イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その88☆水瓶座生まれの詩人について--ジャック・プレヴェール礼賛--☆

2011-11-14 21:58:23 | ☆西洋占星術への誘い☆
                         
                               <副題:水瓶座生まれということは…>


 まえに「徒然その83☆格闘家のための太陽星座別人名録☆」や「徒然その24☆新・アーティストの太陽星座別人名録☆」なんかにもちろりと書いたんですが、イーダちゃんは、水瓶座生まれのアーティストを苦手としていた時期が長いことありました。
 ちなみにイーダちゃんは水瓶座生まれね(1.21~2.18)---その視点からすると、水瓶座のアーティストって、なんか中途半端に生ぬるい気がして、あんまり熱中の対象にはなりにくかったんですよ。
 たとえばルービンシュタインのショパンを聴いて---けっ、なに人類愛っぽいハンパなショパン弾いてるんだよ、なんて心中ひそかに毒づいたり。
 あまつさえ、あの大ボブ・マーレーのレゲエなんか聴いてても、それそれ、俺、アンタのその空中に拡散していくような、広大な優しさのポーズがイヤなのよ、なんて不遜にもイチャモンつけてみたり。
 (注:ポーランドの大ピアニストの故アルトゥール・ルービンシュタインもボブ・マーレーも共に水瓶座生まれです)
 僕的には、指揮に熱中するあまり、叫びながら懐中時計をオーケストラのなかに投げつけるような、牡羊座生まれの伊の大指揮者・トスカニーニの激情なんかがもっぱらの憧れだったんですね。
 牡羊座生まれのトスカニーニの猪突猛進---溶岩さながらに燃えさかるパトスのなんという美しさ!
 それから、なんとも男っぱい射手座生まれ---知性と野生との絶妙のブレンドを見せつける、全盛期のジミヘンの巨大な炎みたいな奇跡のステージ…。
 いやいや、どちらも憧れでしたねえ---。
 僕は、水瓶座のアーティストからも、そういった激しいモノをキャッチしたかったんですよ。
 ただ、そーゆーのと微妙にちがうんですよねえ、水瓶座のアーティストの発する藝術の芳香は。
 水瓶座の芸風ってもっとこう温和で静かなの。本質的に大人っていうのかなあ。でも、僕は、水瓶座独自のそのように「引いた」エセ坊主みたいな---有名どころでいうとヴァイオリニストのクライスラーとか、文学でいうならあの「クリスマス・キャロル」のディケンズとかの---ああいったテイストが苦手で、ずーっと嫌いに思ってました。
 でもってほかの星座生まれのひとたち---猪突猛進の単純さが至純なまでに美しい牡羊座生まれと、ほれ、オレサマの世界を聴かせてやるぜ、という無自覚な傲慢さがなんとも愛らしい獅子座生まれ---いわゆる「火」の星座群アーティストの芸風に特に惹かれてました。
 きちんと統計とったわけじゃないからはっきりとはいいかねるんだけど、友人連の評価なんかもざっとまとめていくと、どうも水瓶座生まれのひとは、自分とおなじ水瓶座生まれの藝術家の藝術を疎んずる傾向が導けるような気がします。
 むろん、これは水瓶座だけにかぎった話じゃなくて、牡牛座生まれのひともおなじ牡牛座のアーティストの藝術を過小評価したり、天秤座生まれのひとも天秤座の藝術家の藝術を「調子がよすぎる」みたいな感じで忌避するような傾向は、やっぱりあると思うんですよ。
 思うにこれは、自分と同質のモノを評価する場合、おのずと点数が辛くなるってアレではないかしら?
 誰だって自分にない特質に惹かれるのはごく自然なことだし、隣りの芝生が青く見えるっていうのも、ひととしての必然でせうから---。

