イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その171☆セロニアス・モンクの骨タッチ・ピアノ ☆

2014-05-22 03:27:15 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
    


 セロニアス・モンク---大好きなピアニストのひとりです。
 モンクといってまず最初に浮かんでくるコピーは、「モダンジャズの巨匠」とか「ビパップの高僧(懐かしいな、コレ!)」とか「マイルスと喧嘩した変人ピアニスト」とか「ジャズの予言者」とかいうのが大方の定番なんでせうけど、僕がなにより魅かれるのは、モンクのピアノのタッチ自体なんです。
 ええ、いまもむかしも変わらない---モンクがあのでっかくてぶ厚い手で、クラッシックの技法からするとがりがりの我流手法でもって、自からのピアノを奏でだした瞬間、僕は、もう彼の音楽の引力圏に否応なしに引きこまれる自分を意識せざるをえません。
 どうにも抵抗できないんだなあ、コレが。
 モンクの音楽のかもしだす磁力は、それほどまでに強烈です。
 そして、それら魅力たっぷりの音楽を構成している因子であるところの、モンクのタッチときたらもう…。
 強靭で、頑固極まりなく、ときとして悪戯っぽく、でも、いかなるときもある種の確信に満ち、それでいてとてつもなくユニークなあの音---。
 ちょっと聴けば誰でも分かるかと思うけど、モンクのピアノのタッチって非常に強烈ですよね?

----ねえ どうしたらこんな音がでるのよ?

 と尋ねたくなるほど、それは、芯のある、硬質な、強い音です。
 音量ならおなじくらい大きいけど、クラッシック・ピアノの魔人、あの「ホロヴィッツ」みたいに凶暴じゃない。
 「ホロヴィッツ」は、あの独特の平べったいブルーメンフェルト直伝のタッチで、鍵盤をびしっとはじきますから。
 ヒステリー期の猫みたいに鍵盤をはじきまくりながら、だんだんに悪魔憑きの濃度が濃くなっていって、遂には常軌を逸した激情のハチャメチャ・サバトの夜宴になるのが、魔人「ホロヴィッツ」の禍々ピアノ---。
 モンクの世界は、それとはまったく様相を異にしています。
 モンクのピアノは、そっち系みたいに濡れてないのよ---乾いたピアノっていうのかな?
 おなじJazz 業界でも、弟子筋のバド・パウエルみたいに、ちょっと弾いただけで得体の知れない濃い情緒の霧がモワーンとたちこめてくるような、そういった「ねとついた」湿度系の世界じゃない。
 感じる、というより---考えて、常に見つめて、思索しているひとのピアノとでもいうんでせうかねえ。
 じゃあ、冷たい風に取りすましているのかっていうと、もちろんぜんぜんそんなことはなくて、乾いたクールさを意識させるのはたしかなんだけど、その突きはなした視線の向こうに、なんともいえない独自の「涼しげな抒情」を感じさせるのが、モンクのピアノの特質だといえるんじゃないんでせうか。

 最初聴いたときは、そりゃあびっくりしました。
 ぜんぜんスマートじゃないんだもん、というか、完成品の木肌自体、商品用のすべすべ仕様に慣らされてないんスよ。
 もう、あちこちから木目の荒い、トゲ、出まくりの世界---だから、第一印象として、異様に武骨で、ごつごつして聴こえるの。
 カクテル・ピアノとしてはまあ落第でせう---なんつっても耳触りのある、ごつごつピアノなんだから。
 小洒落たレストランで食事するBGMとしちゃあ、こーゆーのはちょっと不適切だよね。こういう席でフツー求められるのは、やっぱ、ウエントン・ケリー系の「そよ風みたいに心地よく聴き流せるさらさら系」のものなんであって。 
 それが、モンクの場合、あえて挑戦的に音ぶつけてきはりますからね---テンション・ノートを和音の目立つところにぐいとかぶせて、音同士をわざとぶつけて、そこから生まれる「濁り」を含んだ和音こそオリジナルな自分の和音なんだ、と主張している一種の居直り強盗みたいなスタイルとでもいうか。
 しかも、その濁りの塊を、スマートさとかけはなれた、いかにもぶきっちょなタイミングでガンガン前面に押しだしてくるもんだから、なんだ、この下手糞なピアニストは? と、はじめは誰だって思っちゃう。
 そよ風なんてとんでもないよ---ウィントン・ケリーが「いなせなそよ風」なら、モンクは「山伏の吹くほら貝」です。
 それくらい世界がちがってるのよ。
 だから、たしかに一見、モンクのピアノは、リズム隊のそれから外れているようにとれるっていうのは、分かる。
 ときには、スゥインギーな文脈から外れて、ノリ自体、浮いて聴こえることもたしかにある。
 とっつきがわるいっていうのか、媚びの要素が皆無すぎる無愛想ピアノっていうか。
 だから、そのへんの特徴をあげ足とって、「モンクのピアノは流れない」とか、「モンクはリズム音痴だ」みたいな世評が生まれてきたんじゃないか、と思います。
 でもね、そうじゃないんだよなあ…。


