兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ろりともだち(その3)

2011-08-13 04:19:46 | アニメ・コミック・ゲーム

 前回のお話は、一言で言えば「ろりともだち」という怪作のために男性フェミニストと女性フェミニストの間に亀裂が生じてしまったのだ、という指摘でした。
「ろりともだち」は「男の友情」を描いた物語でしたが、フェミニスト村で生まれ育った東師匠は「友情」という概念を知らず、それを「ホモセクシャリティ」と表現した。それに対してフェミニストたちは「違う、まさにその漫画で描かれた心理こそホモソーシャルである、それは決して認めてはならない、悪しきものなのだから」といきり立った、という経緯です。
「ろりともだち」の赤井と山崎君の行動は決して許せないものではあっても、その心情は汲み取ってやりたいと考える東師匠と、何より「女を無視して男同士で仲良くしている」そのことが絶対に許すことのできないフェミニスト、という構図です。


 とは言え前回のエントリ、まとめきれずに投げっぱになっていたので、読んでいてよくわからない箇所もあったかと思います。
『ときメモ』の下りなど、意味不明ですね。
 要は「女の子に全方位でいい顔をするとしっぺ返しを食らうよ」と言いたかったのです。
 女というのは嫉妬深いものですし、中でもフェミニストというのは細かい流派に分かれ、互いにいがみあっている存在です。だからちゃんと「攻略キャラ」を絞って行動しようよ、ということを、老婆心ながら申し上げたわけですね。
 さて、では東師匠(そして有村師匠)の攻略キャラとは、一体誰でしょうか。
 昨今、「ラディカル・フェミニズム」と「リベラル・フェミニズム」との違いが強調される傾向にある、ということは幾度か書きました。
 ウィキペディアで「フェミニズム」の項を見ると、


フェミニズムは、近年、リベラル・フェミニズムと、ラディカル・フェミニズムとが対立している。フェミニズムの思想は多様であり、一本の思想と考えることはできない。


ラディカル・フェミニズムをフェミニズム全体を代表するものとして一般化するのは間違いである。リベラル・フェミニズム勢力のように女性が楽しめるような非暴力的なポルノを肯定する勢力もある。


 とあり、リベラル・フェミニストたちがぼくたちに対してまるでローゼン閣下よろしく、「我々はあなた方の味方ですよ、秋葉原のオタクのみなさん」と揉み手をしている様が瞼に浮かんでくるようですw
 なるほど、と思われたかも知れません。リベラル・フェミニストの忠実なしもべである東師匠、有村師匠を口汚く罵っているのはラディカル・フェミニストなのだな、と。
 事実、例のtogettrを見るとフェミニストたちは東師匠を


宮台よりましだと言ったことを撤回します。


宮台の友達にやはりろくな奴はいないな。。


「AVレイプ斡旋家 宮台真司」 「ペドレイプ激賞家 東浩紀」 何でどいつもこいつもレイプが好きなの?.


 などと罵り、また、有村師匠のウォッチスレでも確か、「有村は宮台に対して肯定的だが、宮台も既にフェミニストに否定された人物だ云々」といった意味あいのことが書かれていたように記憶しています。要はポルノ規制派のフェミニストは、ポルノ擁護派の宮台センセイや師匠たちが疎ましくてならないのですね。
 昨今、児童ポルノ規制法に対してオタク側の規制反対派が異を唱える時、「ポルノを規制しようとするフェミニストども」を敵視する論調が目に着きます。
 が、それに対しては規制反対派のオピニオンリーダー的な層が、「いや、フェミニズム自体は決して敵ではないのだ」と論調の舵取りをする傾向にあるように思われます。
 そうして見ると、東、有村両師匠の「攻略キャラ」はリベラル・フェミニストであり、それ故ラディカル・フェミニストたちに攻撃を受けているのだ、と解釈すればひとまずの辻褄は合います。
 しかし、とは言え、ではリベラル・フェミニストたちは本当にぼくたちの味方なのか、となるとそれは疑問です。一応リベラルの側であり、エロ漫画などのヴァーチャルなポルノに対しては容認派のように(現時点では)振る舞っている上野千鶴子センセイも、まず男女の性差そのものを認めていない、その意味でラディカル・フェミニスト以上にラディカルな思想の主であると言うことは「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”」などでも書きました。
 ぶっちゃければ、ぼくにはラディカル・フェミニストとリベラル・フェミニストの差異というのはポルノと国家権力とを秤にかけて、(政治的な計算から)ひとまず表現の自由に重きを置いている(ふりをしている)のが後者というだけで、その本質に変わりがあるとは思えないのです。
 こう考えるとリベラル・フェミニストたちは左派の大きな勢力側に取り敢えずついた、立ち回りの巧妙な人たち、という見方も可能です。その意味で師匠たちはむしろクラスで人気のある女の子、詩織ちゃんの攻略に成功したがため、ブスに疎まれている人たち、まさに憎むべきリア充どもであると捉えた方が正しいのかも知れません。
 そうして見ると、本当に「(´;ω;`)ウッ…可哀想すぎます。」と同情してみせるべきは師匠たちではなく、師匠たちに憎悪を向けるラディカル・フェミニストたちである、とも言えましょう。繰り返すようにリベラル・フェミニストたちだってポルノを好ましく思っているとはとても思えないのですから、ラディカル・フェミニストたちからは上野センセイたちは男性たちに媚びて利益を得ている、裏切り者のように見えているはずです。


