ネットマガジン『ASREAD』様でちょっと書かせていただきました。
「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件ーーその2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?」です。
前回のものの後編。
「ミサンドリー」、或いは「男性差別」という言葉に対して、現状では最も突っ込んだ分析がなされております。
ともあれご一読いただければ幸いです。
「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件ーーその2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?」です。
前回のものの後編。
「ミサンドリー」、或いは「男性差別」という言葉に対して、現状では最も突っ込んだ分析がなされております。
ともあれご一読いただければ幸いです。
が、
>サブカルは「自分たちの外の誰か」に寄り添うポーズを取ることで、愛を得ようとしているのです。
>男女には最初から、圧倒的な「愛され格差」があるのです。
これらは鋭い指摘と思います。
膝を屈して愛を乞うているのに、それが叶えられない
恥ずかしさ&怒りは、とても大きいと思います。
羨ましさもあるでしょう。
もう一点、サブカルVS.オタクという対立軸と別に、
オタク内の純度の差もあると思います。
いまや、オタク陣営が多数派となっている。
すると、「世間体は捨てた。自身の信念を貫く」旧来のオタク層に
「今流行っているオタク趣味にとりあえず寄り添うポーズをとることで、愛を得ようとしている」層が紛れ込んでいる。
オタク層は、それ自体が「サブカルVS.オタク」的な対立を内包しています。
つまりフラクタルな構造になっているので、
どこで「内」と「外」を分けるのか、論者のスタンスとネーミング次第、という気がします。
この点、兵頭氏はいかがお考えでしょうか。
また、愛され格差についてもそうですね。こういうことは
男性にとって、口にすること自体が恥ずかしいとされてきたことです。
私は今でも恥ずかしいです。
その上で……、「愛される」事を希求する切実さには
性差があるのかもしれません。
また、「愛される」事に男女格差があり、これが女性の「主戦場」であればこそ、
その主戦場で高い評価を得られないことは、女性が心底恐怖することなのかもしれないですね。
(仕事上の立身出世や評価の切実さに、男女で格差があるように)
その恐さを、女心の機微をわかってよ、というのは、頷ける話です。
ただ、兵頭氏としては、「散々ジェンダーフリーの差別のといってきて、それは筋が通らない」
「では、男心の機微をつかむ努力をしてきたのか?」
「なぜ、男性が萌えキャラに奔るのか、虚心坦懐に己の胸に手を当てたことがあるのか?」
という話で、それも尤もです。
どうしようもない状況ですが、「格好は悪いけど、ぼくは自分のニーズに没頭する」
にヒントがあると思います。
そもそも差別も攻撃も愛への渇望も、
その根底に「他人から愛され、支えてもらわないと保てない、弱い自分」意識があるゆえです。
この前提、本当に正しいか?本当の本当に正しいか?
(以前も書きましたが)かつてのプロ野球人気のように、壮大かつ堅牢に見えるが、
その実、空虚な幻想ではないか?
というのが、今私が感じていることです。
>オタク層は、それ自体が「サブカルVS.オタク」的な対立を内包しています。
これは非常に慧眼ですね。
ぼくは時々「オタク界のトップ」という言い方をして、この言葉が大変に評判が悪いのですが、要は「オタク界の文化人面をしてるヤツ」「インテリぶってるヤツ」「意識高い系」「業界で地位を持っている連中」「威張っている上の世代」などなどかなりいろいろな意味あいを包含しているのですが、これはまるまる「サブカル」と重なりあいます。
オタクとサブカルの違いについては「オタク文化」「サブカルと呼ばれる文化」を念頭に置いた時、比較的きれいに分けることができると思うのですが、オタク気質、サブカル気質とでも称するべき性質を重視した場合、両者が両方共を持っている、それ故に「内と外を分ける」ことはなかなか難しくなると思います。
若い世代では、おっしゃるように「流行り文化であるオタク文化に乗っかっている」人々もいるでしょうが。
(ただし、「リア充/非リア」といった言葉がぼくたちの文化の中で広範に使われているなど、諸々の現象を鑑みるに、果たしてどこまで「リア充オタク」がいるものか、疑問ではあるのですが)
>そもそも差別も攻撃も愛への渇望も、
>その根底に「他人から愛され、支えてもらわないと保てない、弱い自分」意識があるゆえです。
>この前提、本当に正しいか?本当の本当に正しいか?
>(以前も書きましたが)かつてのプロ野球人気のように、壮大かつ堅牢に見えるが、
その実、空虚な幻想ではないか?
う~ん、これは「他人の手が必要だ」のが「幻想」ということでしょうか。
ある程度でも、他人の手は必要なような……。