                           
 


 たしかにモンクの掲示してくる世界は、相当につむじまがりなところがある。
 それは、事実、僕だってそりゃあ認めます---けれども、本当にくたびれた晩の真夜中のまんなかあたり('Raond About Midnight)、部屋を暗くして、目もとじて、いちど、モンクのピアノをマジに聴いてみてやってください。
 曲はね---そうだな---「Thelonious Himself」 の Fanctional あたり…。
 曲想からいくと、これ、わりと平凡なBフラットの12小節ブルーズなんですが、平凡な曲を平凡なプレイヤーが演奏したときに特有の、いわゆる「ありきたり感」がかけらもない。
 まず、冒頭の不揃い気味の前のめりの和音のじゃらけた硬質感にびっくりし、次に、たどたどしいけど異様にふてぶてしい曲の歩みようにまたまたびっくりします。
 でも、この曲に仕込まれてるびっくりの総量は、こんなもんじゃないのよ。
 冒頭の12小節こそ「おお、ブルーズか、いいなあ…」のまあブルーズ常識の範疇内で聴いていられるんですが、そのうち、曲自体が次第にその範疇の籠内から逸脱していくんですよ。12小節の矩をこえるごとに、曲中にだんだんモンクの掲示する異次元の香りが濃くなってくる過程の凄味は、これはもう現物を聴いて堪能してもらうしかないな。
 ブルーズの背後空間を途方もなく奥深くするみたいに、ときたま鳴らされる「モンク和音」の響きは、最終的に、比較する対象もないくらいの、スリルいっぱいの未知の無重力空間へと聴き手を誘ってくれます。
 12小節リフの3、4小節や7小節から突然2ビートになって駆けだすふい打ちみたいな部分も、ユーモラスというよりは、そのあまりの自然体な駆けだしぶりに、一瞬笑いかけて、でも、そのあまりも飾り気のない直球すぎる駆けっぷりに、中途半端の笑顔もどきのまま、僕なんかは完璧フリーズしちゃいますね。
 ここまで頑固でまっ正直なピアノなんて、そうないですって。
 ショービジ界においては「誠実+正直」な風貌、しかし、ビジネスを除いた実人生においては、「案外功利的かつしたたか」みたいなタイプが案外多い音楽界において、モンクのほの見せるこの圧倒的正直さは特筆に値します。

 だってさあ---ここまで頑固で媚びない自分節ピアノって聴いたことないもんね、僕は!

 フツーの人間なら、世間と付きあうために、自分内にじゃっかんの媚び媚び回路を融通してるもんなんです。
 でしょ? でないと、とてもやってけないもの。
 近所の嫌いなひとと顔をあわせたとき、会社内で馬のあわないひとと仕事話をしなくちゃならなくなったとき、あなたならいったいどうします?
 いちおう挨拶くらいはするでせう?
 ひと見知りの内気さんなら近所人の挨拶程度なら棄避しちゃうかもしれないけど、会社内仕事の話ならなんとか好き嫌い感情をやりくりして、それなりのコミュニケーションを図ろうとするでせう?
 モンクも世間つきあいでなら、それはやったかもしれない。
 けど、こと音楽上では、絶対にそれをやりませんでした。
 だから、あのマイルスとの喧嘩セッションの伝説なんかが生まれたわけなんですよ。
 あるいは、パーカーとのセッションにおいて、自分のソロのときぜんぜん音を出さなくて、パートの最後の部分だけで確信をこめた音を1音だけ弾いて、かの大パーカーをして「クレージーモンク!」と歓喜の雄叫びをあげさせたりもしたんです。
 僕は、「モンクには時間の観念がない」というあの有名な奇癖も、出所はそこらへんじゃないか、と睨んでる。
 つまり、モンクは、時間の区切りに管理されるって感覚が、もう生理的に嫌なんだ、と思いますね。
 だから、せめて世間並の時間の観念を無視して、せめてもの反逆の仕草をしてみせるわけ---自分内世界の純潔を守るために。 