 さて、前回の予告では「今回はロリ側の悪口言います」とか書いていた割に、結局長々とフェミ側の悪口を続けてしまいました。
 とっととロリ側の悪口を始めましょう。
 ぼくたちの住むこの近代社会は、個々人の人権をできうる限り尊重することを至上の価値にしています。しかし当たり前の話ですが、個人の欲望、エゴは往々にして他の個人のエゴとぶつかりあいます。近代における国家の役割はその仲裁役であるとすら言えます。
 では個と個のぶつかりあいをどう仲裁するのか、と考えた時、(これは大は国家から小は子供のケンカの仲裁をするお母さんまで)どうしても、「弱者性の強い個こそ率先して守られるべきである」という判断がなされてしまう傾向が出てくるわけです。
 女性という存在に対して弱者、尊重されるべき「個」としてのキャラづけを与え、ヒット商品として世に出すことに成功したフェミニズムは、まさしく近代社会の徒花とも、必然的存在とも言える……といったようなことは拙著でも述べました。
 そしてまた、フェミニズムは男性という存在を全て一枚岩の悪者に仕立て上げることで、女性という存在の仮想敵として設定することに成功した陰謀論でもあります。
 しかしそれは何もフェミニストだけの異常性癖というわけではなく、「個が一番尊いのだ」というイデオロギーを持つぼくたちの社会では、誰しもが自らのエゴを正当化したいがあまり、極めて容易に、「ワタシのエゴを受け容れないやつは国家権力の手先」という陰謀論へと導かれてしまうのですね。
 左派は往々にして物事を「国家権力を振りかざす悪者/キヨラカな弱者である我々個人」の対立構造で把握したがりますが、それも同じ理由によります。
 これらの構図を今回の騒動に当てはめると、「幼女とセックスするのは(例え漫画と言えど)許せぬ/漫画を自由に楽しみたい」というそれぞれ個人のエゴがぶつかりあったものである、と取り敢えず考えることができます。
 いずれにせよ本件については漫画を誉めただけの東師匠をレイプ犯呼ばわりしているフェミニストたちにどう考えても落ち度があり、理詰めで考えれば、彼女らの擁護はなかなか難しいと言えます。
 しかし、よくよく考えてみれば、東師匠を「ローゼン閣下くらい俺らの仲間」「ツイッター芸人」「エロ漫画評論家」「
鍵儲」と正しい認識で見ていたのは、ぼくたちくらいのものです。
「何だか知らないけれども東大のエラい先生が日本全国を幼女をレイプして回る漫画を激賞していたらしいぞ」と聞いたら、どうでしょうか(むろん、師匠は「行動は肯定できない」と言っているのですから、そこを無視するフェミニストたちはどうかと思いますけれども)。
 結構以前の話ですが、児童ポルノ規制法の反対派が、「
赤いランドセルと黄色い帽子、靴以外は全裸の女子小学生が、その全身の肌を切り裂かれて赤い傷を作っている」という大変に素晴らしいエロ同人誌の表紙をテレビだか何だか公の場で掲げて、オタク間からも顰蹙を買った、という一幕があったはずです。
 本人たちにしてみれば、「表現の自由の素晴らしさ」を謳いたかったのでしょうが、そしてぼくたちの目から見ればそれは確かに「
素晴らしい表現の自由の結果」なのですが、果たしてそれを一般ピープルがみたらどう思うか、です。
 反対派のコアな人たちは、「表現の自由」という絶対正義に寄りかかるあまり、そうした感覚が麻痺しきっている人たちが多いように、ぼくには思われます。
 今回の漫画についても、まず普通の人であれば生理的嫌悪を覚える種類のものなのだから、清々しい顔で「正義は我にあり」とばかりも言いにくいように思います。
 確かにフェミニストたちは「レイプは許せない」という正義に依拠するあまり、バランス感覚を逸しています。しかしぼくたちも「表現の自由」という正義に依拠するあまり、バランス感覚を逸している部分が大いにあるのではないか。
 そうした正義と正義のぶつかりあいは、傍から見れば、それこそ『仮面ライダー電王』ファンと『仮面ライダーW』ファンの大バトルと同レベルの、「何バカなことで争ってるんだ、あいつら」なものに見えてしまうのでは……いや、そうした場末のバトルになればなるほど、世間はまだしも了解可能なフェミニスト側の味方をしてしまうのではないか。