 しかしながら、40の坂をこえたあたりから、そのような自分の偏った性癖の眼鏡を乗りこえて、ようやく水瓶座のアーティストの芸風を素直に認められるようになってきたんですね。
 この門戸解放のきっかけはなんだったのかな?
 ひょっとして、それは、トリフォーだったかもしれない。
 映画好きならご存じでせうが、トリフォーっていうのはフランソワ・トリフォー、1932年の2月6日にパリで生まれた、水瓶座生まれの映画監督のことなんです。
 あのゴダールなんかと同世代の、ヌーベルヴァーグの世界的な巨匠のひとり。
 代表作は、「大人は判ってくれない」とか「ピアニストを撃て!」とか「アメリカの夜」とかあのあたり---。
 同期のゴダールなんて見るからに才能の塊で、新作のたびに圧倒されたものですが、イーダちゃん的にいうなら、心理的に軍配をあげたいのは、むしろ圧倒的にこっちのトリフォーのほうなんですよ。
 才能は---悔しいけど、ゴダールのほうが上かもしらん---しかし、瑞々しい抒情の純粋性って見地からいったらね、この青春期のトリフォーに勝るひとはそうはいまい、といまも考えています。
 特に、同期のゴダールといっしょに、ジャン・ポール・ベルモンド、ジーン・セバーク主演の「勝手にしやがれ!」を撮影しているときに撮りはじめた、初期作品の「大人は判ってくれない(1959)」の胸のつまるような、切なくて、それでいて同時にノスタルジックな、あの圧倒的な抒情性ときたら!
 これは、映画史上、稀有な作品じゃないか、と僕は思ってるんですが。
 なにしろ、コレ、素直なんですよ---小技がない---ハッタリも斬新なテクも裏ワザもほとんど使わずに、旧来のクラッシックで素朴な物語技法だけで、パリの一不良少年の転落の歴史を、誠実にかつ地道に撮りだめて、しかも、それが結果として、極上の生きた「ポエジー」として結晶化してる…。
 これは、狙ってできるようなモンじゃありませんや。
 生誕に偶然までもが見方した、神に愛された傑作といいきっちゃっていいんじゃないかな?
 (ちなみに、ページ冒頭のフォトは、その「大人は判ってくれない」の一場面。少年院から脱走したルネ少年が、生まれてはじめて海を見るラストシーン)
 作中のどのシーンにも---家出のシーンにも、バルザックの祭壇にロウソクを灯すシーンにも---この主人公の少年・ルネを真摯に見つめるトリフォーのまなざしが、画面の背後からルネの肩口に寄りそって、息をひそめて、そっと貼りついているんです。
 主人公・ルネの苦悩や焦燥、喜びや怒りにあわせて、黒子であるところのトリフォーのこの呼吸がいかに繊細に、微妙に変化するのか。一見淡々とした観察としか見られかねないこの詩人のまなざしに、果たしてどれほどの労力と愛情とが賭けられているのか。映画が進むごとに、それが、痛いほど感じられてきます。
 これほどの感情移入は、はっきりいって珍しいんじゃないか、と思います。
 こんな風に感情移入しまくりのラインで撮っちゃうと、フツーは作品自体クサくて見られないモノになっちゃうか、監督の視線の強さに無意識の反発を覚えて、お客が作中世界に入れなくなっちゃうとかしそうなものなんですが、なぜか、この映画は見ていてもそういうことにはならないの。
 これほど真摯に、かつ熱く見つめているというのに、その視線が邪魔にならないってふしぎです。
 ゴダールなんかはどのシーンにも、監督自身のウンザリ視点がウザイほど貼りついていて、映画を見るうえでの障害になりそうになっているくらいだというのにね。それとまったく対照的なんですよ。
 この手の視線の「無私」加減---本人的にはものすごーく熱くなってるつもりなのに、それが個性としての自己主張の押しに結びつかないというか、自己主張しつつも、なぜかそれが「引き」の気配として相手に感知されるというか---これが、ひょっとして水瓶座独自の主張のスタンスなのかな? と、このごろ僕は思うようになってきました。
 占星学の大御所の松村潔氏にいわせると、水瓶座を含めた「風」星座に共通する特色は、「拡散」だということです。
 むーっ、なるほど、「拡散」か…。
 そう取れば、僕が長年にわたって、アチチの「火」の星座群---特に牡羊座や獅子座に対してもっていた、水瓶座のコンプレックスの要因も解けるかもしれません。
 つまり、水瓶座生まれのイーダちゃんは、自身の星座に対して、なんとも浮き世離れした弱々しい特性をずっと感知していたのですよ。自分的には、それは、世間を渡るうえで、非常に不利になる特質だと感じてました。
 なんというか、水瓶座という星座には、自身の肉体を寄りどころにして、思いっきり世間と闘って、自分の欲望やら野望をガンガンかなえていこうという執念が薄いというか、元々その手の野心が欠落してるようなところがあるんですよ。
 よくいえば、これは無欲ということになるんだろうけど、この世を魑魅魍魎渦巻く阿修羅界と定義した場合、この種の無欲者はタラットカードのゼロ番「ザ・フール」そのものですからね。
 牡羊座や獅子座となるとその点全然ちがうの---彼等はもっと生臭い生活力をたんまり所有してる、というか、彼等のもっている「生き抜いてやろう」という一途な執念には、淡泊な水瓶座風情には到底及びがたいものがある。
 生きるということに対して、彼等は非常に貪欲に、しゃにむになっているように僕からすると見えるわけ。
 僕は、知りあいや恋人の瞳のなかに、それの顕れを感知するとき、いまでも小動物のようにたじろぐんですよ。
 ああ、自分は動物として不完全だ。もっと生きることに対してしゃかりきに、がりがり亡者にならなくちゃ、このさきとてもやっていけないゾって憂鬱になるんです…。