 ビューティホー!---たしかに、媚びなさすぎのピアノでせう。
 けど、ここまで無垢を守り通したピアノって、僕は、比類なく美しいと感じますね。
 フツー、頑固とはいえ、ピアニストって職を張ってらおられる方ならば、和音の鳴らしかたにしても聴き手の耳にあえて心地いい鳴らしかた---たとえば低音域の響きをじゃっかん抑えて、あえて和音をアルペジオ気味に崩して弾いてみせる---みたいな技もわりと無意識に使用してるものなんですが、モンクに至っては、そんなわずかばかりの無意識の媚びすらない。
 モンクは、真剣です。
 あんまり真剣すぎて、返って笑えてくるくらい。
 モンクは頑固です。どの音符にもモンクの信念と経験とがいちいちこびりついてて。
 だから、音楽と通りすがりの軽い関係でいたいひとにとっては、鬱陶しくて重たいピアノになるのかも。
 でもね---よーく耳を澄ませて、心の耳で聴いてみて---目をとじてしばし---それから、自分にこう問いかけてみてください。

----このピアニスト、嘘つきなのかな? 正直なのかな…?

 答えは、自明でせう。
 僕にいわせれば、これほど、ド正直な、誠実極まるピアノなんてめったにないよ。
 音楽経験がなくとも、人生経験がいくらかでもあれば、モンクのこの異様なバカ正直さは感知可能です。
 それは、もう、ほとんど聴いてるこっちの心が痛くなるほどの域に達してる。

----ストレート・ノー・チェイサー…!

 ええ…、かの有名なモンク曲の題名がおのずから語っているように、モンクの人生上の処方箋っていたってシンプルなんです。
 そのシンプルさを守ろうとして苦闘したさまざまな工夫の跡が、彼の曲の外面上のユニークさなんだ、と僕は思うな。
 傍目からは、和声もリズムも拍子も発想も、ものすご-くヘンチクリンに見えたりもするんだけど、それら諸々のユニークさの原点であるモンクとしては、とりたててユニークな音楽をやろうだなんて野心は、あんまりなかったんじゃないかなあ。
 そう、彼の音楽のユニークさは、あくまで結果なんですよ。
 目立そうと思ってやってるわけじゃない。
 誠実に音楽してて、自分のいいたいことがいえる方法論を模索してたら、いつのまにかいまみたいなスタイルができちゃったってだけの話。
 そのへんがモンク以降のモンクの亜流と決定的にちがうとこ---ここ、重要です。
 うん、売りだしたいがために、つまりは目立ちたいために、ありもしないユニークさをでっちあげてくる、そのへんのモンク亜流派連中の下賤さにくらべ、本家本元であるセロニアス・モンクの素朴なユニークさがいかに純に、いかに輝いてみえることか。
 モンクがモンクたろうとするパワーは、とっても凄い。
 それがソロであっても、バンドプレイであっても、モンクはいつだって120パーセントのモンクス・ミュージックを打ちだしてくれます。
 僕が聴くたびにモンクのピアノに打たれるのは、たぶん、そのへんの事情が関係してるんじゃないか、と思います。



