかめて彼は真剣になっていた。ミュージシャンたちが楽器のチューニングを行っているところを、ヒップスターたちが大勢、歩きまわっていた。バードがやっと楽器を取りだし、ストラップを首にかけ、ホーンを口にあてた。クラッシック音楽のヴァイオリニストは、コントロールルームのなかからバードを見守っていたのだが、バードのアルトサックスホーンから、いきなり、機関銃のように音が飛び出してくるのを聴いて、その男は、くらくらとよろめいたのだ---ほんとうに銃で撃たれでもしたように、彼は、二、三歩、うしろによろめくみたいに下がったのだ。そして、「あれはいったい誰だ!」と叫んでいた。(ロス・ラッセルの証言)

 ほかにも、ヒップなひとたちが集まるダンスパーティーの席で、バードが吹きはじめたら、すべてのひとが茫然自失状態になって、踊りが凍結しちゃった、なんて逸話もいっぱいあります。
 「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のジム・ジャームッシュの卒制作品「パーマネント・ヴァケーション」のなかでも、あのジャームッシュ、パーカーの「スクラップル・フロム・ジ・アップル」Take1 にあわせて、ヒロインの女子学生にもの凄いアナーキーな、熱狂・首ふりダンスを踊らせていましたし。
 
 Jazz ピアニストの知性派の旗手レニー・トリスターノは、そんなパーカー数々の奇跡のアドリブについて、次のように分析しています。

----バードはたいへんな独創を生みだしただけではなく、いつもとっさにすばらしい演奏ができるという、確実に安定していた一面も、持っていた。バードの音楽は、あまりにも完璧にできあがっているため、科学的とさえ呼べるほどだ。もし彼が作曲家だったならば、なん百という曲をつくることができたはずだ。即興のソロでバードが創り出していくもののなかには、プレリュード、フーガ、シンフォニー、コンチェルトなどに仕立てることのできる素材が、たくさんあった。バードの音楽は、トータルな音楽だった。ほかの誰の音楽にもまさるとも劣らぬトータルなものだった。バードの音楽は、構造的にあまりにも完璧にできているため、さらに磨きをかける余地はどこにもなく、音符ひとつほかの音にかえることすら不可能なほどの完璧さを呈していた…。

 もうさ、ちがいすぎるんだってばさ…。
 なにからなにまで桁違いの、偉大なるひとりサーカス曲馬団!
 パーカーはいいよ---。
 奴がアルトサックスを吹くとなあ、青空いっぱいに目に見えない桜の花びらが無数に舞い散るのさ。
 口じゃちょっといい表せねえ、さながら、千人の花魁がそろって踊りはじめたみたいな塩梅さ。
 見ていて、これほど美しいものはねえ---これほど哀しいものもねえ…。
 あまりに神品な舞いすぎて、しまいには美しいのか哀しいかのけじめもつかなくなってくる。
 奴が、神なのか鬼なのか誰も知らねえ---知らねえが、ともかく、これほどいいものは、おいそれとは見つからねえ…。
 それほどのお宝さ…おおさ、お宝のなかのお宝だとも……。

 そんな稀人チャーリー・パーカーへの入門編として、ええ、さきにも述べた「チャーリー・パーカー・オン・ダイアル」をあげて、この長すぎる記事もそろそろ終わりにいたしませうかねえ。
 この「チャーリー・パーカー・オン・ダイアル」は、パーカーの全盛期の1946~47年の「音」を捕えきった、超・貴重な録音集なんです。
 後年の Verve 録音もいいけど、パーカーをはじめて聴くなら、やっぱりコレでせう。


                   

 ここまで読んでくれたひとがいたら、ありがとう…。
 Dear Friend、三千世界のどこかでいつか会えたら、きっときっとアチチなパーカー談義をやりましょう---!(ダイアル録音 Charlie's Wig を聴きながら)