 そして、もう一つ。
 ぼくは前回のエントリでこの場末バトルに対して


 何だかフェミニストたちと東師匠が先を争ってホモのご機嫌伺いをしている光景が見えてくるようで、気分が悪くなってきます


 といった感想を漏らしました。
 おわかりになるでしょうか。
 物語用語に「マクガフィン」というものがあります。お話の中でイイモノとワルモノが奪いあうお宝を指す言葉です。ことに特撮やアニメの世界では「ふっふっふ、これさえあれば世界が征服できるのじゃ」なアイテムが度々マクガフィンとして登場します。
『仮面の忍者赤影』でいうところの「デウス・マリア・サタンの鐘」であり「黄金の仮面」であり『マシンロボ クロノスの大逆襲』でいうところの「ハイリビード」であり『世界忍者戦ジライヤ』でいうところの「パコ」です。
 今回のバトルは、ぼくには師匠とフェミニストたちが「ホモ」というマクガフィンの争奪戦をしているようにしか、見えませんでした。そこでは「ホモ」というアイテムを手に入れた者に正義の女神が微笑む、とのルールがまるで、あらかじめ決められているかのようです。
 そもそも、女性や子供という立場に立っているフェミニストたちは最初から、「自らが、マクガフィン」な存在でもあります。
 ぼくたちに必要なのは、そうした議論の持って行き方自体に欺瞞があるのだ、と気づくことなのですが、少なくとも師匠たちの振る舞いはフェミニストたちを羨望し、「ボクたちも自らがマクガフィンな存在になりたい」と考えているようにしか、見えません。
 東師匠が「ロリコン」と「ホモ」とを同じ「セクシャルマイノリティ」だからと、妙に寄り添わせたがっていることと、フェミニストたちがそうした師匠の手つきにこそ、怒り狂っているように見えることは、実に示唆的です。
 ぼくは以前、フェミニストたちの「マクガフィン性」を「フェミまんじゅう」と表現しましたが、ここではフェミまんじゅうのシリーズ商品としての「ホモまんじゅう」の奪いあいが行われていたのだと言えます。
 しかしぼくたちはフェミまんじゅうやホモまんじゅうによって飢えを満たすという選択を、毅然と拒まなければならないのではないか。
 師匠たちの振る舞いを見ていると、そう思えてならないのです。


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2 コメント

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こんばんは。また書き込みさせていただきます。 (Unknown)
2011-08-13 19:00:39
こんばんは。また書き込みさせていただきます。


個人と個人のエゴの衝突というのは近代社会では避けようのない事態なわけですが、フェミたちはそこに「女=善、男=悪」という歪んだ図式を持ち込んでしまうんですよね。個々の男女関係や家族内部に権力構造を見出す、なんてのはその典型だと思います。
その結果、本来は女と同等程度には尊重されるべき個であるはずの男が「どんな汚い手で貶めてもいい悪」とされ不遇をかこつ。
男を権力者=悪者に仕立て上げるという点でラディカルだろうがリベラルだろうがフェミは変わらないわけで、両者の区別を叫ぶのはたぶん、フェミへの批判をかわすためという政治的思惑しかないんだろうと思います。どっちも男にとっては害毒でしかない。
自分はそんな現状を打破するには、フェミたちが後生大事に抱えている「ワタシたちだけはサベツされているカワイソウな人たち」という観念(これがつまりマクガフィンということなんだと理解しましたが)を打ち破る、つまり「差別」という語を男性にも適用することで連中の権力意識を揺さぶることが有効だと思っているんですが、兵頭さんはより先鋭的というか、理想主義的ですね。被差別者の立場という「まんじゅう」を受け取る事自体を拒否するというのは、差別と闘うのが絶対正義なこの世の中ではなかなか難しい気がします。
長々と失礼しました。素人の繰り言と思って読み流してください。
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>両者の区別を叫ぶのはたぶん、フェミへの批判... (兵頭新児)
2011-08-13 20:53:42
>両者の区別を叫ぶのはたぶん、フェミへの批判をかわすためという政治的思惑しかないんだろうと思います。


そう思います。
いや、実際にこの人たちは仲が悪いと思いますが、少なくともぼくが引用したウィキペディアの記述は、世間様に「我々はあいつらと違うからな」と(明らかにリベラル側の視点で)言っているように見えます。


>兵頭さんはより先鋭的というか、理想主義的ですね。


そうですね。
というのも、根底を揺るがさないことには、どうしても「新たなワルモノ探し」が始まるだけだと思うからです。
有村師匠など、「頼むから俺だけは見逃してくれ」とフェミニストたちに必死で生け贄を差し出そうとしている人ですよね。


ただ、「女性の、絶対的な弱者性」が揺らぎつつある今は、その大仕事を成し遂げるチャンスでもあると思うのですが。
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