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 僕、ピアノが好きなんですよ---。
 僕自身は鍵盤楽器はまったくダメで、ほとんどギターオンリーなんですけど(あと、バイオリンとフラット・マンドリン、ウクレレなんかも少々たしなみますが)聴くんだったら、いちばん好きな楽器は誰がなんといったって、これはもうピアノですね。
 うん、ピアノにつきる---プレイヤーの個性を、これほどまでに反映する楽器ってほかにないんじゃないかしら?
 むろん、管楽器には管楽器なりの文脈というものがあって、そのなかに展開されている世界がとっても豊穣なものであるっていうのも分かっちゃいるんです。
 けど、最終的に、僕が回帰する楽器は、圧倒的にピアノなんですよ。
 多忙の日常にふっと時間があいて、ああ、音楽が聴きたいなと何気に思って、ひとりで音楽を聴きだすとき、大抵の場合、いちばん聴く確率が多いのは、どうしてもピアノになっちゃいますねえ、これは。
 で、ピアノフォルテという西洋生まれのこの楽器を誰かが奏する場合、全般的な音楽性だとか聴かせの計算だとか指さばきだとか、それこそいろんな要素が重要視されると思うんだけど、そのなかでいちばん重要で切実な支柱っていうのは、僕はそれ、実はタッチじゃないかと思うんです。
 ええ、素朴そのもののタッチ---。
 タッチって怖いっスよぉ---誤魔化しようがないくらいに正直なんだもん。
 音楽家が自分を大きく見せようといかに大きく背伸びして、巨大極まりない音楽の虚構世界を鍵盤上に繰りひろげようとしても、それを支える基盤である肝心の生のタッチをいったん会場で耳にしたら、その音楽家の片肱の張り加減---こんな大きな音楽構図を自分が支え切れるかどうか、演奏しながら怯え迷ってる心象風景まで刻々と聴こえてきちゃう。

 で、僕は、モンクのピアノの硬質のタッチが好きだってさっきからバカみたいに連呼してるけど、その音楽的背景だけに視線を注がずに、もっと分かりやすい「好き」の原因を見探ってみたら、モンクのタッチって彼の骨の音がするんですよね。
 うん、いいタッチをもってる音の美しいピアニストって、なぜだかみーんな骨のいい音がするんです。
 古武道なんかでもよく「骨で動け」なんていいますけど、モンクのピアノなんかまさにそれ。
 余分な力が抜けきって、肉のなかで骨が動いてる響きがじかに伝わってくるっていうか。
 それは、合気道の塩田剛三さんなんかの神業的演武を見てる感覚に、ちょっと近いかもしれない。
 気持ちいいんですよ---肉って煩悩の宿り木的な部分の多分にある機関ですから、ここから解放された骨の音は、僕等と地上を結びつけている旧弊で頑迷な絆から、一時的に僕等を解放してくれるエネルギーを宿しているように感じます。
 そうして、この種の「骨の音」を響かせてくれるピアニストは、例外なく名手が多いんです。

 生で聴いた代表的な例でいくと---そうですね---ドイツのクラッシック界の旗手、あのフリードヒ・グルダなんかがそうだったな…。
 彼のピアノって、戯れっぽくちょっと鍵盤を撫でただけでも、その濁りのない綺麗な響きが、客席の最奥席までまっすぐ届くんですよ。
 あんまり音が綺麗なんで、僕、大学のときに聴いたんですが、仰天した記憶があります。
 あまりにも優しくて、あまりにも淋しがりの、あの純でナイーヴな響きは、いちど聴いたら絶対に忘れられない。
 僕、それだけでもうグルダ・ミュージックの虜になりましたもん。
 辛口の批評で有名な許光俊氏なんかも、そういえばおなじことをいってましたっけ---でも、グルダの弟子のアルゲリッチあたりは、あの音、継げてませんねえ…。
 一時我が国で神格化されていたマルタ・アルゲリッチ---南米産の彼女は、僕なんかがいまさらいうまでもなく素晴らしいピアニストですが、少なくとも彼女は、1音だけで聴衆を魅了するといったタイプの音楽家じゃない。
 アルゲリッチの真骨頂は、もっと因業な、血生臭いところにあるんじゃないかな?
 マルタって、ほら、基本的に「悲劇女優」じゃないですか。
 対して、モンクやグルダは詩人だもの---この差は結構でかいぞお、と僕なんかは思うなあ。
 


              


 ま、モンクの生音に接した機会は、僕は、残念ながらないんですけど、恐らくモンクの音もグルダの音みたいな響きだったんじゃないのかな、とはなんとなく想像しています。
 そんな益にも薬にもならないどーでもいいことをつらつらと思いながら、深夜、ヘッドホンでモンクを聴くっていうのが、このごろのイーダちゃんのひそかなマイブーム。
 いままで Jazz Musician をブログにあげたことはあまりなかったんですが、気がむき次第、今後もぼつぼつ取りあげていこうかなあって、そんなことをいま思っています。
 こんな阿呆な記事をきっかけに、優れた稀代の独創的ミュージシャンである、セロニアス・モンクに触れてくれるひとがいれば、書き手としてこれ以上の喜びはありません---お休みなさい…。(^.^y☆