 総論---自分の性癖だけを頼りにかようなまでの論を振りかざしちゃイカンのでせうが、僕は、水瓶座生まれっていうのは、基本的に闘争には不向きの星座だと思ってるんですよ。
 これは、徒然その83で「☆格闘家のための太陽星座別人名録☆」をつくったときにも痛感しました。
 ファイターの数が、ほかの星座群に比べて圧倒的に少ないんですもの。
 仮に、人生が野生のジャングルだとすると、冷静に見て、水瓶座生まれには生存のチャンスは少ない、と読まんわけにはいかんでせう。
 僕的には、それがひどいコンプレックスなんですよ、いまも。
 理想としては梶原一騎みたいに---ちなみに、あの昭和漫画の象徴・梶原一騎氏は、乙女座生まれです!---あくまでも雄々しく、かつきらびやかに闘いたいんですよ、僕の内面の背伸び好きの坊やはね。
 しかるに、僕の内面の生来のスッピン顔は、梶原一騎というよりは、むしろあだち充寄りなわけ。
 うーん、「タッチ」や「みゆき」はそれなりによくできた作品だと思うけど、いざ鎌倉という修羅場局面になると、やっぱり闘争心の総量において「あしたのジョー」とか「空手バカ一代」とかには及ばない気がしますもんね…。

 さて、ここまで読んでこられて、鋭い方はそろそろお気づきになったかと思いますが、僕は、あらゆるものを「闘争」と結びつけて考えるクセがあるんです。
 僕的なコンプレックスの発生要因は、すべてがそこに帰着します。
 なぜ、そうまでして「闘争」にこだわるのか?
 と問われれば、たぶん、自分本来の性格が、人一倍臆病なビビリ気質を有してるからだと思います。
 分析力って技自体、そもそもが不合理なモノから受ける恐怖を無化するために編みだされたテクですもん。
 逃げたがりの心情が、かえって天邪鬼に恐怖の本体に接近していっちゃうという、この矛盾したメカニズム。
 僕は、水瓶座の諸作家の作品のあちこちから、この手の「体臭」を嗅ぎとってしまう。
 水瓶座って、そう、他の星座群なんかとくらべると、やっぱり現世臭が弱い、というか総じて淡いんですよ。
 それを、エロス(男女間の肉身の生々しい愛のこと)ならぬアガペー(性別に囚われぬ神の愛)の顕著な表れだ、なんていうひともいますが、いやいや、そんなのはうそだと思いますね。
 肉身の愛の「エロス」こそ何よりのリアルです。
 だからこそ僕は、この「エロス」の上に立脚して見事な花を咲かせている、牡羊座や獅子座生まれの作家の、苦闘する汗まみれの、生々しい藝術に魅了されるわけ。
 水瓶座の作家のよくいわれる「精神性」っていうのは、逆に、この世にうまく立脚できてない、存在係数の低さの顕れ、なんじゃないのかな…。


                               
                                    <イラスト:イーダちゃん>


 といったようなわけで、水瓶座の作家たちとはいまだあんまり肌があっているとは思えないイーダちゃんなんですが、そんな僕にしても、やっぱり一目置くような水瓶座の作家さんも少数はいらっしゃるわけでありまして。
 で、今日やりたいと思ったのは、そんな作家さんのざっとした紹介なんですよ---なんか、今回はおっそろしく前口上が長くなっちゃいましたけど。
 てなわけでラングストン・ヒューズです---。
 ご存じですか?---ラングストン・ヒューズ---彼、1902年の2月1日生まれの、アメリカの、ブラックの詩人なんです。
 年齢からして、公民権法以前のアメリカを肌で知っていらっしゃる方。胸にじわーっと染みこんで、その余韻が長いこと消えないような、暖かくてブルージーな詩を数多く残しました。
 論より証拠、まずはこの一点---

        My People

    夜は美しい、
    わが同胞たちの顔もおなじ。

    星は美しい、
    わが同胞たちの目もおなじ。

    美しい、太陽も、また。
    美しい、わが同胞たちの魂も、また。
                    (木島始:訳)

 ひさびさ読んで、じわーっときました、いいなあ…。
 けど、このひと、やはり根本が非常に水瓶座的ですよね、視点の位置がとってもアクアリアン。
 水瓶座の作家って、あえて肉体の外側から対象を見つめようとするとこがあるんですよ。普通だったら自身の後頭部から対象にむかってまっすぐ伸びている、己が視線の矢を、あえて自身の後頭部スペースから外そうとするというか---「火」の星座の牡羊座や獅子座とちがって、自分の肉身を通して対象と交わろうとするのを厭う傾向というかね---そのような性癖がどうもある。
 「それが、水瓶座的な空気なんだよ」といわれれば、たしかにそうかもな、とある程度納得できそうな感じもするんですが、どうにも僕はその結論にうなずきたくないんだなあ。それが難儀なとこなのよ。

 さて、水瓶座の有名どころであとひとり---本日のメインデッシュとして---今度はパリ生まれの、ジャック・プレヴェール氏の紹介といきますか?
 この方もかなり古い世代のひと---ラングストン・ヒューズと同世代の、1900年2月4日生まれの、水瓶座の詩人です。
 いちばん有名なのは、シャンソンのスタンダードの「枯葉」の作詞者としての顔かなあ。
 それとも、フランス映画「天所桟敷の人々」の脚本家としての顔のほうでせうか。
 いずれにしても多才なひとでして、このムッシュ・プレヴェールは、いろんなところで多くの仕事をしてるんですね。
 そのどれもが今日の視点から見ても興味深いものであることはほぼまちがいないんでせうが、彼の仕事のなかで僕がもっとも傾注してるのは、あの「枯葉」ほど有名じゃない、でも、読んだ瞬間、胸底に一陣の爽快な風が駆け抜けていくような、以下の一篇の詩なんです。
 ま、とにかく目を通してみてください---ほい。

          劣等生

      彼は頭でノンと言う
     けれど 心ではウイと言う
    好きなひとにはウイと言うが
     学校の先生にはノンと言う
      彼は立ちんぼうのまま
       質問を受けている
     すっかり質問が出そろうと
    いきなり げらげらと笑いだし
     何もかも消してしまう
       数字も 単語も
       年代も 人名も
        文章も 罠も
     先生からはおどしつけられ
    できる子たちにからかわれても
     いろんなチョークで彼は書く
        不幸の黒板に
       幸福の顔かたちを
              (平田文也:訳)

 如何です? いい詩でせう?
 口のなかでこっそり朗読すると、なおよろし。
 この詩本来の高貴な芳香が、口腔内の上顎部分をふわーっと立ちのぼっていくのが体感できるはず。
 特にラストの2行---これを読んだ瞬間、貴方の背筋をどんな風が吹きぬけていったでせうか?
 僕はねえ、この詩がもー むちゃくちゃに好きなんです。
 この詩がなけりゃあ、ええ、ひょっとしてジャック・プレヴェール自体に関心をもつこともなかったかもしれない。
 それくらい超・好きなの!---というかこの詩って、トリフォーのあの名画「大人は判ってくれない」を、この一篇でほとんどいいつくしちゃってる気味すらありますよね?
 うーむ、素晴らしい---水瓶座独自の、己が本能臭から遠去かろうとしてるきらいは相変わらずあるけれど、にもかかわらず、これは、まったく素晴らしいですよ…。
 難しい言葉はまったく使ってないのに、人間の心のおっろしい深みまでまっすぐに届いてくるこのまなざしの素早さときたら、まるでモーツァルトの音楽のようではないですか---水瓶座作家の淡すぎる自我臭に不平たらたらだったイーダちゃんですが、ここに至って、初めて水瓶座生まれであることに誇りがもててきたような次第です…。


                 ×          ×           ×

 まあ、話としてはだいたいこんな感じでせうかねえ。
 占星術に関心のない方には、まったくのところ非科学的すぎて、読めない内容だったかも。
 そのへん勘弁、ご容赦あれ---ただね、イーダちゃん的には、自分が水瓶座生まれであるという事実が、長いことほんとに重荷だったのでありますよ。そのことがどーしてもいいたかった。
 最近、ようやく自分に与えられたこの運命と、なんとか友人付きあいできるほどの大人にはなってきたのですが、牡羊座や獅子座に対する片思いにも似た憧れの気持ちは、いまだにくすぶりつづけて消えないままですね。
 あの井上陽水さんは、二階の窓から祭りの神輿が通りすぎていくのを見てるのが好き、なんてことをまえにいっていましたが、僕にいわせるなら「陽水さん、貴方は乙女座生まれなんだからそんなこといっちゃダメ、それこそまさに水瓶座のスタンスなんですから」といったようなことになりそうですね。
 ええ、水瓶座という星座のなかには、なんというか非常に傍観者的な目線が、あらかじめ混入されているのですよ。
 僕はね、この傍観者みたいな、悟りすました、エセ坊主めいた目線がチョー嫌い。
 愚かであってもいい、クールな傍観者でいるよりは、熱き行為者でありたいと思います。
 これからさきの人生においても、二階の窓からの祭り見物より、叫びながら、汗まみれになって神輿を担ぐほうの役を選びたい---ええ、先生からは怒られ、生徒たちから馬鹿にされても、プレヴェールの描いたあの劣等生のように、さまざまな色のチョークでもって、「不幸の黒板に幸福の顔かたち」をしゃにむに書きつづけていきたいものだなあ、とイーダちゃんは切に願うのでありました…。(^.^;>